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SY氏の死を新聞訃報欄で知って、ショック!

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庭の白いツツジの花 今の自分の心境を表すか 2026.4.20 今朝、起きがけに夢を見た。 最近よく見る夢に、相棒と故郷の周囲の村々を歩いて、街中へ向かおうとするが、ぐるぐる回るばかりで一向に街へ向かう道が見いだせないという、何ともイラつく夢がある。その相棒は、当地へ来てからの知り合いや友人ばかりである。今朝の夢も、八條だとか三江の名が出てくるが、川向うへ行く道や橋が見つからない。今日の仲間は長年自分の部下として、共に仕事をしてきたSY君であった。 目が覚めて、起きだし、静岡新聞を見た。この頃はついつい訃報闌に目が行くのだが、何とそのSY氏の名前が載っているではないか。嘘だろうと、よく見れば住所も喪主が弟なのも符合する。間違いない。70歳、それは少し早すぎるだろう。夢に出てきたのはSY氏が知らせたのであろうか。 午 前中、二か所から SY氏の 訃報を伝える電話があった。 家もそんなに離れていないから、これから色々附き合おうと、連絡を取っていたのだが、自宅の電話には出ない。携帯番号は知らないから、そのままになっていた。そうしている間に、しばらく前に、お母さんが亡くなったようだと聞いた。かなりの長寿だったと思う。さらにどうやら静岡で弟と同居しているらしいと聞いた。兄弟ともに生涯独り身だったから、兄弟で住むようになったのかと思っていた。 お通夜は22日だという。 午前中、もう一本電話があった。「6月にある高校の同窓会に出席するか」と、明石のⅠ氏からの電話。どうしようかと迷っていた。講座の受講を二つばかりパスしなければならないし、もう、どうしても会いたいと思う人たちも、鬼籍や施設に入ってしまった。 Ⅰ氏は帰りに施設に入っているKY氏を見舞おうと言う。SY氏の訃報にあったばかりで、このチャンスに会って置かなければ、きっと後悔すると思うと、傘寿最後の同窓会も、KY氏の見舞いも大切に思えてきた。前向きに検討しようかと思う。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(1)

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  往時の 犀ヶ崖資料館 (ネットより拝借) 新築なった今の資料館 (ネットより拝借) 2026.4.19 昨日、講座の終わった後、金谷郷土史研究会のN氏と、金谷公民館の新館長に面会してきた。福祉関係を長年勤め、部長まで務めたM女史、どこまでやってくれそうか、とにかく色々とお願いやら、相談にも乗れる話などして、丁度手元に持っていた、「歳代記」と「大地震能記」の解読版を進呈してきた。任期は三年というが、ぜひとも精力的に活躍してもらいたいと思う。色々な面で協力は惜しまないつもりである。 ************************************* 番外、姫街道ウォーク かって、見付宿から浜名湖の北を通り、本坂峠を越えて、御油宿に至る東海道の脇街道は『本坂道』といわれて、今切の難所を避ける街道として、賑わいをみせていた。そして、宝永四年の大地震で、新居の町が大破してからは、東海道を往来する人々のほとんどが本坂道を使うようになった。しかし、災害復旧と客の激減に困窮する新居の人々を見兼ねて、幕府は大名・旗本については、特別なことのない限り本坂道の通行を禁止した。以後本坂道では大きな行列は、宮家・公家・大名の貴婦人の行列に限られ、いつか『姫街道』と呼ばれることになった。 我らは『東海道五十三次ウォーキング(静岡編)』の最後に、番外として、姫街道を歩く。関東編を始める前に姫街道をこなして置かないとスタンプにきりがつかないとの理由で、とにかく姫街道に出発することになった。 姫街道は東からは、見付宿から池田渡しを経て市野・気賀宿へ出る道、天竜川を渡った安間から市野・気賀宿へ出る道、さらに浜松宿から直接気賀宿へ出る道がある。今回はスタンプのある浜松宿から直接気賀宿へ出る道を選ぶ。 細江名物、みそまん・銅鐸・姫様道中 姫街道( 浜松宿 → 気賀宿 ) 日時 平成7年12年16日(土) 快晴 お天気は快晴で少し寒い。川さんは携帯電話を買うとかで、今日はテストのためデモ機を持っての参加となる。 浜松駅から『姫街道』の起点に向かう途中に、東海道ウォークの本編で通った時は気がつかなかったが、浜松宿の川口・杉浦本陣跡を示す立て札があった。さらに、連尺の交差点の側に高札場跡の立て札があり、浜松宿から入る『姫街道』はここを始点にしたという。 街道を北へ行った鹿谷町...

