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自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(4)

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「こわめし坂」下より 30年前も富士山は変わらない 2026.2.23 天皇誕生日の今日は、富士山(223)の日でもある。30年前の一行も街道歩きのあちこちで富士山に出会っている。一行はようやく三島大社に着いたようだ。 ************************************* 車道から旧街道へ、標示は無かったが、それらしい様子と地図で確かめて、旧街道に入る。所々に石畳が頭を出していて、確認出来た。下り切った所にこれより「臼転ばし坂」と標示があった。箱根旧街道には数多くの命名された「坂」あった。昔の旅人は名前の付いた坂を一つ又一つと乗り越えて、励みにしながら登って行ったのであろう。我らは反対にそれらの坂を楽々と下ってきた。 箱根街道の入口の角に「箱根路」と彫り込んだ大きな石碑があった。これは往路のバスの中からも見えた。バス道の両側に一段高く松並木が始まった。ここは「初音ヶ原の松並木」で西側には松林の更に西側に石畳が復元されて、この石畳と松並木は、静岡県街並50選に「石畳の道」として選ばれている。松並木を100メートルほど歩いた所に「錦田の一里塚」があった。バス道の向こう側とこちらに、対で塚が残っている。塚の上には榎が植えられている。街道筋で最も典型的な一里塚として現存するものの一つだという。一里塚の側には箱根八里記念碑「錦田一里塚」の文学碑があった。 日々うらら 松の道場の 一里塚     ( 作者名読めず ) 作者は書かれていたが、どうしても読めなかった。 松並木の終わりに、小さな「雲助備前繁の墓」が置かれていた。そしてすぐ隣に(と記憶しているが)「箱根大根の碑」が建立されていた。見た時はそれと判らなかったが、後日、本でそれと知った。 箱根八里の馬子吹き消えて / 今は大根を造る歌    源水 明治になって鉄道が通り、 街道が廃れて、旅人の世話を業としていた人達が大根作りを始めた。この街道の切干大根は有名であった。和さんも昔、会社の先代会長に頼まれて、この辺りにニンジンを買いに来たという。この辺りはニンジンも旨いと評判だったのだ。 これより町中の裏道を「愛宕坂」「今井坂」と下って三島大社へと続く通りに出た。四人とも、箱根から何も食べていない空腹と、長く続いた下り坂に重くなった足を、ゴール間近と励ましながら歩いた。 静岡県一の初詣客で賑わう三...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(3)

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大井河源記(解読版) 2026.2.22 今日、大井河源記(前編・後編)解読版が仕上がった。少しづつプリントして、関係の皆さんに配ろうと思う。これで、歳代記(二分冊)、大地震の記、に続いて、三本目となる。 ***************************************** 東海道ウォーク一日目、一行はまだ箱根から三島宿への途中だ。 車道を少し歩いた所に、「菊池千本槍の碑」があった。御醍醐天皇の頃、菊池氏が竹竿に短刀を括り着けて槍を作り戦いに望んだ。それまで槍という武具は無かったというが、本当なのだろうか。 再び旧街道を下り車道に出た所に、大きな芭蕉の句碑があった。 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き    芭蕉 芭蕉翁、富士山が見えず負け惜しみの一句である。今日は句碑の背後に富士山が見えた。再び箱根竹の旧街道に入った所に、鎖に囲まれた石柱の「明治天皇休息碑』があった。恐れ多くも、その傍らで和さんは小用を足した。他の三人は少し離れた街道脇で連れションに及んだ。それより「上長坂」と呼ばれる長い下りの石畳の旧街道を下った。 旧街道が集落と車道に出合う手前の人家の前に、「笹原一里塚」があった。道路より少し高い所に丸い塚がしっかり残っていた。塚の上の樹木は榎であろうか。傍らに箱根八里記念碑「笹原一里塚」の文学碑があった。 森の谺を背に此の径をゆく 次なる道に出会うため      大岡信 車道を突っ切って人家の間の舗装道路を行く。この辺りを「こわめし坂」というようだ。道路工事中で、削岩機がコンクリートを割るすぐ側を通る。こわめし坂から車道に出たあたりで見る富士山は、左手の愛鷹山系と並んで面白く、皆んなカメラを取り出しシャッターを切った。「松雲寺」は寺本陣と呼ばれ、かつては人を泊めた。ここにも明治天皇の足跡が碑として残っていた。 すでに午後二時を回り、箱根の山かけ蕎麦もすっかり消化された。このあと空腹を抱えて、食事処を探しながら歩くことになった。あの山かけ蕎麦がなかったら、もっと辛いものになっていただろう。 車道から外れ、学校のそばを行く。学校のある辺り、昔は法善寺という寺があり栄えていた。寺の中に「七面堂」というお堂もあった。今はただ石碑が残っているだけである。それより下る急坂の歩道を「題目坂」といい、登ってくる旅人は法善寺を目指して、お題目を唱えながら登って来た...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(2)

