「あさしお」の窓から浜名湖 養殖青のりの棚が並ぶ 2026.3.3 一晩、 浜名湖湖畔、「活魚の店あさしお」に宿泊してきた。息子が浜名湖サイクリングで、抽選に当たったペア宿泊券で、 来ることはまずない、こんな旅館に宿泊することになった。 昨日、午後三時チェックインを目指して、午後一時頃に出かけた。国道一号線のバイパスを行くと一時間半は掛からなかった。早く着いたので、新居関所でも見学しようと、行ったが、今日は定休日。そうか今日は月曜日か。他の旧旅籠の資料館なども休みであった。月曜日だったことを忘れていた。予約が簡単に取れたわけである。 それでも時間はつぶせて、3時過ぎに 「活魚の店あさしお」に入った。他に宿泊客は居そうになかったので、「今日は貸し切りかねえ」と聞けば、部屋に案内してくれた女性は「後で二組来られます」と答える。 部屋は二階の和室二部屋の仕切りを外して、一部屋になっていて、12畳ほどの広さか。トイレ、洗面、風呂は別で、共用になっている。窓を開けて眺めると、すぐ直下に散策道があって、すぐに浜名湖である。直下から緑の養殖棚が広がっていて、青のりの養殖場であった。浜名湖の向こうに浜名バイパスの浜名大橋が見える。左手の湖中に赤い鳥居が見えるが、ここから見えるのは真横からの鳥居である。今日はどんより曇っているが、天気が良ければ夕景は美しいようだ。 夕食は魚尽くしの会席料理で、あまり食べたことのない魚が出た。献立表から拾うと、マグロ、マゴチ、イサキ、紋甲烏賊、白魚、メヒカリ、浜名湖産カキ、結構お腹いっぱいになった。 どういう人が泊まりに来るのか聞かなかったが、釣り客などが多いのかもしれない。会席料理だけを食べにくるお客も多いと聞いた。 「これで二組目です」とは、当たりくじが三本あって、一組目の客もやはり息子さんが、 当てたくじだったという。いずれも当たったくじで親孝行か、と思う。 今朝は大雨になってしまい、どこへも寄らずにまっすぐ帰宅した。ゆっくり休めたような気がしていたが、疲れがのこったように思う。帰宅して一寝入りした。 ネットで見ると、この店はまだ若い夫婦で経営しているようで、見覚えのある夫婦の写真が出ていた。そういえば帰りがけに、丸刈り小太りの男性が挨拶に出ていた。あの亭主が料理担当なのだろう。この宿の料金は一泊一人、平日は9000円だとあった。このくじはペアだ...
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自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(9)
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名勝左富士 2026.3.2 今夜は、浜名湖湖畔の宿で、女房と旨い料理を食している予定なので、ブログは前夜用意して、時間指定しておいたので、あしからず。 東海道ウォーク三日目の続きである。 ************************************* 昭和放水路を渡った松林の中に、増田平四郎翁とスイホシの記念碑があり、翁の像が建てられていた。この辺り一帯は駿河湾から押し寄せて来る砂に阻まれて、排出されない水が浮島沼に代表される湿地帯を形成していた。翁は明治二年、排水路を造って大干拓(スイホシ)に成功した。しかし、その後排水路は津波で埋もれてしまった。昭和放水路はその排水路とほぼ同じ位置に造られている。今でも放置すれば埋まってしまうのであろう、以前『海岸歩き』の時も放水路は工事中だった。 『沼田新田の一里塚』は見当たらず、少し先の道端に自然石の道しるべを見つけた。『春耕道しるべ 第一号』と木柱が立っていた。石の表面に薄く文字が彫られ、富士山や旅人の姿などが彫りつけてあった。仁藤春耕という人が建てたものらしい。 旧東海道にはもう一人、排水のために一生をかけた男がいる。高橋勇吉翁は、水はけが悪いうえに、海から塩水が逆流して度々作物を枯らすのに心を痛めて、その排水工事を手掛け、嘉永三年、ようやく『天文堀』として完成した。しかし今ではその堀も残っておらず、ただ街道沿いに功績を記した碑が一面残っているだけである。 『吉原の毘沙門様』から富士山 『吉原の毘沙門様』で有名な香具山妙法寺は大祭が二月四日~六日にあり、ダルマ市で賑わう。往路の電車で吉原駅にすでに毘沙門天の大祭の看板がホームの柱毎に取りつけてあった。妙法寺は中国風の極彩色の香炉場や丸い帽子を被ったような建物があり、一風変わった寺院である。鈴さんが代表で上がって御朱印を頂いてくれた。大祭前で忙しいらしく、初めは朱印だけだと言っていたが、結局筆で書いて頂いた。本堂側から富士山を入れた写真を撮るのに、向かいの大昭和製紙の高い塔が入って邪魔になった。境内では大祭に備えて古いダルマの納所の準備が進んでいた。 声高に昼食の場所に付いて話して歩いていたところ、道行く人が駅まで行けばあると教えてくれた。吉原駅の駅前食堂の『松新』で、ラーメンに小焼飯のAセットを頼む。デザートまで付いていて、かつ丼を頼んだ和さんと臼さんに、鈴...
