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駿河古文書会の発表当番で(続き)

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庭の今年も終わりのツバキ 今日も花見には行かず 2026.3.28 昨日、駿河古文書会の発表当番だったことを記した。きょうはその続きである。 楽しくなければ、「古文書講座」を行う意味がない。古文書講座の受講者は、年を取ってからの楽しみで、受講している人がほとんどである。それに応えなければ、講座の意味がない。「楽しい講座」それが自分のモットーである。しかし、扱うものが地味なので、なかなか楽しくするのは難しい。 最初にどうすれば講座を聞く気になってもらえるか。次のような話をした。 学生時代の友人で大学教授、それも憲法学の教授になった友人がいる。ある時、その友人に、憲法のような堅い講義で、どのように学生たちを聞く気にさせるのか、そんなコツがあったら教えてほしいと聞いたことがある。 彼は、講義に限らず、どんなことでも最初が肝心で、いかに相手の心を掴むかが肝心である。いきなり本題を話しても、若い学生たちは付いてきてくれない。 最初は、今朝の電車での出来事であったり、身近なことで話題を見つけて、そんな話でこちらを向かせることが大切で、最初の掴みが出来たら、もうこっちのものである。堅い話であっても、こちらの話を聞いてくれるようになる。 彼はその掴みで、ダジャレなどもよく使うと話した。そういえば、昔、学生時代、仲間内でダジャレが大流行で、いつもそんな言葉遊びを頭に置きながら学生生活を送っていたように思う。60年前の話である。 当時のダジャレで、今も覚えているのは、当時は携帯電話などという便利なものはなく、固定電話しかなった。打ち合わせ中、電話だよと呼ばれて、電話を終えて戻ってきたら、再び電話だと呼ばれ、さらに三回目。「もうそんな電話には でんわ 」 「電話にでんわ」には、この受講者の中に反応してくれた人も何人かいた。しかしこの頃は、家庭内でも、ダジャレを言っても気づいてくれないことが多い。 冒頭でそんな話をしてから、発表に入った。この講座でのつかみの話になったのかどうか。まあ、皆さん当番でここへ立たねばならない人も多いから、少しでも参考になったら幸いである。帰りがけに、面白かったよ、と声を掛けてくれた人もいたから、少しはためになっただろうか。

駿河古文書会の発表当番で

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世の中、桜の話題で満開なのだが 我が家の庭には桜がない で、この花を見つけた シレネ・ピンクパンサー 和名 ツルコザクラ 明日でも花見に行こうかなあ 2026.3.27 午後、駿河古文書会、今年度最後の例会で、静岡へ行く。 今日は自分が発表当番で、課題が与えられていた。「上青島村捨物取計一件」藤枝の古文書なのだが、字が細かい上に虫食いが多く、しかも印刷されたテキストは、虫食い跡を消すために処理したために、本文までも細かい部分が多く消えてしまって、読むに大苦労して、それでもたくさん読み取れない部分も残った。 一応は読んでみたが、これでは講座が出来ないと思い、N会長に元の原文と合わせて見て頂きたいと、自分の穴だらけの解読文を渡して お願いしたところ、さっそく週明けに照合されて、穴を埋められた解読文が送られてきた。 それを元に、解読文を作り直し、会員分のコピーを作って、担当理事がコピーしておいて頂いたものと差し替えて、今日の講座となった。これなら何とか講座になる。 なお、講座の前に、N会長が入手された原文を見せて頂いた。思った通り、虫食いの多い古文書であるけれども、虫食いがひどい部分はあるけれども、大概は読み取ることが出来る。その原文もお借りして講座を実施した。 時間が掛かりそうに思ったので、「今日は読み返しは出来ません。その分、ゆっくりと読みますので、ご意見、ご質問はその場でお願いします」と断って講座を始めた。 始めて、これは大変だと思う。皆さんが見ているのは、印刷されたテキストで、それと手元には、そのテキストからは読み切れない差し替えの解読文が 渡してある。そして自分の手元にはN会長から借りた原文がある。この三種類の文書のどれをよみあげるべきか。結局は会員の手元にあるテキストを読んで行くしかない。でも読めない部分は原文と解読文を見て説明するわけで、資料から目を移す度に、どこを読んでいたか、位置がわからなくなるため、うろうろする。 そんなこんなに時間を取られ、終わったのは丁度2時間後の4時ちょうどであった。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(24)