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  令和7年版 面白古文書12月 2026.2.21    本日は金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座を実施した。受講者で身体を壊す人がちらほらある。年齢が仕事を終えたあたりの人が多いから、やむをえないとはいうものの、ぜひお身体には留意していただき、長くお付き合い願いたい。 受講者の皆さんに、「面白古文書12月」の令和7年版を配った。これで5冊目(5年目)となる。毎月の講座の冒頭に、短い様々な古文書を読んできて、その総数が60になる。どこまで続けられるかわからないが、今後も続けようと思う。 *********************************************************************************************** 東海道ウォーク一日目、一行は箱根から三島宿へ下っている。 茨ヶ平の、東方の山並を見晴らせる位置に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」が建てられ、次の文字が刻まれていた。      北斗闌干    井上靖 (「闌干」は月や星が光輝くさまを示す) 「箱根八里」を後世まで残すために、道中八ヶ所に著名な文学者に依頼して建てられた文学碑の一つである。神奈川県側に四ヶ所、静岡県側に四ヶ所設置されているという。 火山灰地の上に箱根竹が繁茂して道を狭めている旧街道を下ると、一度車道へ出てまた旧街道に入り、すぐに車道に出る。車道に出る手前に「接待茶屋跡」があった。柵で囲われた接待茶屋跡には一面の碑と二人の胸像があった。その胸像に「鈴木利喜三郎」という名を見つけた。鈴さんとは一字違いの名前である。さらに車道を渡った箱根旧街道の入口には、灌木に囲まれて「接待茶屋」の共通サインがあった。近くに「山中新田の一里塚」があったはずだが、気が付かずに通り過ぎてしまった。 頼朝が兜を置いたとも、秀吉が兜を置いたとも言われている「甲石」は、大きなおむすび型の石が旧街道脇にある。もう少し上にあったものを、道路改修時にじゃまになってここへ移したものだという。街道筋の大石が多くの人に見られる内に、様々な伝説が出来ていく様子が知れて面白い。甲石から少し下った所に「明治天皇御小休跡碑」の石柱があった。 これも道中には珍しい巨石「念仏岩」があり、下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。旧街道は所々に石畳を残しながら「...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(1)

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  出発地点 箱根関所 2026.2.20    遠江三十三観音を終えて、次は東海道を歩こうとの約束通り、一ヶ月後、まだ松が明けないうちに、 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)を 計画した。今から30年前の記録である。一緒に歩いた仲間たち(いずれも職場の先輩)は皆んなあちらの世界に旅立ってしまった。今やこの記録だけが、当時の仲間たちの息遣いが知れるものになってしまった。 それでは始めよう。 ********************************************************************************************* 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿) 西暦2001年には東海道に宿駅制度が出来てから400 年を迎える。最近、東海道五十三次が見直され、街道筋に諸施設が整備され、各種イベントが催されて歩く人も多いという。特に静岡県内では、共通サイン(東海道の道標)が設置され、宿場ごとにスタンプが置かれていて、歩く励みになる。我らも東海道五十三次を歩こうと計画する。しかし、いきなり日本橋からでは辛いから、手始めにまず静岡県を歩こうと思う。静岡県には何といっても五十三次の内二十二宿がある。すでに図書館で旧東海道の道筋を調べ、国土地理院発行の二万五千分の一地図に落としてある。さて、いかなる弥次喜多道中となりますやら。 松の内、箱根旧街道石畳をひた下る     箱根関所 → 三島宿 日時 平成7年1月5日(木) 箱根、曇り、のち晴れ風寒し スタートは県境(箱根峠)にしようとも思ったが、いずれ後日、日本橋から歩く際のゴールが箱根峠では交通の便が悪いと考えて、箱根関所とした。出発は一月の松の内とする。一昨夜、和さんから、明日は雨の予報だから明後日に延期したいと電話があった。雨の出発では辛い気持は同じである。一も二も無く賛成する。案の定、昨日は今の季節には珍しく大雨であった。明けて今朝、低気圧が東へ抜けて季節風が吹き出し、暖かな正月の天気から、一転して、晴天ながら寒い一日になりそうであった。まだ正月気分の抜けない三島駅から箱根登山バスに乗る。切符売り場のおばさんは、関所までと言うと、歩くなら終点の元箱根まで行けば、箱根杉並木も見られるから、と勧めた。しかし、スタートは関所からの方...

