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自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(16)

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  夢づくり会館 こんな広い会場でミニ講座 本当はやりにくい 朝から夢づくり会館で「古文書に親しむ」のミニ講座を行った。午後は会場を移って「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。参加者は20名ほど。昨夜、熟睡できず、今日は妙に眠く、頭もぼんやりしている。 東海道ウォークは六日目に入る。最近、「遠州三みち」が日本風景街道として、塩の道、旧東海道、太平洋岸自転車道を、との新聞報道があった。自分は以前からこの三つの道には注目していて、旧東海道は、今連載しているようにすでに歩いた。太平洋自転車道路は、「静岡県海岸ウォーク」として、自転車道よりもっと海岸寄りを一人で歩いた。この 東海道ウォークの連載が終わったら、それを連載しようかと思っている。塩の道は相良海岸から掛川まで歩いているが、その先は中断したままになっている。この三つの道は出来れば皆さんにも、ぜひ歩いてみて貰いたい。色々の発見があると思う。 ******************************************************************************** 丁字屋でとろろ汁の客寄せマネキンになる 府中宿 → 丸子宿 → 岡部宿 日時 平成7年7月14日(金) 雨の後、晴れて暑くなる 一昨日、出雲へ出張した。仕事を済ませた後、帰りの飛行機の時間までに、斐川町の荒神谷遺跡に行き、古代蓮と大量出土した銅剣・銅矛・銅鐸を見学した。古代蓮は古代遺跡から大賀一郎博士によって出土した2000年前の蓮で、田圃に植えられ、今花盛りであった。荒神谷遺跡では、祭祀に用いられたものであろうか、古墳でもない所から358本の銅剣をはじめ、桁違いの量の銅器が出土した。その出張で新幹線の冷房がきつく、上着を持って行かなかったため、風邪を引いてしまった。コンディションは最悪であるが、一汗かけば風邪も吹っ飛ぶだろうことを期待して、出掛けることにした。 天気予報がかんばしくなく、午前中の降水確率は50%だという。しかし雨が降るくらいの方が暑くなくて良いと思った。静岡駅駅頭に立つといきなり雨が降り始めた。傘を指しての出発となる。新築の静岡中央郵便局に寄る。音楽ホールも兼ねているというが、入った所が吹き抜けになっていて演奏会も出来るようだ。茶壺型にデザインされた風景入日付印を貰う。 御幸町交差点で旧東海道...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(15)

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現在の駿府城巽やぐら(ネットより借用) 右手に工事中だった東御門も見える   2026.3.13 午後、金谷宿大学発表会の準備で、夢づくり会館へ行く。一時間ほどで展示を行い、準備を終える。一人手伝いに来てくれた。 東海道ウォーク、五日目を続ける。いよいよ、東海道ウォークも駿府に入る。 ******************************************************************************** 上空高い所を通る東名高速を潜る。秋葉山常夜燈を見つけて、この道が間違いなく旧東海道であることを確認した。 マンションなどが出来て、区画整理で道が変わっていた。少し迷ってひとまず草薙球場前に出た。球場前の広場には、戦前の日米野球で対決した幻の名投手沢村投手とホームラン王ベーブルースの像が相対していた。等身大に作られているのであろう。自分の背と比べると、沢村投手は一.七五メートルぐらい、ベーブルースは二メートルほどに感じられた。広い道を地下道で渡った。臼さんと和さんは高校野球の静岡大会で度々来ていて、この辺りには詳しいようだ。 JR東海道線端に旧東海道記念碑があった。旧東海道は鉄道の敷設によりここで途切れてしまっている。我らは地下歩道を北側に抜けて旧東海道に戻った。 工事中の橋の脇の仮橋を渡ってすぐの、中村記念病院前に、古庄のサインがあった。中村記念病院は当社で検診をお願いしている病院だと鈴さんがいう。検診車がこんな所から来ていたのである。 江尻宿  6.1km   → 【静岡市 古庄】 →  府中宿  3.3km 足が異常にだるくて、護国神社の裏口で休む。長い間、花粉症が酷くて表に出なかったから、かなり足が弱っているのであろう。元気の良いのは鈴さんだけであった。 もう一度JR東海道線を地下車道付属の歩道で、南側に潜り戻して曲金に出る。そこで曲金のサインを見つけた。 江尻宿  8.5km   → 【静岡市 曲金】 →  府中宿  0.9km 遠くから見えた木立を目指し、静岡県の巨木にも入っている大楠群がある軍神社に立ち寄った。軍神社に入る車一台がやっと入れるほどの横町に、アスファルトに大きく「三〇キロ」の速度制限が書かれていた。これを通り抜けるには、一〇キロほどの時速で、そろりそろり...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(14)

