投稿

今朝の静岡新聞、二つの記事(古文書関連)

イメージ
  庭のこぶしの花 一輪残った傷のある花 2026.4.6 今朝の静岡新聞で、自分にとって二つの注目記事があった。多分、他の人は気にも留めない記事であろう。 一つは「山崎の合戦 秀吉遅参?」という記事。今、豊臣兄弟が話題になっている故の記事だと思うが、遅参を証拠付ける秀吉の書状が見つかったという話である。秀吉の天下人への道を開いた、信長死後の「中国大返し」。こともあろうに、光秀との山崎の戦いに遅参したというのである。到着したのは光秀敗走の後だったというのである。 自分が注目したのは、証拠付ける秀吉の書状で、これを今月の「面白古文書」に使おうと思った。ネットには色々な報道機関でこの記事を扱っているが、書状の解読文を載せているものはもちろんない。ならば自分で解読しようと、書状の写真を見る。どこも写真を載せているが、斜めから撮った写真で、しかもピンボケ。書状は尚々書きもあるようで、解読は無理と思われた。しっかりとした映像が見せてもらえれば解読できるのだが。最初の「態(わざわざ)申遣候、以昨日‥‥」と続くようである。 こういう報道で、解読文が出されることはまずない。しかも写真は不鮮明で読めないものが大半である。そんな書状を証拠だと出されても、どこまで信じればよいのであろう。本当に自信をもって主張するならば、解読文を付けて、鮮明な写真を載せるべきだと思う。何となくその主張に自信の無さが見えてしまうのは自分だけであろうか。今月の「面白古文書」へ使うことは断念するが、書状の鮮明な画像が手に入ったら、使ってみたい素材である。 もう一つは、同じページの隣りに出ている「古文書食べる害虫分布拡大」の記事である。貴重な文化財に損害を与える外来種の害虫、ニュウハクシミの話題。明日、駿河古文書会の基礎講座で、紙魚(しみ)のはなしをするつもりでいたから、いい話題になると注目した。外来種は例によって繁殖力が強くて、日本で分布拡大に警鐘を鳴らす記事である。 明日の基礎講座で、この二つの記事をどのように話そうか、今考えている。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(29)

イメージ
熊野 ゆや の長藤 2026.4.5 朝から火曜日の駿河古文書会基礎講座の準備をする。課題の影本も差し替えしなければ講座がやりにくいので、虫食い跡残した影本に差し替えるつもりである。曰く、古文書には虫食いが大切なヒントになると話そうと思う。差し替えた影本では細かい部分までよく解読出来て、満足できる講座にする自信が出来た。 東海道ウォーク九日目を続けよう。ゴールはもう近い。 ************************************* 歩くには江戸の昔より今が難所の天竜川 豊田町 → 浜松宿 → 舞坂宿 日時 平成7年10年28日(土) 快晴のち曇り 先週の週末は鈴さん・和さん・臼さんは大菩薩嶺へ一泊二日の大名登山旅行へ行った。川さんは写真仲間と尾瀬へ撮影旅行だったという。和さんは腰を傷めて、今日はよほど中止してもらおうかと思ったという。また臼さんは風邪気味だという。しかしそれぞれに問題を抱えながら、歩ける所まで歩こうと出発する。 二週間前に疲れて歩いた豊田町駅のホームだが、今日は足取りも軽い。まずは、和さんの腰を心配しながら歩き始める。 豊田町駅分岐より旧東海道へ戻る。前回お休みだった『ねんや文具店』へは戻らず、スタンプは行興寺で押すことにして先へ進む。間もなく長森立場のサインがある。 見付宿 5.4km   → 【長森立場】 →  浜松宿 9.7km 立場 ( たてば ) とは、街道で人夫が駕籠などを止めて休息する所である。この長森は『長森かうやく』で有名な所であった。山田与左衛門が始めた膏薬は、シモヤケ・アガキレによく効いて、街道筋では有名だった。次のような文句が残っている。今で言えばキャッチコピーであろうか。 諸人の よき評判や 長森の 諸病に菊の 五もんかうやく 国道とバイパスを横切る辺りで、少し道を間違えて、一本天竜川寄りの道を歩いてしまった。旧東海道は池田の渡船場へ向けて、天竜川に沿って北へ上がる。池田に 熊野 ゆや の長藤で有名な行興寺がある。 池田の宿は平安時代の後期から賑わった。ここに長者がいて、遊女を大勢養っていたという。長者に熊野御前という娘(一説には遊女)がいて、遠江の国司の平宗盛に見初められ、召されて京に上った。時がたって、熊野御前は故郷の母の病気を機会に帰郷しこの地で没した。 行興寺には母の墓と並んで熊野御前の墓が...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(28)

