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自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(7)

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裏の畠のノビルの花   ノビルを増やして食べたいと思い その昔、土手から取って来て裏畑に植えた 今や放置状態の畑に、この季節になると ノビルの花が咲く 2026.5.5 今日は子供の日、近くに子供の姿を見ることはなかったが、午後マーケットに行くと、親子孫、8人の一団が買い物を終えて帰ってゆくのを見た。女房と見とれて、つい人数を数えてしまった。今日だからの一団であったのだろう。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。寛峰さんは、道に迷うことを山歩きの醍醐味と感じている風に見える。    ***********************************************************************    智満寺奥の院  第三回目は、同年十二月九日、謂わば第二回目から、直ぐ四日の後の事であった。今度こそ智満寺へ、南方正面から登ってみようと思ってゞあった。  島田駅では、やっぱり天徳寺行のバス迄かなり間があった。歩く事にした。智満寺迄は、九粁ほどだとある。島田市は直きに端(はず)れになり、低い山を左右にした農地の間の道であった。途中しだれ桜で有名な慶寿寺がある。その手前の田の中の小川沿いが、若干桜堤である。むろん今は冬の枯木である。冬枯木にしても、 慶寿寺の 枝垂桜というのを見ておきたいと思ったが、見当たらなかった。  天徳寺を過ぎてからは、道は登り勾配になっていた。しかしここで、ちょっぴり道を間違えてしまった。普通なら間違える事の方が、 難しい位の、分り切った道なのにであった。車の通れる道をうね/\と谷沿いに伝って行きさえすれば、いやでも智満寺へ着けたのであった。それを間違えた次第はこうであった。  自分がこの度は持参した案内書には、  「‥‥‥天徳寺から十五分、右に会下の沢林道を分けると、まもなく山田にでる。自動車道をたどるのもよいが、左手の小さな尾根につけられた近道を登ると再び自動車道に出る。ここは千葉林道の分岐点で、道を左にとれば十分ほどで智満寺石段下に着く ‥‥‥」  とあった。自分はこの中の、「右に会下の沢林道を分けると」というのを、「分け入る」という意味にとってしまったのであった。普通、道などを歩く場合、「分ける」は、「草を分ける」とか「藪を分ける」とか、そこを「分け入って進む」意味に用いられる...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(6)

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庭のデンドロビウム 2026.5.4 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。    ***********************************************************************  半分も下ったろうと思われる頃であった。左手の蜜柑畠に二三人のおばさん達がいた。蜜柑を取り終わって、帰り支度をしているというような女の人達であった。皆姉さん被りをし、紺絣の着物を着、もんぺを穿いた、あのきりゝと赤襷を掛けた女の人達であった。  と、その中の一人が自分に声を掛けて来た。  「五時のバスですか」  「そうです」自分はやっぱり五時何分のバスがあったと安心しつゝ、「間に合いましょうか」と尋ね返した。  「さあ、ちょっとお急ぎなさい。まだ割にありますから(道程が)。でもなんとか間に合うでしょう。」  自分は礼を云い、そこからは駆足にした。  それからものゝ五分も駈けた頃であろう。後から自転車で来たのは今し方声を掛けて下さった女の人であった。その人は自分の傍で止ると、自転車から下りつゝ、よかったらこれに乗ってお行きなさいと云うのであった。云いつゝ、もう荷台の背負い篭を下しにかゝっていた。  「でも、それでは申し訳ないですから‥‥‥。駈けて行きますから。」  「いえ、いゝんです。ここからまだ大分あるんですよ。歩いていては間に合うかどうか分りませんから、よろしかったらどうぞどうぞ」  と押し着けるようになさる。自分も、その急(せ)かせる調子に何か連られて、ではと、借りる気になってしまった。  「そうですか ‥‥‥ 」などゝ、でもためらっていると、  「自転車は停留所前の菓子屋の塀に凭れさせておいて下さればいいゝですから」  と早や自転車を手渡して下さる。自分もそれらの言葉に甘えてしまって、借りてしまった。「お急ぎなさい」という言葉を後にして。  農道と云っても、石ころなどもあり、急いで下る自転車は、ぼこんぼこんと弾んだ。成程相当の距離であった。これでは歩いたら三十分では利かないと思った。  バスはすでに入って来ていた。五分ほど経って発車した。五時五分は十分の発車であったであろう。終車一つ前のバスで、終車迄には一時間の余の間があった。  結局そのバスで今回は、島田駅での列車の連絡もよかったのであった。親切な人もあったもの...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(5)