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追分羊羹の店前 2026.3.12 明後日14~15日、夢づくり会館で、金谷宿大学の発表会がある。明日の午後はその展示をしなければならない。また、土曜日、朝には1時間のミニ講座を行う。 今日の午後はその準備をした。思いついて、展示で「竹下村誌稿」を宣伝しようと、Nさんにも話して、案内を模造紙に書いた。あと、現物を二冊ほどと、パンフレットをテーブルに置こうと考えた。 展示物を仕上げ、ミニ講座資料を30部、準備を終える。 東海道ウォーク、五日目を続ける。 ******************************************************************************** 清水駅に立ち寄る。鈴さんを除く三人は、最近ハイキングで歩いた日本平の帰りに、駅スタンプを押していたので、鈴さんのみ駅スタンプを押す。清水銀座の商店街で江尻宿のサインを見つける。 興津宿  4.4km   → 【清水市 江尻宿】 →  府中宿  10.3km 『銀座会館』と言ってもパチンコパーラーではない。清水銀座商店会の会館である。その表に『東海道』スタンプ『江尻宿』のスタンプは置かれた。 東海道スタンプ「清水港」 やはり「清水 湊 」の方が似つかわしい 稚児橋 稚児橋。江戸時代、巴川に掛けられた稚児橋の渡り初めの日、集まった皆んなの目の前を、稚児が川上から上がり川下へ下りて行った。それは巴川の河童であろうといわれ、現在の橋には、欄干の四隅にそれぞれのポーズを取った河童の像が飾られていた。少し前から空腹に柏餅でも買おうかとマーケットに寄ったりして来たが、気に入った柏餅が見つからず、とにかく何か腹に入れようと、稚児橋の袂の自動販売機で甘いだけの洋なしジュースを買って飲む。 日差しが強くなり、暑くなった。今の季節、まだ日陰に入れば涼しいのだが、その日陰がほとんどない。真っ直ぐの通りに『江尻宿木戸址』の石柱があった。 真っ赤な暖簾が目立つ追分羊羹の店があった。創業元禄八年、ほぼ300年の歴史のある羊羹屋である。観光バスも立ち寄るという有名な店のようだ。栗入りの羊羹を買う。昔は塩羊羹であったと言い、今でも販売している。鈴さんに勧められ、和さんは普通の羊羹に加えて塩羊羹も買った。試食をしてみたが、甘さを抑えた羊羹で、本物の竹の皮で包まれていて、懐かしさ...

