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自分古文書(19)静岡県海岸ウォーク(1)

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愛知県との県境の浜  静岡県海岸ウォークスタート地点 2026.5.9 次なる自分古文書は「静岡県海岸ウォーク」である。 、「 静岡県海岸ウォーク 」は、 「 東海道五十三次ウォーク」を始める3年前、歩きの集大成「四国お遍路まんだら」の17年前に一人で歩いた記録である。今からだと34年前になるか。まだ40代で、元気いっぱいだった。 以下、その記録を載せようと思う。 「 東海道五十三次ウォーク」の写真帳とともに、 「 静岡県海岸ウォーク 」 の写真帳も見つかった。東日本大震災後、静岡県の海岸は様変わりしているが、それ以前の写真がたくさん撮ってあるので、現在と比較してみて頂くのもおもしろいかもしれない。 ********************************************************************************** 静岡県海岸ウォーク1  浜名バイパス砂浜歩き 新所原➔東細谷➔潮見坂下➔今切口➔新居町 平成4年2月2日(日)快晴 風やや有り 10:25 自宅(万歩計 617) 歩くことで、人のやらないことをやってみたいと常々 考えていた。東海自然歩道の完全踏破など幾つか考えたが、独創性がない。 地の利を生かして、静岡県境をぐるり回ってみるか。しかし山の県境は道が 付いていない所が多い。海なら殆ど海沿いに道があるから歩けるだろう。静 岡県の長い海岸線を正確にトレイルする。こんな馬鹿げたことは、伊能忠敬以 来やった人はいないであろう。もちろん一人で歩く。早速、5万分の1の地図で確かめて、西から 始めることにした。 トレイルするのに幾つか決め事をする。    最も海岸に近い人の歩ける道を歩く。   その道より海側であれば、防波堤や砂浜などを歩いても良い。   必ず、時間と万歩計の数字を記録し、報告書を残しておく。   カメラを持参しポイントでは写真を撮る。   前回の終着地を出発地としてトレイルを繋いでいく。 今日は新所原から海岸に出て、愛知県と静岡県の県境から歩き始めよう。 今切口で折り返し、新居町まで歩いて、 時間と体力があれば鷲津まで足を伸 ばそう。 11:00 金谷駅 ( 5,144)  昨日は東京で17cmの積雪。そして今朝4時には東京で 震度5の直下型地震で交通機関が大混乱だという。女房は風邪で...

年寄りに銀行振込手続きは至難の技

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やっと見つけた! 「東海道五十三次ウォーク」の写真帳 ピンボケの写真を少しづつ入れ替えようと思う  2026.5.8 もう一と月で80歳を迎える年寄りが、株式や投資信託に回していた余剰資金を、去年の夏、“顔の見える”証券会社に移した。勧誘に来た担当が入社して間がなく、大学の後輩だったことものあり、応援の積りでもあった。 “顔の見える” 証券会社では、アメリカの資産運用の商品を購入した。その商品では毎月一定額の配当が出る。運用が順調であれば、配当であるが、不調の時は元金を崩して配当にあてるというシステムである。年寄にとって一定額出るのは有難い。運用が不調で、元金を食ってしまおうが、どうなろうが、毎月一定額出るだけで充分である。 貧乏性だから、生活は年金だけでやっていける。この毎月送られてくる配当が、銀行預金に溜まってゆくのをみて、ある時ふと思いついた。このお金、孫たちの学資に当てられないだろうか。孫の内、 まーくん と かなくんの 二人は来年の春に大学受験を控えている。この資金で少しでも彼らの進路に選択の余地が増えるならば、生きたお金になる。 自分は外孫ばかり4人だから、向こうの家族に少し気を遣うが、娘たちに話したら大喜びだったから、前へ進めることにした。 さて四月中に、予定した額になったので、 まーくん と かなくん へ、 一回目の送金することにした。少し早い気もするが、これから志望校などを選ぶのだから、早いに越したことはない。残りの三年間は、額は半分ほどになるが、在学中は続けるつもりである。 昨日、銀行へ行き、送金しようとしたら、窓口で、長く送金をしていないと、送金が出来なくなると云われた。振込詐欺予防のための措置なのだが、75歳以上の限定だという。承知はしていたが、「最近、騙される年齢が下がって60代も多いよね」とちょっと皮肉も言ってみたくなる。実際は、こんな送金規制の効果で、年齢が下ってきているのだろう。 送金規制の解除には口座を開設した支店に行かないと、解除が明日以降になるというので、開設支店へ移動した。 手続きが終わって、「相続税対策ではないですよね」と念を押された。その前に孫に学資を援助するとの目的を話していたのに。おそらく、そう聞くことがマニュアルで定められているのであろう。 さらに、送れるのは一日に一ヶ所で、もう一ヶ所は明日でないと送金できま...