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  現在の 小夜の中山、久延寺 (ネットより拝借) 右手太い柱に支えられているのがクスノキの古木 2026.3.26 東海道ウォーク八日目を続ける。 ************************************* 菊川の宿から小夜の中山に登る坂を青木坂という。登り口に十メートルほど石畳が作られている。鈴さんは膝を傷めて、今日はいつもの勢いがない。本日最大の登りの青木坂はこたえるようだ。 青木坂を登りきった所に久延寺がある。久延寺の真向かいに『接待茶屋跡』の石碑が説明板付で設置されていた。芭蕉が「馬に寝て残夢月遠し茶の烟」と詠んだのは、この茶屋の煙だったとの説もある。久延寺の塀から外へ太い枝を伸ばしていたクスノキは、以前見たとき枯れそうに見えていた。しかし、大きな枝を落とされてこじんまりとはなったものの、まだ健在であった。ところが境内の『夜泣石』の傍らにあった、枝振りの良い家康お手植えの五葉松は、松食い虫のせいか旱魃のためか、樹勢が弱って、幹には栄養分の注入努力の跡も見られたけれども、あえなく立ち枯れていた。四百年近い樹齢の木が我々の時代に枯れてしまうとは、いかにも残念である。 久延寺隣の峠の茶屋『扇屋』には、名物おばあさんが店番をしていた。年は九十八歳で耳も良く記憶力も良い。茶店は三百二十四、五年経つと話してくれ、遠州七不思議のことを書いた本をしきりに勧める。名物子育て飴を皆んな一本づつ頼む。瓶から固まりをつまみ出して割り箸に巻きつける。褐色の半透明の飴はわずかに甘いが、口にくちゃくちゃ付いて始末が悪かった。あとで鈴さんは洗いもしない手で飴をつかみ出したことをユーモラスに指摘した。『東海道』スタンプ『日坂宿』を突く。 東海道スタンプ「夜泣き石」 それより、小夜の中山、点在する人家と茶畑の間の道沿いに旧東海道の痕跡が点々と残っていた。小夜の中山公園の先に、日本橋より五十六里の『小夜鹿の一里塚』があった。土盛りは無く石柱が一本立っていた。鎧塚は中先代の乱のおり北条時行の家来、名越太郎邦時が、京へ登らんとするに、今川氏に打たれて埋められた地である。また、白山神社という路傍の祠の前に、小夜の中山のサインがあった。 金谷宿  4.6km   → 【小夜の中山 白山神社】  →  日坂宿  1.4km 長丸い石に『馬頭観世音』と...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(23)

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  金谷坂石畳 (ネットより拝借) 2026.3.25 来年度の三講座のテキストは、「喜三太さんの記録」を3分割して行うことに決めて、その古文書の解読作業を 少しずつ 始めた。字は少し癖があるが、読みやすい方だろう。全体で140ページ、読みでのある古文書である。 東海道ウォークも金谷までやってきて、いよいよ後半八日目で、金谷より西へ向かう。 ************************************* 掛川城は市民全員を観光ボランティアにした? 金谷宿 → 日坂宿 → 掛川宿 日時7年9月30日(土) くもり 前回の東海道から二ヶ月半経った。この夏は大変な猛暑で、とても平地を歩く気分にはなれなかった。九月になっても予定がお互いにつかず、とうとう九月最後の日になってしまった。何とか今年中に静岡県の部分を終えたいというのが目標である。 集合は金谷駅であったが、今日は電車には乗らず、ここから歩き始める。曇り空だが何とか一日持ちそうである。駅から下って、金谷宿の一里塚跡のサインで前回に繋ぐ。この一里塚は鉄道建設で潰されてしまった。それまでは榎が植わっていたという。 島田宿 3.7km   → 【金谷宿 一里塚跡】 →  日坂宿 6.2km 石畳茶屋は十時からしか開かないという。本日は見えなかったが、茶屋の裏には富士山が眺望出来る展望所があった。茶屋で石畳のスタンプをつく。 石畳茶屋のすぐ上に庚申堂がある。側にはすでに文字も判読出来ないほど古い『鶏頭塚』が立てられている。芭蕉の弟子と言われる六々庵巴静の句碑である。 あけぼのも 夕ぐれもなし 鶏頭華    六々庵巴静 金谷坂(石畳)は臼さんの散歩道で、何度も歩いているという。石畳も苔がつき始めた部分もあって、出来たときからすると随分『らしく』なったと思う。中間あたりに六角堂地蔵尊があった。六角堂は扉の鍵が壊れていて、中が開帳出来た。双身のお地蔵さんで道祖神のように見えた。金谷の人が彫った拙さの残るお地蔵さんであった。金谷坂を登りきると、車道脇に芭蕉句碑と明治天皇 駐輦(ちゅうれん) 跡の碑がある。芭蕉の句碑は『野ざらし紀行』で詠まれた次の句である。 馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟    芭蕉 菊坂を下る。下り初めの数十メートルだけ、農道を新たに付け替えて、平成の道普請により石畳が再現されていた。 菊川...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(22)