イメージ
旧見付小学校 2026.4.4 午後、Nさんの事務所で金谷郷土史研究会の今年度活動について打ち合せる。 東海道ウォーク九日目を続けよう。 ************************************* 大田川を越え、トンボの生息地で全国的に有名な桶ヶ谷沼の南を通って、国道一号線やバイパスなどが狭い幅を複雑に通る『三ヶ野坂』に至る。三ヶ野坂を鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成及び抜け道の七つ道が、複雑に越えている。それらが『三ヶ野坂の七つ道』として整備されている。 我らはもちろん江戸の道を選んで登る。登り切って少し東に大日堂がある。ここも古戦場で、家康方の本多平八郎がこの高台より武田軍の様子をうかがったといい、『物見の松』もあったというが、見当たらない。先ほど通った木原畷の方面が一望に出来る絶好の物見台である。 磐田市街に入る直前に、阿多古山一里塚がある。「一里塚は階段上」の標識に導かれて登ったところ、階段を上り詰めた愛宕神社の横を抜け、その背後の最高地点に一里塚の石碑があった。かっては両側が沢か何かで、東海道はこの神社の高台を越して、見付宿に入ったのであろう。そこへ幼い子供たちが四、五人、道の無い斜面を登って来た。手にビニール袋を持った女の子に、和さんが「何を探しているの」と聞いたところ、「秋を見つけに来たの」……。 繁華街に入って見付宿のサインをみつけた。このあと、磐田市内には所々に一枚板に書かれた東海道の標識があるだけで、サインが一本もなかった。磐田ではそんな物に金を使わないのだろうか。 袋井宿  6.8km   → 【磐田市 見付宿】  →  豊田町  3.4km 『美味い物』係の鈴さんの案内で、井口製菓店で遠州見付天神名物『粟餅』を買った。 旧見付小学校では、今日開校百二十年の記念式典があった。受付の女性はようやく片づいたところだと話した。入場は無料で、スリッパに履き変えて上がる。明治八年完成の校舎は当時としては最先端の建築だったのだろう。当初は二階二層の四階建てだったのが、三階を増設して三階二層の五階建てになっている。内部には明治の小学校の教室が再現され、生徒の人形が置かれている中に、本物の小学生が何人か坐って、備付けの感想記録ノートを書いていて、どきっとさせられた。 旧見付小学校の裏手には、隣の淡海国玉神社の神官の...