震災15年目に、大地震の古文書を読む

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解読冊子「大地震記録」と「大地震能記」 2026.3.10 午後、今年度最後のまきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座を実施した。 この時間、仕事を始めてしまった受講者一人を除いて、10人、前回に続いて出席があり、出席者は全員来年度の継続をしてくれそうで、 新年度にはこれに新しく三名加わることになる。 さて、今日の「面白古文書」は西郷隆盛の手紙であった。先日「何でも鑑定団」で取り上げられたものを、写真に撮って解読した。番組を見ていた人もいたようであった。西郷隆盛の直筆を解読するのは初めてであった。西郷の人となりをあらわすように、親しい人への手紙であっても、しっかりと書かれていたが、教材作成には六時間かかったと、皆さんに話した。 今日のメインの課題は、前回まで手掛けていたものは、途中であるがそこまでとして、この頃、 解読を小冊子にまとめた「大地震記録」を影本と 照合しながら読むことにした。以前、小冊子化した掛川の山崎久麻呂著の「大地震能記」とは、同じ安政大地震を記録しているが、別のものである。出来れば二つの記録を比較しながら読んでほしいと話して進めた。この 「大地震記録」は御前崎市新野のお医者さんが書いたものと思われるが、筆者の名前がどこにもない。 後で皆さんとの話で、新野には鈴木東洋という、新野左馬之助の研究で有名なお医者さんがいたが、鈴木家は代々医者だというから、筆者はその御宅のご先祖ではないか、との話が出た。そういえば鈴木東洋氏の医院跡は今、新野左馬之助の記念館になっているとは聞いたことがある。どこかで確認しなければなるまい。 今日の講座もあと15分になって、サイレンが鳴りだした。それが1分ほど続いた。そう、今日は東日本大震災のあった日で、震災発生が午後2時16分だった。もう15年になる。ここ榛原文化センターは牧之原市静波にあって、海にも近いから、サイレンを鳴らしたようだ。だから地震を記録した古文書を扱ったわけではないのだが、偶然の一致というのも芸がなく、震災の日だから、わざわざ 「大地震記録」を選んだ、ということにしようと思った。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(13)

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  清見寺門前 2026.3.10 まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座、明日が今年度最後の講座である。連絡があって、新しい受講者が3人入ると聞く。少しにぎやかになるであろうか。早いもので、まきのはらで講座を始めて7年目に入る。今回、受講料が上がるというから、満足を頂けるように、がんばらねばなるまい。 東海道ウォークも五日目に入り、いよいよ駿府の町までたどりつくことになる。 ******************************************************************************** 創業三百年『追分羊羹』だけが街道に残る 興津宿 → 江尻宿 → 府中宿 日時 平成7年6月10日(土) 曇りのち時々晴れ 今年から気象庁は入梅日を発表せず、事後におよその入梅時期を言うに止めるという。ともあれ今日は入梅近し、雨の予報であったが、北の高気圧の勢力がまだ強くて、梅雨前線が南海上に下がったため曇りとなった。皆の予定がやっと合って、三ヶ月ぶりの『東海道』となる。この期間、日本列島はオウムに明け暮れた。このカルト教団事件も教祖の逮捕でようやく峠を越えた。 興津駅のホームに下り立って開口一番、三ヶ月も立つと興津駅の記憶もないと和さんが言う。けれども、下りと上りではホームが違い、記憶に無いのも当然である。 現在の東海道興津宿は、道は広いが何もない町並みだった。元興津町役場が興津公民館になっていた。木製の巣箱型のスタンドに『東海道』スタンプ『興津宿』があった。また傍らに興津宿のサインもあった。 東海道スタンプ「清見寺」 由比宿 7.2km   → 【清水市 興津宿】 →  江尻宿 2.5km 興津宿東本陣址の石柱に彫られた文字が、なぜか黄色く塗られていた。一方、興津宿西本陣址の石柱は東本陣址と同時期に造られた石柱であるが、こちらは黄色に塗られていなかった。 清見寺門前の道路を隔てた向こう側に、『大正天皇在東宮海水浴御成道』との記念石柱がある。往時は海水浴も出来た名勝の地だったのだろうが、開発された現在からはうかがい知れない。 階段を上がって『東海名区』の額の掛かった門を抜け、JR東海道線を高架橋で渡って境内に入る。最初に目に入った碑は咸臨丸乗組員殉難碑であった。「食人之食者死人之事」の碑文に一見、(人食い人種の碑文み...