自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(8)
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阪神淡路大震災で最も驚かされてのはこんな画像であった 今読み返すと、我ら「東海道ウォーク」はこんな時代だった この地震を皮切り に、日本全国に大地震が続発して、現在に至っている 2026.3.1 東海道ウォークも三日目である。 ************************************ 富士山三昧、仕上げは富士川赤富士 原宿 → 吉原宿 → 岩淵宿(間宿) 日時 平成7年1月29日(日) 快晴 東海道ウォーキングの第二回を終えた次の日の早朝、淡路島を震源地とした直下型の大地震が発生した。その後、日本をひっくり返すような大騒ぎとなった阪神大震災の幕開きであった。神戸や西宮ではどんな地震にも壊れないと言われていた高速道路が、新幹線が、ビルが次々と脆くも潰れてしまった。百数十ヶ所から火が出て、倒壊した家屋が次々と燃えていった。道路が寸断されて消防車は火災現場まで行けず、やっと到着しても消火栓が潰れて放水出来ず、燃えるまま見ているしかなかった。 地震とその後に起こった火災による犠牲者は5000人を越えた。倒壊したビルや家屋や、一面の焼け野原は戦災の跡を思わせた。日本の西と東を結ぶ大動脈の全てがズタズタに切断されてしまった。その日から人々は二本の足で歩くことを始めた。買い出しに行く人、被災した知人を避難所に見舞う人、五時間も六時間もかけてひたすら歩く人の列が蟻の、行列のように続いた。皮肉にも酔狂な我々のようなウォーキング族が、毎日テレビに映っていた。 こんな時に非生産的なウォーキングで申し訳なくもあるが、気分の乗った時に行ける所まで行こうと出かけた。今朝は寒いと思い、ジャンバーに背当てを着けてきた。随分温かい。富士山は愛鷹山の西側に移っていた。 原駅から少し北へ歩いて旧東海道へ戻る。高嶋酒造前に富士の霊水が出ていて自由に飲むことが出来た。酒造りに使っているだけあり、何やら旨い気がする。因みに高嶋酒造の銘柄は『白隠正宗』という。 原の一里塚は『一里山』という店の屋号に唯一残っていると書かれていたが見つからなかった。海岸にあるという『要石』にも何の標識もなく、『原宿以西の松並木』も見当たらず、ひたすら真っ直ぐの道の狭い歩道を歩く。和さんは甍が何重にも重なる大きな住宅に感嘆の声を上げる。とにかく立派な家が多い。『桃里』という集落がある。かつてはこの地を開墾した鈴木助平...
ワードのフリガナ入力で、ひらかな変換が出来ない!