駿河古文書会総会で思うこと

イメージ
桜満開の静岡城北公園 今日は静岡はお祭りの初日だった  2026.4.3 午後、駿河古文書会の総会で静岡へ行く。 城北公園の桜は今が満開で、少し早く来たので見に回ると、「桜が 満開ですね」と、女性に声を掛けられた、マスク、眼鏡、帽子で完全防備の姿では、瞬間誰かが判らなかった。声だけでは確証が持てないでいると、「先に行きます」と去って行った。会場で同じ班の方と分かったが、あの姿では顔認証も無理に違いない。 総会で、会長さんから現状の話がある。会員の老齢化と、コロナ騒動で、会員が激減し、多いときは50人以上あった会員が半減してしまい、理事も再任されたが、内、一人はリハビリ中、一人は奥さんが入院して、家事万端をしなけれなならず、出席できない状態という。協力してくれる方がいればぜひ声を掛けて貰いたいとの話であった。 もう10年以上昔、一度会長に 協力を申し出たことがあったが、その時は静岡在住の人で固めたかったのか、今は間にあっているとの返事であった。その後、自分は地元で3講座、合わせて30人の講座を始めてしまい、今は手を挙げられる状態ではない。 会長さんも聞いてみれば、健康を害され、眼もよく見えないとおっしゃる。早く後継者を選ぶべきなのだろうが、誰も手を挙げてくれないと愚痴られる。 解決策は会員をもっと増やすことだと思う。基礎講座には同じくらいの受講者がいるというから、基礎を3年受けたら、本講座へ移るというような決め事を考えたらどうだろう。 幸い、まだ古文書解読に興味を持っている人は多い。宣伝の仕方次第で、人を集めるのは容易のような気がする。また、古文書会をもっと楽しくできないかとも思う。現地見学会ももっと積極的にバスを仕立てて出かける位なことにしたい。 会費は安く抑えられているが、今時24回の講座で3600円は安すぎる。金谷では年12回で6000円、牧之原では年12回で8400円頂いている。 駿河古文書会でも基礎講座では、年24回で12000円、つまり金谷で12回で6000円と同額頂いている。 お金が余ったら、もっと楽しめることに使えばよい。例えば資料は部分的にでもカラーを取り入れることだってできる。 まだまだくふうの余地がありそうだ。それも、我々年寄りの発想ではなくて、もう少し若い人たちのパワーを入れるべきだと思う。 年寄りのたわごとなのだが、20年近くお世話に...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(27)

イメージ
原川松並木   2026.4.2 東海道ウォーク九日目を続ける。 ************************************* 袋井市に入って、『東海道之真中』という標識のある夏涼山中道寺に至る。元は善光寺といったが、江戸時代から東海道のちょうど真ん中として知られ、いつか『中道寺』と呼ばれて、寺の名前となったという。その先に両側に土塁と松並木が珍しく残っていた。そしてその中に原川松並木のサインがあった。 掛川宿  4.6km   → 【袋井市 原川松並木】  →  袋井宿  4.6km 大和ハウスの側に、赤い富士浅間宮大鳥居があった。国指定の重要文化財との表示もあったが、近くに神社もない。ただ、工場の間を小道が北へ延びているだけである。鳥居下で休憩を取る。臼さんから蜜柑が回ってくる。地図を見て想像するに、神社は国道一号線とバイパスを越えた遙か先の小山にあって、かってはここが参道の入口だったのであろう。そう考えて小山を遠望すると鳥居や祭りの幟旗がみえた。 道路脇の袋井東小学校の敷地内に、久津部一里塚の記念碑があった。また袋井市内に入る手前に七ツ森神社があり、祭りの準備をしていた。先を行くと神社に集結するのか、2台の屋台と出会った。1台は調子外れの威勢の上がらないお囃子だが、生演奏であった。もう1台は拡声器でテープを流していた。 一度国道一号線に出てすぐに市街地に入る。角に立て続けにサインがあった。 掛川宿  8.4km   → 【袋井市 東新屋】  →  袋井宿  0.7km 掛川宿  8.55km   → 【袋井市 西新屋】  →  袋井宿  0.55km 掛川宿  8.9km   → 【袋井市役所前】  →  袋井宿  0.2km 袋井の入口『天橋』にはかって桝型があり、いまでも道が折れ曲がって名残を示している。ここにも天橋のサインがあった。 掛川宿  9.1km   → 【袋井市 天橋】  →  見付宿  6.55km 袋井市内は秋祭り真っ盛りであった。ハッピを来た男が呼び止めて、各々に『東海道五十三次どまん中 袋井宿』と宣伝文句の入った小型懐中電灯をくれた。ご丁寧に電池もつけてある。背の高い...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(26)