運転免許の認知機能検査に行ってきた

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認知機能検査の会場、島田自動車学校   2026.3.9 免許更新で75歳以上の人に義務付けられた、認知機能検査に、今朝行ってきた。 あらかじめ予約してあったのだが、土曜日に島田自動車学校から予約確認の電話をもらうまでは、すっかり忘れていた。何といっても認知機能検査だから、学校側も心得たものである。 昨夜はいつもより早く、11時ごろには寝た。ところが、二時間ほどで目が覚めて、気になっていたわけではないのだが、もんもんと二時間以上寝られなかった。その分、明け方に寝たようで、目が覚めたら8時前であった。慌てて朝食もそこそこに島田自動車学校の会場に出かける。 窓口で、検査と講習費用に1万円支払い(高すぎる)手続きを済ませる。まわりは若い人ばかりで、こんな検査がなければ、年寄りには縁のない場所である。始まるまで40分ほど待たされた。こんなことなら、朝、ゆっくりして来るのだった。 認知機能検査にカンニングする人がいるらしく、実例を挙げた注意が手厳しい。人生の大先輩の高齢者に、もっと尊敬の心を持って貰いたいものだ。 認知機能検査ももう三回目で、 似たような問題が出る。 「絵を覚えさせて、後刻その名前を書かせる」「羅列の数字から指示された数字を素早く消す」「今日の年月日と、推定の今の時間を書かせる」の三つであった。何とか答えを書いたが、何も苦にしていないつもりでも、幾つになっても「試験」は苦である。 結局、参加者9人、その全員が「『認知症のおそれがある』基準には該当しなかった」と報告があり、検査結果の通知書をいただいた。随分持って回った言い方だ。この検査に合格した人が、事故を起こした時の言い逃れを考えるから、こんな表現になる。この通知書を持参すれば、免許の更新は簡単に出来るようだ。 あとは、運転実技講習と、目の検査(視野、動体視力、夜間視力)で、午前中いっぱい掛かった。 今日は花粉症もひどく、気疲れもあって、帰宅、昼食後、2時間ほど昼寝をした。

古文書解読に悪戦苦闘

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  こんな古文書に悪戦苦闘 2026.3.8 道楽で始めたはずの古文書解読に、今、悪戦苦闘している。 20年近く古文書の解読をやってきて、誰よりも時間をかけて古文書を読み、どんな古文書でも読んでやろうと、意欲はあるのだが、3月最後の、駿河古文書会の当番で、読み始めた課題が何とも読めない。たった3ページなのだが、悪戦苦闘している。 内容は、藤枝の青島で東海道の道端に捨てられた品々が、大問題を引き起こしたという話で、内容はそんなに難しくはないはずであった。 解読を困難にしている理由は、   1 印刷された影本の字が小さくて細かい。   2 虫食いのような傷で肝心な部分が読めない。   3 影本をきれいにしたために、肝心のかすれ部分などが消えてしまっている。   4 筆者の書き癖が尋常ではない。日本の文字とは到底思えないものもある。   5 固有名詞が多い。ここはいい加減な解読にならざるをえない。 自分なら絶対に課題文書にはしないだろうと思う。読むうちに嫌になって、ついつい自分が趣味でやっている、興味を呼びそうな古文書を 読める化して、 小冊子に作成する作業に逃げている。こちらの作業は自分としては読み返しになるのであるが、色々発見があって楽しい。 古文書で読めない部分は□□で残せはよいともいわれるが、 □□だらけでは文意もつかめなくなる。この頃は読めない部分は、前後関係で、自分ならこう書くと作文してしまう時もある。邪道かもしれないが、そうしないと先へ進めないからである。 さて解読中の文書、3ページの内、2ページまでは、一か所の除いて何とか曲りなりにも読んだ。3ページ目で、字がさらに細かくなって、固有名詞だらけになった。字が小さくなると文字がさらに省略されるから、読めなくなる道理である。 提出までにあと十日、毎日毎日その文字を眺めて暮らすことになる。何度も見るうちには何とかなるだろうか。こんな思いは20年で初めてである。