長野県に5強の地震、偶然に‥‥‥

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  静岡城北公園の満開のツツジ 2026.4.18 午前(初心者)、午後(経験者)と、金谷宿大学「古文書に親しむ」講座を実施した。今日は初年度の第一回で、初心者に10名、経験者に8名の参加があって、今年度も講座が順調に進められそうである。経験者のOさんが一人、参加されるとの話だったが、本日欠席された。気になるので明日でも電話してみようと思う。 今年度は、自分が開講している金谷宿大学2講座とまきのはら塾の講座で、同じ「喜三太さんの記録」全部で140ページを、手分けして読んで行こうと思う。およそ30年にわたる 「喜三太さんの記録」を、最初10年を金谷の初心者講座で、次の10年を金谷の経験者講座で、最後の10年をまきのはら塾の講座で読むつもりで始めた。 難易度は、金谷初心者講座、まきのはら講座、金谷経験者講座の順で難しくなると思う。まあ、読んでみなければわからないが。 午後、金谷宿大学、経験者コースで解読を進めて、「信州善行寺大地震」という表題の「記録」に取り掛かった時、受講者のHさんが「長野の北部で地震が発生した」という。「えゝ、今からその記録を読みます」と答えると、「そうではなくて、今スマホに‥‥」と、何と、なんというタイミングだろう。同じ長野で今、震度5強の地震が発生したとスマホに出たというのである。さらに、そのあと、震度5弱の地震もあった。 古文書の 「信州善行寺大地震」は弘化五年(1848年)の話である。信州の善行寺で御開帳があって、多くの参拝客が参詣に集まっている最中に大地震があり、多くの家がつぶれ、火事がおきて焼失した。参拝客の多くが家の下敷きになったり、火事に巻き込まれたりして亡くなり、その骨を集めて塚を立てて葬ったという。この近辺からもグループで出かけて、地震の情報に途中で引返してきたり、死人が出たりした。藤枝から出かけた20人のグループは一人を除いて全員亡くなったというような話が記されていた。 これは200年以上昔の話で、現代ではそのような事態にはならないと思うが、この偶然をどう説明すればよいのだろう。そら恐ろしい気分である。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(35)

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  静岡城北公園のヒトツバタゴ花盛り 2026.4.17 午後、駿河古文書会で静岡へ行く。城北公園はなんじゃもんじゃ( ヒトツバタゴ )の白い花が真っ盛りであった。 東海道ウォーク11日目の続きを載せる。今日で東海道二十二宿のうぉーくを終える。続いて姫街道を歩くことになる。 ************************************* 町に入るとすぐ 曲尺手( かねんて) の標識があった。ここでは道がクランク型にずれて通りを見通すことが出来なくなっている。大名行列が往来していた当時、行列がかち合うと、位の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。そこで、行列は曲尺手の手前で止まり、斥候を出して、かち合いそうならばお寺などに一時避難し、かち合う事態を避けたという。 東海道スタンプ「潮見坂」 和さんがめざとく谷中たばこ店を見つけて『東海道』スタンプ『白須賀宿』を押す。たばこ店で食堂を尋ねたところ、国道へ出た所にあるという。国道へ逸れる四つ角に問屋場跡のサインがあった。        新居宿  6.3km   → 【問屋場跡】  →  二川宿  5.9 km 国道端の吾妻屋食堂に入り、エビフライ定食を食べる。北西風が強まり、入口の隙間が笛のように鳴る。 町中の旧東海道に戻った所に『夏目甕麿邸址』の石標があった。 夏目甕麿( なつめみかまろ) は本居宣長の門人の国学者である。 大きな鬼瓦を置いた屋根が不相応に立派過ぎて、重さのために軒の左右を鉄柱に支えられた庚申堂があった。前庭には『見ざる聞かざる言わざる』の三匹の猿の像が設置されていた。 人家が尽きる手前に境宿のサインがあった。これより先、愛知県にはこのような道しるべはないから、東海道の最西端のサインである。         白須賀宿  0.2km   → 【境宿】  →  二川宿  5.2km 人家が尽きて渡った小さな川が、現在も県境の境川である。これで長い静岡県を縦断し終えた。しかし姫街道も残しており、まだ途中では喜びも湧かず、県境の道路標識を背景に、記念写真を撮って先へ進む。 道は広い国道一号線、遮るものもないキャベツ畑を、激しい向かい風に、木枯らし紋次郎のように、顔の前で帽子を摘んで歩く。それでも身体さら吹き飛ばされそうで、大...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(34)