イメージ
  円満寺富貴門 (ネットより拝借) 掛川城の城門の一つが移築された 2026.4.1 4月1日、かつては、今日はエイプリルフールの日、しかし誰も関心を寄せない。そのはずで、トランプが米大統領になってから、毎日が エイプリルフールになったようなものだからだ。国際政治の場は嘘で満ちている。どこまで続くことやら‥‥‥‥ 日をどこで間違えたのか、明日は金曜日と思い込んで、駿河古文書会の準備を朝から仕上げた。終わってから、一日間違っていることに気づき、ぽっかり穴が空いた気分である。こんな思い込みは、これからだんだん増えるのかもしれない。 東海道ウォークも九日目に入り、遠州を歩く。 ************************************* 旧見付小学校は開校120年の式典直後だった 掛川宿 → 袋井宿 → 見付宿  → 豊田町 日時 平成7年10年14日(土) 快晴 十一日夕から十二日にかけて、九重連山の硫黄山が257年振りに噴火した。マグマが動いた本格的な火山ではなくて、水蒸気爆発による噴煙だというが、阪神大震災に始まり、最近は伊東や神津島の群発地震も発生しており、日本の地下は実に騒々しい。九重山も百名山に入り、大変魅力的な山だから、雲仙のようにはなってもらいたくない。東海道中も静岡編のゴールが見えて来た。今回は、川さんをゲストに迎え、どんな道中になるやら。 この夏の暑さでカメムシが大発生し、家の蜜柑や柿は全滅であった。手入れの良い川さんや鈴さんの畑でもやられているというから、少し安心した。秋雨前線が南海上に消えてから、また天候が安定する季節になった。今日は特に良いお天気で日差しが暑くなりそうである。 川さんは千頭から御前崎まで3日間で歩いたという。最後は金谷から御前崎まで、37キロメートルを一気に歩いたというから、我らの一日20キロメートルのだらけた歩きでは、気に入らないかもしれない。 我らの一日一日の歩きは、あくまでも毛色の変わった行楽である。決して何かに対する挑戦ではない。しかしそれが十日、二十日と重なることで、一つの事が自然に達成される。達成感の味わえる行楽が我々の旅の目的なのだ。無理をしては長続きしないし、歩く事が辛くなってはお終いである。一番弱い所へレベルを合わせて、皆んなでゴールを迎えたい。 前回の最終地点の連雀通り四つ角で、本日のス...

定年後の日本人は世界一の楽園をいきる

イメージ
時代がかって見えるが 昨日の静岡新聞に間違いない   2026.3.31 「定年後の日本人は世界一の楽園をいきる」 70代最後の年度末にあたって、ブログにこんな題名が付けられるのは何とも楽しい。 昨日の朝、新聞を開いて一面下の書籍広告欄にそんな文字が踊っていた。 佐藤優氏の新刊の広告である。外務省のノンキャリア職員として、ロシアの日本大使館に書記官として勤めるなど、概して東欧事情に詳しいとは知っていた。 作家デビュー以来何冊か本も読んだと思うが、その強面の顔や、予測不能な行動も含めて、その後、自分の興味からは離れて消えていた。しかし、この本は図書館に入ったら読んでみたいと思った。 表題だけではあるが、自分の今の思いを述べていてくれるように思った。 会社を退職した15年前、これからは別の人生が始まると思った。それまでは、会社の金庫番などと自称して、毎日、他人(ひと)のお金を勘定するのが仕事だった。会社で知った知人友人もすべて金がらみのの関係だった。会社を辞めて、即、年金も貰うようになったから、これからはお金とは無縁な人生だと思い、会社で得た知人友人とは、趣味で付き合った人たちを除いて、全て関係を断った。 そして、始めたのが古文書解読という趣味。今は「金の掛からない道楽」と言うことにしている。そこから始まった知人友人はお金の絡まない関係だと思っている。 今では、毎月、六講座に出席し、その内三講座は講師をしている。三講座の受講生が合わせて30人ほど、友人知人には60代から80代がほとんどだから、しばらく会わないと、永のお別れになってしまうのが何ともつらいが、そんな知人友人とはどんなに親しくなっても、学歴や職業歴、家族の話なども全くしないし、興味もない。 過去については、聞くも聞かれるも愉快であったことはほとんどない。 この頃、「 あなた先生をやられてましたか」と聞かれて、「先生をやっていた人は、最初から断りもなく椅子に座って講義はしませんよ」と笑いあった。先生をされていた方は、講義は立ってされる人が多い。座るにしても、必ず断ってから座られる。 そういうわけで、今の自分にはストレスがほとんどない。いつまで続けられるかが心配ではあるが、これはもう「楽園」というべきなのであろう。