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庭のシュモクレンが一斉に咲き始めた 2026.2.28 パソコンが新しくなって、とまどうことばかりだが、ここまで何とか凌いできた。今日、ワードを使っていて、漢字にフリガナを振ろうとしたが、入力がすべてアルファベットになって、ひらかなに変換できない事態が発生した。これでは満足に古文書の資料が作れないではないか。 色々とパソコン上で、あれこれと試みてみたが、どうにもならず、仕方なく購入した店に聞こうと電話をした。 電話に出たのは女性で、原因がわからない。ここでは何とも答えられないという。今までのパソコンでもワードで普通に出来ていたのだからというが、反応は「わからない」というだけ。最初にこの電話は録音させてもらうと断られている。 これ以上言うとクレーマーになると思った。 質問を変えて、これまでもそんな質問を受けていないかと聞けば、そんな質問を受けたことはあるという。その時は、別の場所でフリガナを書いて、コピーを取って貼り付ければできると話した。それでは作業が大変だが、というと、そのお客様はその後パソコンを立ち上げたら直っていたと聞いたという。やってみるしかないかと、電話を切った。 早速、作業中のワード画面の空いたところへフリガナを書いて、コピーアンドペーストで入力し たが、フリガナを振るたびにこの作業は大変だと思った。 作業を続けようと、フリガナを書いてみると、何と仮名変換が出来るではないか。何度か試したが、今まで通りに使える。まるで。コピーアンドペーストでひらかなをコピーしたことで、パソコンのこの機能が途端に目覚めたように感じた。 先ほどは少しきつく言ったかと思ったので、再度電話して、一度 コピーアンドペーストしたら変換機能が目覚めたみたいで、支障なく使えるようになったと、経緯を説明して、礼を言って電話を切った。今後、同じ問題が起きたら、その担当は処置として、一度 コピーアンドペーストを勧めることになるだろうと思う。 午後一番で散髪屋に行く。店主が歴史に興味を持っていると聞いていたので、解読版の「大地震の記」を進呈した。散髪をしながら店主の話に、ネットでつながる仲間から、近江と遠江は京都に近い方が近江、遠い方が遠江というと聞いた。今まで江戸に近い方を遠江、遠い方を近江と、どうして反対なんだろうと不思議に思っていた。そう、「江」は江戸のことだと思っていたから、真逆だったと...
自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(7)
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原、松陰寺山門 (現在) ネットより写真拝借 2026.2.27 午前中、Nさん事務所へ行き長話。忙しいところ長居して申し訳ありませんでした。 「大井河源記」(解読版)でプリンターを酷使したせいか、プリンターの調子がおかしい。何枚もプリントしたあと、途中で止まって、後のプリントを受け付けない。電源を入れ直すと、また初めからプリントが始まる。結果、倍近くのプリントが出来てしまう。たくさんプリントしたいため、余分にはならないからOKではあるが、何とも理解し難い。 東海道ウォーク、二日目ももう少しである。 ******************************************************************************************** スタンプを貰うために一時間ほど余分に掛かってしまった。やっと旧東海道に戻って、歩き始めてすぐに、『千本山乗雲寺』に寄る。潮の害に難儀している農民を救うため、砂浜に松を一本ずつ植えて千本松原を造ったと言われる増誉上人が開山したお寺である。境内は日本庭園で埋め尽くされており、立派な新しい鐘撞堂が建立されていた。釣鐘も新しく鋳造されたばかりのものであった。このあと街道筋で見た多くの寺院で、門といい、本堂といい大変立派な新しい建物が目立った。これはバブルで得たお金の寄進で出来たものかもしれない。何年か立って、このバブルの時代に出来た多くのものが、後世の人の語り草になるのであろうか。境内の隅に若山牧水の墓があり、墓を囲む石柱に次の短歌が刻まれていた。 聞きゐつつ たのしもあるか 松風の 今は夢とも うつつともきこゆ 牧水 『従是東沼津領』の石柱杭は八幡宮の前にあった。この八幡宮の由来については看板に細かい字でびっしり記されていたが、大昔から説き起こした長文に読む気持を無くした。この石柱杭は下部の『沼津領』の部分が失われていた。字体から西のものと一対をなすものであることは明らかであった。側に『沼津藩領境』の共通サインがあった。 沼津宿 0.9km → 【沼津市 沼津藩領境】 → 原宿 3km 『大諏訪の一里塚』を探しながら歩く。ところが見つけない内に次の目標の『神明塚古墳』の標識が出てきた。細道を少し入ると住宅地の中の小さ...