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潮見坂から遠江 保永堂版東海道五十三次「白須賀」 2026.4.16 朝から土曜日の金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座の準備。年度初めで色々な書類造りに手間取る。 昨日に続いて、東海道ウォーク11日目の続きを載せる。 ************************************* 国道一号線に出た所に橋本のサインがあった。 新居宿  0.1km   → 【新居宿 橋本】  →  白須賀宿  3.5km 十五世紀の末の大地震で、浜名湖南側の湖岸が切れて、今切口が出来るまでは、舞坂まで陸続きであった。この橋本に宿があり、街道は真っ直ぐに、舞坂へ歩いて行けたという。旧街道はすぐに国道一号線から別れて、『浜名旧街道』に入る。この道には南側に松並木が残っていたが、松食虫にやられてしまい、新居町の手で松の若木が植えられた。今ではその松もかなり大きく立派になっている。他の市町村もこれに習い、枯れた松の補植を是非お願いしたいものである。きっとすぐに美しい松並木が回復すると思う。 紅葉寺跡のサインがあり、北へ少し入ると階段の上に樹木だけ残った敷地が見えた。「源頼朝が立ち寄った際、地元の名主の娘と・・・・・・その娘が建てた云々」の説明板に鈴さん曰く「昔の武将はやりたい放題だったのだろう」そう言ってしまえば夢もロマンもない。 新居宿  0.9km   → 【紅葉寺跡】  →  白須賀宿  2.8km 松並木の中に歌碑が一基あった。続古今和歌集に収録された二首の歌が刻まれていた。 風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟   為家 わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで   阿佛尼 太い槙の木が並んだ道畔に、大倉戸の立場跡の標識があった。休み処として、客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった。 『明治天皇御野立所阯』の石碑の前で休憩をとる。臼さんから蜜柑が廻って来る。この辺りより空腹がつのり、食堂を求めながら歩く。 火鎮神社前に白須賀宿のサインがあった。かってはここが白須賀宿であったが、津波で壊滅して、少し先の潮見坂を登った高台に宿場を移したのだという。 新居宿  2.9km   → 【白須賀宿(火鎮神社)】  →  二川宿  9.3km 通り掛かりの店で...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(33)