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  散歩道のハナビシソウ 2026.5.3 今日は西日本から雨になっている。ゴールデンウィークでお出かけの人たちは大変だ。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。    ***********************************************************************  今度は頂上付近から、その西南方へと走っている尾根通しを見下ろして、思わず嘆声を放った。その美しさったらない。尾根通しのみが、一本の帯状になった雑木紅葉の巾のある線なのであった。どういう訳で尾根道沿いのみ落葉樹であるのか知らないが、それを上から鳥瞰する様は、何とも綺麗の一語であった。橙がゝった明るい紅葉は艶やかですらあるし、それが蜿蜒と彼方の頂まで続いているのである。自分はしみじみと充足感を覚えずにはいられなかった。願わくば、こういう時間が、終らないでおいてくれと、自ら祈られてしまうものですらあった。  尾根には明瞭に径がついていて今度は楽であった。自分は今、こうして、先程鳥瞰した紅葉のトンネルを潜っている訳であった。何度立ち止った事であろう。何度青空を背負った紅葉を見上げて立ち尽くした事であろう。一に、こゝいらの山紅葉は、一層柔らかさ、優しさが勝っているように思われた。  菩提山(677.3米 )の頂には、何か伝説があった。たしか岩の上に祠があって、このほとりの守護神と化したお坊さんが祀られていたように思う。埋もれた地方にも、立派な人がいたものだと感銘した。ここらはハイキングの人らも来るとみえて、そんな形跡があったような記憶である。自分は、もうやがて桧峠で、今迄の紅葉のトンネルも切れてしまう淋しさに、いや/\下るのであった。  桧峠は想像以上に広闊で、明るい所であった。いわゆる物静かな山の峠の心像とは異っていた。山のなだらかなあたりは、開墾されて畠又畠であり、農家が点在していた。自分はそこの小さな社の境内で、日向ぼっこしながら残りの弁当を使った。  自分は出来たら、こゝから南方の尾根を踏んで、千葉山へ迄行ってみたかった。しかしそういう時間も今はなさそうであった。時、四時頃であったのであろうか。それに南方の方のその尾根道は、ブルドーザーが入っていて、巾広い赤ちゃけた山肌を、遥かの方まで晒していた。とてもそんな所を歩く気はしな...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(4)

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散歩道のシャガ (撮十日ほど前) 今はもう花も終わったことであろう  2026.5.02 最近、若い人の間で、ダジャレが流行って、大学にダジャレを研究する講座もあると聞いた。60年前の学生時代、仲間内で毎日ダジャレを言い合って生活していたような気がする。寝る前に、布団の中で、今ならどんなダジャレを云うかと考えてみた。 「梅は うめーこと 咲いたから、桜も今に 咲くら 。でも桃は もも一寸 先か。イペーが咲いたら いっぺい (一杯)やろう。」 昔はダジャレももっと上手かったが、長く遠ざかっていたので、こんなものしか思いつかない。赦して 下じゃれ 。 世の中、ゴールデンウィークというが、われら年寄夫婦には オールデンウィーク でしかない。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。    ***********************************************************************    笠張山・菩提山  智満寺行は、こうして風邪を引く仕末であったけれど、日を経るほどに、あの枯色の濃い峡の岸辺、寒木立の山径、落葉の尾根径などの、その漂白(さまよい)が忘れられなくて、ぜひもう一度、同じ季節にあの辺りへ行ってみたいと思っていた。それが実現したのは、二年後の十二月五日であった。  この時は先回より数日早かったから、紅葉も当にしてゞあった。今度は藤枝からバスで、滝沢下車。不動峡を通り、滝の谷を経、笠張山へと目指した。千葉山よりは少々奥地である。  不動峡は元、名所であったらしい。その鉱泉は洪水で流されたとか、コンクリートの基石のみ、空しく残っていた。つまらない所であった。右に城山、左に小さい谷川というこの峡道も、今は短い電柱が、間隔も尠く立ち並び、これとは別に川の真上をも数条の電線が走っており、紅葉そのものは切角美しくても、俗景も甚しかった。おまけにこの道は、車が埃りもすさまじく通っていた。  滝の谷は、この峡最奥の部落である。こゝから三本の径が山へ上っていた。その一番左の渓沿いの道をとった。瀬戸川の一源流を遡るわけである。  途中、渓を外れて左方へ行くべきであったらしい。そうすれば、滝の谷峠の十字路へ出るのらしかった。その径が不明瞭だった為、更に渓について行ってしまった。渓はついに、細い高い滝に突き...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(3)