あさしおペア宿泊券
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息子がくじに当てた、ペア宿泊券 2026.2.26 もう一ヶ月以上前のこと、息子が浜名湖サイクリングに参加したところ、抽選に当たって、「あさしおペア宿泊券」というのをいただいた。我々夫婦にその宿泊券を使えばと言って寄越した。もちろん有難く頂いた。昔から、くじ運が悪いと自負する自分には、くじに当たることなど思いも寄らないことである。それを息子は軽々と当ててくる。 この一と月ほど、バタバタと忙しくて、予約をする気にはなれずにいたが、漸く一息ついて、今日予約を来月2日に入れた。まあ、旨いものを食べて来ようと思う。 午後、区内のSTさんに「歳代記」「大地震の記」「大井河源記」のそれぞれ解読版をもって伺った。いつもこのブログを愛読されて、色々と御意見を頂ける、貴重な方である。きっと読んで貰えるだろうとの思いで進呈した。また福用のSさんにも渡していただくように頼んだ。 「かさぶた日録」から、「かさぶた残日録」になって、古文書の解読を載せるのは、もうやめようと思った。必死に載せても、ブログのシステム側に都合で簡単に打ち切られてしまう。他所へ引っ越せばよいのだが、7000日分のブログを引っ提げて他所へ移るのもかったるい。自分的にはコピーを取ったが、公開は「残日録」だけにした。これでも、毎日書くのだから、付き合って下さる方は大変だと思う。 古文書の解読を載せるのは止めるといっても、古文書解読は止めるわけではない。今まで読んだ古文書も、まとまったものだけでも100冊以上ある。道楽だからこれからも読んでいくことになると思う。 それで考えたのが、解読文の冊子化である。自分のプリンターで刷り、製本して読んでくれそうな方へ進呈することにした。まずは自分の講座の受講者の方には進呈するつもりである。 STさんのお店(理髪店)に2時間近く居て話し込んだ。STさんは地元について、情報をたくさん持っておられるに、改めて驚かされた。また、客の合間に話に行こう。
自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(6)
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対面石にて 2026.2.25 午後、パソコンが壊れて、中止にした、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座の埋め合わせの講座を、榛原文化センターで実施した。今日は、仕事で講座へ出席できなくなったという一人を除いて、全員出席であった。この10人が 四月からの新年度にも継続参加してくれるであろうか。今日の講座で、手作りで出来たばかりの「大井河源記(解読版)」を受講 者全員に進呈した。 受講者のMさんは3月1日から四国歩き遍路に逆打ちで出かけるという。同行の士がここにもいた。帰ってからの話が楽しみである。Nさんから田沼の相良城破却の記録の文書を預かる。コピーを取らせていただき、次回返却する。 東海道ウォークは続く。 ********************************************************************************** 広い道を突っ切った所に「八幡神社」と「対面石」の看板が出ていた。探しながら歩いて、通り過ぎたかと心配になった頃、道路工事中の所に八幡神社の入口があった。工事で掘った穴を跳び越したところ、あっ!と警備員が声を上げた。穴に落ちて怪我でもされたら、警備員の落ち度になるのだろう。悪いことをしたと思う。後へ続いた三人は工事の穴を避けて廻った。 200メートルほどの参道を通り、檜林の奥に八幡神社はあった。拝殿には10数人上がって祈願祭でもあるらしく、祝詞や鳴り物が聞こえる。本殿は上屋が出来ていて見えないが、随分古そうである。本殿の左手奥に対面石という、腰掛けるにちょうど良い一対の石があった。 その昔、源頼朝が弟の義経と対面した時に、両者が座った石だという。そこで鈴さんと和さん、臼さんと自分の組み合わせで、その石に座って写真を撮った。対面の時に、食べようとした柿が渋柿だったため、ねじり捨てたところ芽を出したという柿の木が側に植わっていた。この対面石は元々先ほど横切った広い道の側にあったというから、柿の木も伝説に基づいて最近植えられたものである。 皆んなでトイレを借りた後、社務所で神主の奥さんから御朱印をもらう。昔はこの辺りの広い一角が神社の敷地だったが、年々売ってしまい今の広さになったのだと語る。しかし自分たちの代には一坪の土地も減らしていないと胸を張るように話した。 黄瀬川の手前に松並木が残っていて「松並木」...