26年前、智満寺の大イチョウ倒木のこと

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  2026.5.7 昨日で、小澤寛峰著「島田市北方の山々」を「自分古文書」として載せて来た。何だ、自分の古文書ではないではないかと、云われるかもしれないが、人生80年も過ごしてくると、自分の手元には他の方より頂いた文書がいくつか残っている。つまりこれらの文書は、自分が所持する古文書、略して「 自分古文書 」に他ならないのである。 さて、 「島田市北方の山々」には智満寺の大イチョウの話が出て来た。ネットで検索していると、何とイチョウについての、自分で書いた記録が出て来た。26年前には、自分は巨木を見て回る趣味が高じて「巨木巡礼」と名付けたホームページを持っていた。それが今も残されていて、見ることができるのである。その中に、突然に倒れてしまった智満寺の大イチョウを、翌日の新聞で読んで、その日に見に行った記録が載っていた。 (「巨木巡礼」で検索すれば、今でも当時のままの 「巨木巡礼」 のホームページが御覧いただけます。) その記録をここへ再録しよう。平成12年6月30日午後4時10分頃に、 智満寺の大イチョウは倒れた。 ************************************************************************ 訃報 「智満寺の大イチョウ」   平成12年7月1日 静岡新聞7月1日朝刊に次のような記事が載った。   「島田智満寺の県天然記念物 大イチョウが倒木」 という見出しで、 「三十日午後四時十分ごろ、島田市千葉、智満寺(北川靖豊住職)境内の県指定の天然記念物の大イチョウが根元から倒れた。北川住職によると同日の昼前から傾き始め、根の切れる鈍い音がしたことから参拝客を通行止めにしていたところ、幹回り七メートル、高さ三十メートルの大木が根の部分から倒れたという。倒木によるけが人はない。島田市博物館文化財係、ここ数日来の雨と風で木に負担がかかったことが原因とみている。大イチョウは推定樹齢三百年という老木で昭和三十一年に県の天然記念物に指定された。樹芯(しん)は朽ちていたが、枝ぶりは良かったという。」  記事を見て、なじみの巨木であったのでびっくりして、その日の午後、梅雨の晴れ間の暑い中を「智満寺の大イチョウ」 の最後の姿を見届けようと智満寺に女房と出かけた。  無残な姿であった。しかし、イチョウは人を傷付ける...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(8)終り