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  有りし日の智満寺の イチョウ 2026.5.01 午後、駿河古文書会に出席する。ゴールデンウィークに入ったせいであろうか、随分出席率が悪い。テキストにオリジナル性がなくて面白くないのではと、少し危惧する。もう少し、テキストにする古文書を探す努力が必要だと思うが、そんな思いは自分だけであろうか。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せる。    ***********************************************************************   結局 、千葉山の頂上を左手に見つゝ、山を巻くようにして、この山の山腹にある 智満寺へ出たのであった。この頃には、こゝ自体が山の懐だというばかりではなく、もう夕方で、薄暗くなりかゝっていた。40分ではとても歩けない道程(みちのり)であった。  境内の紅葉は、早や散ってしまったものあり、散りつゝあるものあり、盛りのものもあった。だから却って、樹々のみか、大地も紅葉落葉でよかった。そんな中に、山を背にして、古い木造の萱葺きの、大きな本堂があった。古いと云って、本当に古く、みな素木で、年輪だの、そういった木目の所は凸(ふくら)んでおり、たゞの木肌の所は凹んでいた。風化されているのであった。(開基は千三百年前、現在の本堂は徳川家康が建てた)中はがらんとしていて、殆ど何の置物もなく、薄暗く冷え冷えとしていた。始口(しょっくち)の台の上に数本の水仙が生けてあるのが、こればかり生きているものかのようであった。聞けば、こゝの御本尊は、国指定重文千手観音という事であった。  境内の紅葉落葉を踏み踏み行った。右手に、これも萱葺きの古い門(源頼朝建立)があった。その下には狭い急な石段が、ずっと下へと続いていた。南から上ればこれが正面の石段であったろう。附近には巨きな杉の樹が聳立していた。  前方には、鐘樓があった。その向うには、黒い洒落た門があった。庫裏へ至る道であった。その黒門を一歩入ると、これは、一面黄落の世界であった。即ち一本の巨大な公孫樹(県指定天然記念物)が 立っており、今しも九分通り葉を振るい落したあとで、その黄葉が、地面に堆高く積っているのであった。残り一分の葉も、今しきりに落ちているのであった。こうして、掃かれてしまっていないのも、何とも山寺らしく、有難く嬉...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(1)