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新居関所 2026.4.15 午後、金谷郷土史研究会の総会へ出席する。10人ほどの出席で、このところにぎやかになった。女性も二人見える。総会後、朝鮮通信使のビデオを見る。 先日、高校の同窓会から、傘寿同窓会と銘打った最後の同窓会の案内が来た。親しい友人たちの多くが 施設 や 鬼籍 に入ってしまって、同窓会もそれほど食指が動かない。同窓生より今の受講生の方が大切で、同窓会当日の6月15日前後はイベントで埋まっている。故郷は遠くて何日か費やすことになるが、それは無理かもしれない。 そんなことを考えていると、朝寝坊している所へ同窓会主催者から電話が来た。お遍路の本を同窓会に提供してもらえないかとの話。もう、残部がないからと断った。講座の受講生に配ってきたのだが、残部がなくなり、今年からは進呈を辞めたところであった。 東海道ウォーク11日目の続きを載せる。 ************************************* 旧東海道は渡船場より船の旅となる。この航路は棒杭を打ち蛇籠を積んで船道が造られていたため、安全にのんびりと船旅が出来たという。船道は砂で埋まって来ると時々 浚渫 され、側の小島に砂を積み上げたのが弁天島の基になったという。橋を渡って弁天島駅に立ち寄り、強くなった風を避けて一休みした。駅スタンプも貰う。 中浜名橋、新弁天、西浜名橋と通って、新居の町に入った。橋には釣をする人が多く見られた。新居町駅にも立ち寄り、駅スタンプを得る。休憩のついでに、自分だけ立ち食いうどんを食べた。後でこの一杯が物を言う。新居町駅を出た所に、山頭火の句がありメモをする。       水のまんなかの道がまっすぐ  山頭火 (浜名街道にて) この地を鷲掴みにしたような短い言葉に、さすがに山頭火だと思う。 新居関所の入場券の販売窓口の隣で、『東海道』スタンプ『新居宿』を打つ。窓口の人が入場券を売るべく構えるのを感じたが、何度か見学しているので止める。川さんだけが入って一回りしてすぐに出て来た。 東海道スタンプ「新居関所」 市街に入り、突き当たった所に本陣が三軒あった。西から弥五助本陣、突き当たりが武兵衛本陣、南隣が八郎兵衛本陣である。新居宿のサインがあった。 舞坂宿  5.3km   → 【新居宿】  →  白須賀宿  4.5km 八郎兵衛本陣の南隣...

「ガーベラ、愛の鐘」ホース先生の思い出

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  ガーベラの鉢 (ネットより拝借) こんな鉢になるはずだった 2026.4.14 静岡県はガーベラの花の生産が日本一だという。 昼のニュースで、その生産者が知事を訪問して、ガーベラの花束を贈呈する様子が映っていた。知事が赤いガーベラを胸に差して、笑顔でインタビューに答えていた。 ガーベラで思い出すのは、 「ガーベラ、愛の鐘」 というフレーズである。今から60数年前、中学校時代の話である。ふるさとの中学校に、職業家庭という教科があって、家事の授業のある女子と別になって、男子はガーベラを育てる授業があった。校舎の間の庭の出て、植木鉢に各自ガーベラを植えて、花が咲くまで育てるという授業であった。 先生は顔の長い馬面の田舎のおっさんという感じで、生徒たちは「ホース」とあだ名で呼んでいた。当時はクラスの半分、 男子生徒ばかりでも 20数人は居た。教室の授業ではなく野外なので、 先生の話など上の空である。  ホース先生は隣の者としゃべっている二人を捕まえると、二人の頭を掴み、ゴツンとぶつける懲罰を頻繁に行った。これを先生の言葉から「愛の鐘」と呼んだ。 一人ではなく必ず二人を捕まえて、ゴツン。これは先生の手は痛まない御仕置であった。生徒たちも、一人で叱られるのではなくて二人だから、気持ちは深刻にならない。 現代なら許されないのかもしれないが、当時はそんな懲罰は普通で、先生もこぶに残らない程度を弁えていたし、受ける生徒も心得ていた。自分も一度「愛の鐘」を受けたことがある。瞬間痛いがそれだけであった。 たしか相手があったはずだが、記憶にはない。 それで、ガーベラはどうなったのか。夏休みにはみんな自宅へ持ち帰ったが、自分のガーベラは葉が伸びるだけで、結局花が咲かずに枯れてしまった。おそらく、真面目に世話をしなかったからであろう。後年になって、ガーベラの花を見て、こんな花だったのかと、改めて思った。同時に 「ガーベラ、愛の鐘」 というフレーズと、ホース先生の馬面を思い出した。