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  千葉山智満寺本堂 (ネットより拝借) 2026.5.6 お昼前、初馬から孫が二人来る。次男は今日は野球だといい、来られなかった。 早速昼にパスタを作る。この頃はもっぱら簡易な造り方で、乾麺100gに付、水300ccをフライパンに入れ、乾麺は半分に折って入れる。塩を少し入れ、10分位煮ると水を吸って、水が無くなる直前、市販のパスタの元を投入、混ぜれば出来上がり。今日はミートソースで、トマトを細かく切って途中で投入、少し味が薄いと思えば、ケチャップを入れる。手元のあるものなら何でも、煮れるタイミングで投入する。今日はトマトに加えて、ムキ冷凍エビやら、刻んだ椎茸やら好きに入れた。 パスタが柔らかくなったかどうかだけは気を付ける。出来たら途中はフライパンに蓋をすればよい。吹いたら蓋を取る。十数分で出来て、無駄な御湯は出ないから合理的である。テレビでこの方法を知り、最近はもっぱらこのように作る。おおむね好評である。 米が高くなってから、昼はもっぱらこんなものである。 「 島田市北方の山々 」 の最終回を載せよう。    ***********************************************************************   もはや今の車道を引き返すようにして南下する以外にはなかった。誰かに尋ねたくとも山の中である。家もなければ人も見えない。そんな時に限って、又、車も通らない。詰まるところ、だいぶ戻った所へ、今度は本当の、智満寺へ行く車道と合っしていたのであった。その道は二年前に夜道を下った所で、感じとして覚えがあった。そこからは智満寺はそう遠くはなかった。  これは後にさとった所であるが、「案内書」に云った道は、本道の右手ならぬ左手の尾根道であった。こちらには地図にもちゃんと径が描いてあるのであった。自分も以前に、そこへ赤線を付して、計画した径なのであった。(しかし又、この地図にある径では、近道にはならないから――307米峯を越える ――もっと麓の小径があるのか。 )  案内書の「近道」に連られて、誤読して迷った。以上が経緯であった。  智満寺へは、今回は待望の正面から上ったのであった。先回にざっとしか見なかった宝物殿を再見するのも、今回の眼目であったけれど、時間の方も気になり、又の楽しみにして奥の院へ...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(7)

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裏の畠のノビルの花   ノビルを増やして食べたいと思い その昔、土手から取って来て裏畑に植えた 今や放置状態の畑に、この季節になると ノビルの花が咲く 2026.5.5 今日は子供の日、近くに子供の姿を見ることはなかったが、午後マーケットに行くと、親子孫、8人の一団が買い物を終えて帰ってゆくのを見た。女房と見とれて、つい人数を数えてしまった。今日だからの一団であったのだろう。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。寛峰さんは、道に迷うことを山歩きの醍醐味と感じている風に見える。    ***********************************************************************    智満寺奥の院  第三回目は、同年十二月九日、謂わば第二回目から、直ぐ四日の後の事であった。今度こそ智満寺へ、南方正面から登ってみようと思ってゞあった。  島田駅では、やっぱり天徳寺行のバス迄かなり間があった。歩く事にした。智満寺迄は、九粁ほどだとある。島田市は直きに端(はず)れになり、低い山を左右にした農地の間の道であった。途中しだれ桜で有名な慶寿寺がある。その手前の田の中の小川沿いが、若干桜堤である。むろん今は冬の枯木である。冬枯木にしても、 慶寿寺の 枝垂桜というのを見ておきたいと思ったが、見当たらなかった。  天徳寺を過ぎてからは、道は登り勾配になっていた。しかしここで、ちょっぴり道を間違えてしまった。普通なら間違える事の方が、 難しい位の、分り切った道なのにであった。車の通れる道をうね/\と谷沿いに伝って行きさえすれば、いやでも智満寺へ着けたのであった。それを間違えた次第はこうであった。  自分がこの度は持参した案内書には、  「‥‥‥天徳寺から十五分、右に会下の沢林道を分けると、まもなく山田にでる。自動車道をたどるのもよいが、左手の小さな尾根につけられた近道を登ると再び自動車道に出る。ここは千葉林道の分岐点で、道を左にとれば十分ほどで智満寺石段下に着く ‥‥‥」  とあった。自分はこの中の、「右に会下の沢林道を分けると」というのを、「分け入る」という意味にとってしまったのであった。普通、道などを歩く場合、「分ける」は、「草を分ける」とか「藪を分ける」とか、そこを「分け入って進む」意味に用いられる...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(6)

