「田沼意次と相良」河原崎陸雄氏講演会
2025.6.23
昨日午前中、 掛川市立中央図書館で、河原崎陸雄氏の「田沼意次と相良」という演題の講演会があった。(「掛川地方史研究会」と「猫の手会」主催)
内容は、最近の新説というものではないが、田沼意次が決して賄賂政治だけの人ではないことを、細かい事柄を積み上げて実証しようとしたものであった。
まずは意次とその子孫の幕府での職歴を詳細に話された。原稿なしに切れ目なく話されるのだが、特に固有名詞など、不案内の受講者に、文字(漢字)が浮かんでこないので、理解しにくかった。
中で注目したのは、意次を失脚に追い込んだ面々の話。松平定信のことは言うまでもないが、意次の主張で郡上一揆に連座させられ、相良を追われた本多長門守忠央(空いた相良藩に意次が入っている)。加増で摂津の地を頂いた意次が、隣藩の岸和田城主岡部美濃守長備と激しく揉めていたなど、成り上がりの身で、当時としては強引と思える手法により改革を実施し、数々の敵を作ってしまったのが、田沼失脚の原因だったのだろう。岡部美濃守は相良城破却の時、その役割を買って、遠路はるばる相良におもむき、破却を主導したという。
賄賂政治というのは、失脚に追い込んだ面々が、主意を隠すためにでっち上げたものではなかったか。勿論、賄賂を取らなかったわけではないが、当時の政治が多く賄賂で動いていたので、何も意次だけが賄賂で政治を左右していたわけではないようだ。
意次の失脚、相良城の破却の後、意次の四男意正、孫の意尊が夫々若年寄に重用されるなど、失脚に追い込んだ面々がいなくなった後、田沼意次一統が復権することをみても、意次が目論んだ政策に支持者がいたことがわかる。
休憩をはさんで、意次が相良藩に貢献し、残した事どもが説明された。
1.意次が贈答品に使った相良産のサガラメ(アラメ)を全国的に有名にした。
2.人を殺めて、獄中死したはずの平賀源内は、実は意次の手で助けられ、相良藩に匿われ、生き延びていたという話。源内が相良で住んだ屋敷は「源内屋敷」と呼ばれて現存していた。
3.塩の生産を勧め、米の年貢に代わって、塩年貢を始めた。
4.萩間川に千石船が入れるようにして、相良港を開く。
5.相良の諸神社で「御舟神事」が始まる。
6.薩摩の難破船を助けた際、頂いたサツマイモを、天明の飢饉に、増産奨励した。
7.火事が多い相良町を藁屋根から瓦屋根に替える。
8.御殿医に花岡青洲の弟子、内田大山ほかを迎える。
そんなこんなで、盛り沢山の2時間であった。
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