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  大井川川越遺跡町並み 2026.3.24 この4月からの新受講者は金谷2名、まきのはら2名、来年度も30名ほどで実施できそうである。今日、新受講者へ案内を送る。 東海道ウォークは七日目を続ける。 ***************************************** 静岡銀行島田支店前には、塚本如舟・芭蕉連句の碑があった。この地に塚本如舟邸があった場所で、芭蕉が川留めに遇い滞在して交流があったのだという。碑面は芭蕉の直筆だといわれている。 やはらかに たけよことしの  手作麦 てさくむぎ     如舟 田植とともに たびの朝起      はせを 島田信用金庫本店角にも、芭蕉の碑がある。これも如舟への挨拶句とされたものという。 するがの国に入て    はせを するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ 川越遺跡入口の標識のそばに、島田宿の三つ目のサインがある。ここまで掻き氷の気に入った店がなくて来た。諦めて、この角の自動販売機でスプライトを買って飲む。 藤枝宿  9.5km   → 【島田宿】  →  金谷宿  0.7km 島田宿大井川川越遺跡町並みに入る。これだけの古い町並みが、こんな近所にあることを、最近まで知らなかった。幾つかの番宿は島田市の管理に移り、中が開放されていたので見学する。平屋で表から見ると小さな家かと思うが、意外と奥行きがあって中は広く感じた。 旅人は川会所で川札を買う。連台の台札と肩車の油札があって、料金は川の深さによって変動する公共料金であった。川会所に上がると、これらの説明がラジカセから流れた。表には芭蕉の句碑があったようだ。句を書いた看板には気付いたが、句碑は見過ごしてしまった。 馬かたは しらじしぐれの 大井川    はせを 東海道スタンプ「大奴」 『東海道』スタンプ『島田宿』を押すためと、トイレを借りる目的で島田博物館に入る。博物館は何度目かの入館である。階上では東京の蒐集家による、世界のスプーン展が開催されていた。テレビ局が来て撮影をしていた。 川留めにからむ悲恋物語が、浄瑠璃の「生写朝顔話」として語られているが、その物語に登場する『朝顔の松』は昭和の始めまで元気であった。今は三代目の松が植えられている。そばに巌谷小波の句碑が建立されている。 爪音 ( つまおと) は  松に聞けとや ...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(21)