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庭のデンドロビウム 2026.5.4 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。    ***********************************************************************  半分も下ったろうと思われる頃であった。左手の蜜柑畠に二三人のおばさん達がいた。蜜柑を取り終わって、帰り支度をしているというような女の人達であった。皆姉さん被りをし、紺絣の着物を着、もんぺを穿いた、あのきりゝと赤襷を掛けた女の人達であった。  と、その中の一人が自分に声を掛けて来た。  「五時のバスですか」  「そうです」自分はやっぱり五時何分のバスがあったと安心しつゝ、「間に合いましょうか」と尋ね返した。  「さあ、ちょっとお急ぎなさい。まだ割にありますから(道程が)。でもなんとか間に合うでしょう。」  自分は礼を云い、そこからは駆足にした。  それからものゝ五分も駈けた頃であろう。後から自転車で来たのは今し方声を掛けて下さった女の人であった。その人は自分の傍で止ると、自転車から下りつゝ、よかったらこれに乗ってお行きなさいと云うのであった。云いつゝ、もう荷台の背負い篭を下しにかゝっていた。  「でも、それでは申し訳ないですから‥‥‥。駈けて行きますから。」  「いえ、いゝんです。ここからまだ大分あるんですよ。歩いていては間に合うかどうか分りませんから、よろしかったらどうぞどうぞ」  と押し着けるようになさる。自分も、その急(せ)かせる調子に何か連られて、ではと、借りる気になってしまった。  「そうですか ‥‥‥ 」などゝ、でもためらっていると、  「自転車は停留所前の菓子屋の塀に凭れさせておいて下さればいいゝですから」  と早や自転車を手渡して下さる。自分もそれらの言葉に甘えてしまって、借りてしまった。「お急ぎなさい」という言葉を後にして。  農道と云っても、石ころなどもあり、急いで下る自転車は、ぼこんぼこんと弾んだ。成程相当の距離であった。これでは歩いたら三十分では利かないと思った。  バスはすでに入って来ていた。五分ほど経って発車した。五時五分は十分の発車であったであろう。終車一つ前のバスで、終車迄には一時間の余の間があった。  結局そのバスで今回は、島田駅での列車の連絡もよかったのであった。親切な人もあったもの...

自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(5)

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  散歩道のハナビシソウ 2026.5.3 今日は西日本から雨になっている。ゴールデンウィークでお出かけの人たちは大変だ。 「 島田市北方の山々 」 の続きを載せよう。    ***********************************************************************  今度は頂上付近から、その西南方へと走っている尾根通しを見下ろして、思わず嘆声を放った。その美しさったらない。尾根通しのみが、一本の帯状になった雑木紅葉の巾のある線なのであった。どういう訳で尾根道沿いのみ落葉樹であるのか知らないが、それを上から鳥瞰する様は、何とも綺麗の一語であった。橙がゝった明るい紅葉は艶やかですらあるし、それが蜿蜒と彼方の頂まで続いているのである。自分はしみじみと充足感を覚えずにはいられなかった。願わくば、こういう時間が、終らないでおいてくれと、自ら祈られてしまうものですらあった。  尾根には明瞭に径がついていて今度は楽であった。自分は今、こうして、先程鳥瞰した紅葉のトンネルを潜っている訳であった。何度立ち止った事であろう。何度青空を背負った紅葉を見上げて立ち尽くした事であろう。一に、こゝいらの山紅葉は、一層柔らかさ、優しさが勝っているように思われた。  菩提山(677.3米 )の頂には、何か伝説があった。たしか岩の上に祠があって、このほとりの守護神と化したお坊さんが祀られていたように思う。埋もれた地方にも、立派な人がいたものだと感銘した。ここらはハイキングの人らも来るとみえて、そんな形跡があったような記憶である。自分は、もうやがて桧峠で、今迄の紅葉のトンネルも切れてしまう淋しさに、いや/\下るのであった。  桧峠は想像以上に広闊で、明るい所であった。いわゆる物静かな山の峠の心像とは異っていた。山のなだらかなあたりは、開墾されて畠又畠であり、農家が点在していた。自分はそこの小さな社の境内で、日向ぼっこしながら残りの弁当を使った。  自分は出来たら、こゝから南方の尾根を踏んで、千葉山へ迄行ってみたかった。しかしそういう時間も今はなさそうであった。時、四時頃であったのであろうか。それに南方の方のその尾根道は、ブルドーザーが入っていて、巾広い赤ちゃけた山肌を、遥かの方まで晒していた。とてもそんな所を歩く気はしな...