【活動の記録】と【読了図書】1月10日~2月14日

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庭の紅葉、これは何? シダ類の紅葉? ミズゴケという説は本当か?   2026.2.1 9 久しぶりに「活動の記録」と「読了図書」を記そう。読書は年明けがくんと減った。   *******************************************************     【活動の記録】 1月10日        午後、 「 駿遠の考古学と歴史」講座受講。 1月14日        午後、 まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」 講座講師。 1月17日   午前、 金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。           午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。 1月21日   午後、金谷郷土史研究会、「歳代記」をテーマに話す。 1月23日   午後、駿河古文書会に出席。 1月25日   午後、みんくる歴史講演会、北原勤氏。  2月6日        午後、駿河古文書会に出席。        夕方、まきのはら塾発表会準備。  2月7日   一日、 まきのはら塾発表会。        午後、まきのはら塾、ミニ講座。  2月8日   一日、 まきのはら塾発表会、および片付け。  2月9日   パソコン壊れ、更新の依頼す。 2月11日   まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」 講座、        資料準備できず、25日に再度実施。 2月12日   午後、掛川古文書講座受講。   2月13日   午後、 「 駿遠の考古学と歴史」講座受講。 2月14日   午後、 駿河古文書会に出席。        パソコン、更新完了。   【読了図書】 読書:「 本所おけら長屋(十四) 」  畠山健二  著 読書:「大川三つ巴 小料理のどか屋人情帖45」 倉阪鬼一郎 著 読書:「本所おけら長屋(十五)」 畠山健二 著 読書:「 本所おけら長屋(十六) 」  畠山健二  著 読書:「おまあ推理帖」 諸田玲子 著 読書:「下町やぶさか診療所 モナリザの微笑み」 池永陽 著 読書:「 本所おけら長屋(十七) 」...

金谷郷土史研で「大地震能記」を提供、紹介

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山崎久麻呂の記した安政大地震の記録 「大地震能記」の解読版 2026.2. 18 午後、金谷郷土史研究会に出席した。10名近い出席があった。 前回の金谷郷土史研究会では、自分が解読したものを提供して紹介した「歳代記」で、話題になった、『中山新道がどのあたりにあったのか』が大きな疑問として残った。その点について、N氏が調べていただいて、その発表を聞いた。結論的には、金谷坂の登りと、佐夜鹿の道銭場(有料道路、中山新道の料金所)あたりと、その後に出来たトンネルの、上にあった峠の部分だけが昔の姿を残すだけで、他は日坂まで旧国道一号線となって、拡幅改良されて、形を変えてしまったという。 写真を見ると、 中山新道の内、 トンネルの上の峠道は、倒木や落ちた枝などに覆われて、通ることもままならない状態になっているようだ。ただ、写真には既視感があった。その峠には登ったことがあると思った。20年から30年くらい前のことだと思うが、峠は歩いて越えられたように思った。ただ、誰とどういうきっかけで訪れたのか、すっかり忘れているので、その場では行ったことがあるとは、発言出来なかった。 そのあと、掛川の山崎久麻呂氏が書いた、「大地震の記」の解読版を提供して紹介した。前回の 「歳代記」に続く、教科書では決して教えない郷土の歴史である。その大地震は「安政大地震」のことである。その揺れがどれほどであったか、庭に逃げ出すのに何度も転んだとか、九つの孫は地震の揺れを面白がって、同年配の友達と庭ではしゃいでいたとか、外出していた息子が急いで家に戻る途中、田んぼに転げ落ちないように道に張り付いて耐えていたが、田の水がバシャバシャと掛かってなど、体験記が続く。(地震を面白がった、孫の「富丸」は十数年後、江戸に向かう官軍を案内した、遠州国学の徒の一員に入っている。) 皆さんにもぜひ読んで貰いたい体験記で、昔の言葉で少し難しいが、解読して十分読めるように工夫がしてある。安政大地震は体験記がいくつも残っているから、別の人の者も紹介したいと思う。そういえば、前回紹介した 「歳代記」にも安政地震の記述があった。

印刷がエラーになって

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桑原黙斎の絵 「知者嶺」 奥に後黒法師山・前黒法師山が見える 2026.2.17 ようやく写真を取り込めるようになった。その最初が桑原黙斎の絵である。今、桑原黙斎の「大井河源記」の解読版を仕上げている。そこへ挿絵として本人の描いた絵を入れようとしていて、ようやく出来るようになった。遣り方を覚えればそんなに難しくなくて、これまでよりも画像の加工が簡単になった。 その前に、印刷がおかしくなって、プリンター側にトラブルは解消されているのに、パソコン側では印刷エラーが出てしまい、印刷ができないトラブルであった。多分これだと気づくまでに一日かかった。つまり間に入ったルーターがエラーを出していると。ルーターの再起動を、共用している息子に断って、今夜再起動をしてみたら、印刷できるようになった。 勝手が全く違うので、一つ一つクリアしなければならない問題がまだまだある。ただこれで当面は使えそうになった。 ところで、 「大井河源記」は駿河記を手掛けていた 桑原黙斎さんが、大井川の東側(駿河)の村々へ取材の旅をした記録で、文化九年(1812)の古文書である。原本は失われて、写本がいくつか残っている。解読された方も何人かおられ、印刷物も残っているが、写し間違いや、解読の相違などもあって、何が正しいのか判断に困る部分もあるが、文章にしてみて、最も納得できるものを採用して、解読を仕上げた。前編、後編の 二分冊として、前半が何とか完成して、後は表紙をつけるだけである。挿絵として黙斎さんの絵を利用させてもらった。 前半では、大蛇の話、山丈(やまおとこ)の話、白浪(どろぼう)の話など、挿話もいくつかあって、興味深い。希望の人にはお分けしたいと思うが、もう少し時間が掛かる。