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  鏡池堂外、六地蔵 (ネットより借用) 手前が新しい六地蔵 背後に古い六地蔵が残る 2026.3.23 明石のまたいとこT氏から、名物「ちりめん山椒」が送られてきて、お礼が遅くなったが、今朝電話した。確か昔、歴史好きだったのを思い出して、古文書の解読版を読んでみる気があるか聞いて、読んでみたいとの返事に、「歳代記」、「大井源流記」、「安政地震」の記録2題を送ることにした。日本のあちこちに広がってゆくのは楽しい。 東海道ウォークは七日目を続ける。 ***************************************** 東海道は再度国道の南側を沿ったり離れたりと、西へ進む。『田中藩領傍示杭蹟』の標示杭があった。傍示杭蹟はさらに先にもあった。どの傍示杭であるかは不明だが、田中城跡の学校の庭に移されている。 お堂があって老人が集まっていた。角地にお地蔵さんが何体かあり、そのうち新しく出来たと思われる、一面に六つの小さな像を浮き彫りにした地蔵像は珍しいと思った。ここも駿河国百地蔵に入っていた。六地蔵の先には『古東海道蹟』の標示杭や松並木が残っていた。 『瀬戸の染飯』の版木を保存している石野家を示す標示杭がある。そばに千貫堤の跡が残るというが、気付かずに通り過ぎた。往時、大井川がこの辺りまで流れていて、度々洪水を引き起こした。田中藩ではそれを防ぐため堤を築いた。その労銀が一千貫も掛かったのだという。 その先に人材育成のため作られた『育生舎跡』の標示杭や二つ目の『田中藩領傍示杭蹟』の標示杭があった。 外注工場の『松浦製作所』前を通る。臼さんは検査をしていた関係で、顔見知りの青年がいて、立ち話をして遅れた。立派な松並木が断続的に続く。近くの町工場の従業員が昼休みを終えて戻って来るのを遠目に見ながら、休憩を取る。涼しいとはいえ七月である。出る汗に少しの風がありがたい。休憩を終えて歩き始めてすぐの松並木の中に、上青島の一里塚跡のサインがあった。この辺りを『一里山』という。 藤枝宿  4.5km   → 【上青島の一里塚跡】  →  島田宿  3.2km 国道一号線に出て歩く。六合駅前の旧道との別れ道に阿知ヶ谷のサインがあった。 藤枝宿  5.4km   → 【島田市 阿知ヶ谷】  →  島田宿  1km ...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(20)

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  岡部宿 「五智如来石仏」 (ネットより借用) かなり前の写真のようで、往時に近い画像と思われる 2026.3.22 午後、名古屋のかなくんと掛川のまーくんの一段が帰り、静かになった。昼は七人に、パスタを三種類作った。市販のミートソース、ナポリタン、たらこをベースに、椎茸、エビ、トマト、ごぼう巻き等を使って、ひと工夫した。 東海道ウォークは七日目に入る。この日は岡部から自宅まで歩くことになる。 *********************************************************************** 川留めは島田の宿に文化(俳句)を残す 岡部宿 → 藤枝宿 → 島田宿 → 金谷宿 日時 平成七年七年一八日(火) 曇りのち時々晴れ、夏にしては涼しい 前回からまだ四日しか立っていないが、七月の夏休みの最終日、声を掛けたら行こうということになった。この四日の間に夏の高校野球の県予選が始まったが、二十一日までは一時試合が無いため、この時期、高校野球観戦に忙しい和さん、臼さんともに都合がついた。 今年は梅雨がまだ開けていない。それどころか、今日は、梅雨前線が北の高気圧に押されて、太平洋に下がったため、天候はよくなり涼しくなるとの予報であった。夏場でもこういう日なら歩ける。 JR藤枝駅から新静岡駅行のバスに乗り岡部へ向かう。途中藤枝の通りで和さんが一里塚の標識を見つけたと言う。 前回慌てて乗ったバス停は、正しくは『岡部役場前』であった。『五智如来』が役場前にあるというので、先ず役場へ足を延ばしてみたが、役場の周囲を一回りするも見当たらなかった。バス停まで引き返して、先へ行こうとした所に、屋根を設えられた五智如来石仏像が五体と、その背後に数体の石仏が祀られていた。想像した以上に大きく立派な石仏であった。右から釈迦如来、 阿 閦 ( あしゅく ) 如来、大日如来、宝生如来、阿弥陀如来と並んでいる。田中藩の家老が寄進したものだという。 岡部の町を外れると、旧国道一号線の広い道に、東海道の松並木が残っていた。松のための緑地が残してあって、立派な松が残っている。しかし枯れるものもあるらしく、歯抜けになっていて残念である。枯れるのは自然の摂理なのだから、後代を植えて行けば良いと思われるのだが、そんな様子が伺えないのが残念である。 国道のバイパス...