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イペーの花は車で走るとあちこちに見かける 何しろ目立つ花だから  21日散歩に出たとき見付けて ようやく写真に収めた 2026.4.29 自分古文書と言いながら、今回取り上げるのは自分の書いたものではない。学生のころ、お世話になって、自分の書く文章に少なからず影響を受けた大先輩である。 この文が送られてきた昭和48年、自分が静岡から金谷に住居を移したので、こんな文章を書いてくれたのだと思う。当時の経緯は覚えていないが、この頃、古い写真を探していて、この文章を見つけた。 本人は、今はかなりの高齢で、もう音信不通になっているから、こんな古い文をここへ載せるについて、了解をもらっているわけではないが、聞けたならおそらく了解をくれたものと思う。小澤 寛峰氏は大変魅力的な人物で、何れ詳しくその人となりを紹介する機会もあると思う。 自分の山行記や旅の記録などは、小澤氏から大きな影響を受けていたと、今更に感じる。とにかく、「 島田市北方の山々 」 読んでいただければ幸いである。   *********************************************************************** 島田市北方の山々 小澤寛峰著  島田市北方の低山へは、これまで四度入った事がある。しかも同じ季節、それも同じ十二月にてある。自分には全く珍しい事であった。こんな事は、静岡市も極く近辺の山、日本平以外にはない事であった。それは自分には、この山行きが前三回共、殊にも素敵であったが為であった。  第一回目は、昭和四十三年十二月二十一日であった。その頃はまだ登山という事も知らず、たゞ自然を恋して、少しづゝ山へ心が向いている頃であった。その年の十一月には、達磨山や、鵜山七曲りの大井川縁りを歩いて楽しかった。末だズック靴で、五万分の一地図も購めぬ頃であった。  この第一回目の時は、千葉山智満寺へ行くつもりであった。しかし島田駅を下りてみると、その途中迄の天徳寺行バスの発車まで、かなりの間があった。そして直きに出るのが、川口行のバスであった。五万地図に比ぶれば大ざっぱではあるが、静岡県地図で見たら、川口とは大井川もやゝ遡った所で、智満寺とは山二つほど裏手に当る所であった。順調に行けば、そこからでも智満寺まで行かれそうであった。自分は川口行バスへ飛び乗ったのであった...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(8)

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東海道ウォーク、終りに豊川稲荷へ初詣 2026.4.28 今日より5月1日の駿河古文書会の予習に入る。当番ではないが、予習は必ずやって行く。自分でも感心だと思う。もちろん学生時代にはなかったことである。 東海道ウォーク 番外姫街道3日目を続ける。長くお付き合い願った 「 東海道ウォーク」も今日で終わりとなる。明日からはまた別の自分古文書を載せよう。 ************************************* 家並をはずれて坂を登り、車道に出てすぐに駐車場があった。小さな祠に二体の弘法大師の石像が祀られてあり、『大師堂』と標識があった。そこにワゴンを止めたハイカー姿の中年男性がいて、本坂道が荒れているという。静岡のユースホステル協会の人で、近くここでハイキングを行うので下見をして来たと話す。楽しみにしていた本坂峠の椿の原生林は、花はおろか蕾さえ見当たらなかったという。去年の夏の水不足で、花も付けれないほどに木が弱っているのであろうか。 峠へ至る登山道を少し登ったところで、臼さんがキジ打ちに行く。ついでに我々も休憩をとり、お握りならぬ餡まんと肉まんで昼食に代える。道は言われたほど荒れているとは見えず、ユースホステル協会ともあろう団体が、これ位の道を荒れているというのはおかしいと話す。さらに石畳が始まって歩きやすくなる。十年も前になろうか、ここを子供たちと下ったはずだが、もっと狭い山道だったような気がする。幼い子供たちが藤つるを輪に繋いで、汽車ごっこをしながら下った。一度、本坂峠の旧車道に出てさらに山道は続く。 道端に巨大な岩があった。かってはこの街道を行き来する女性たちが、この岩に自分の姿を写して化粧を直したといわれ、『鏡岩』の名が付いている。岩質は『チャート』だとあったが、固い堆積岩でいかにも磨けば顔でも映りそうである。伝説には後日談があるもので、ある盗人がこの前に立ったときから、現在のように曇ってしまったのだと伝わっている。大きさは長さ十メートル、高さ三メートルだという。 もう一度旧車道に出た所に『椿の原生林』の標識があり、確かに遊歩道の両側に椿の太い木が群生している。樹齢は200年という。しかしどこを探しても椿の花も蕾も見当たらず、葉色が悪くて樹勢もなかった。 杉の木立の中に『本坂峠』はあった。南は尾根つたいに湖西連峰を辿って新所原へ、北は坊ヶ峰へ...