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自分古文書(20)ファミリー山行(1)高草山

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今夜はちらし寿司 2026.10.24 午後、金谷郷土史研究会の「竹下村誌稿」講座、第5回(最終回)が実施され これより、自分古文書「ファミリー山行」を載せる。30代から50歳で、気管支喘息を発症するまで、20年ほど、山登りを趣味にしていた。色々な山に登ったが、記録が残っているもの、そうでないものも、記憶には残っている。まずは、記録の残っているものをここに掲載する。ちなみに昭和57年は1982年、今から44年前になる。 「 ファミリー山行 」の掲載を始める。 ***********************************************************************   ファミリー山行 (1) 高草山 501.4m ー 初山行、カラス瓜採り、沢蟹も ー 月 日   昭和57年11月21日(日) 天 候   晴れ、小春日和、全体にかすみのかかったような天気なり 同 行   長男(10才)・長女(8才) 初めての山登り 行 程   金谷駅( 9:00 )➡ 焼津駅 ( 9:30 )➡ 石脇 ( 10:30 ) ➡        高草山 ( 12:30 ~ 13:30 )➡ 石脇 ( 14:30 )➡  焼津駅 ( 15:50 ) ➡       金谷駅 ( 16:30 ) 感 想 焼津駅から麓の石脇まで、片道約4.5kmを往復とも歩いた。子供に はややきつかったかもしれない。長女は帰りの焼津駅にもう少しの所で、足が痛 いとぐずる。自分は焼津駅の階段で、一瞬足が痛いと思っただけで済む。 麓の駐車場から、急な登りの雑木林を抜け、なるくなると茶畑になる ことを繰り返し、高度を高めて行く。今日は留守番だが、次女 (5才) より小さい子供も登ってい た。 頂上は静岡側半分が高草山中継所で占められて、眺望が遮られている。 焼津側にも大きな木があり、 180°視界がきかない。しかし、茶畑まで 下った所の展望は最高であった。また岡部側へは中継所へ資材を運ぶ道 路が付いていて、50mほど下った所から静岡側が良く見えた。雲の上に 雲と見紛う薄さで、雪をいただいた富士山が見えるのを長男が見つけた。 花沢山へ下る道は、小さい祠の裏手より続いているらしいが、ハッキリしな い。頂上は焼津の教育委員会主催の山登りの一団(約150~ 200...

解読依頼の、江戸駿府の狂歌より

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  静岡市南部生涯学習センター 2026.10.23 出来上がった狂歌の課題、午前中に静岡市南部生涯学習センターへ、USBと、そのプリント したものを渡して来た。 南部郷土史大学の記念誌を出すので、それに載せる原稿だと聞いている。 係り員が承知をしていて、 USBは先のパソコンにコピーして返してくれた。 江戸時代の後期、駿府では狂歌を趣味とする町人が多く、集まりも多く持たれたようで、今、読んでいる「硯屋日記」も筆者が狂歌好きで、日常生活を題材に、日記の中に、頻繁に狂歌が出て来る。ただ、単に語呂合わせのような狂歌が多く、決して上手とは思えない。 その駿府の狂歌の会で優秀とされた40首が、今回解読したものである。せっかくだから、三つ四つ、その狂歌を紹介しよう。   青柳 あおやぎ に 朝の 京 水 きょう すい   注 ぎ 足 して 長き夢みる  春近 はるちか の宿   暁 あかつき の  枕 まくら 時計に 今一度 かけてもみたき 夢の浮橋   秋風の 吹くたび/\に うなづいて 時知り顔の 萩が 花妻 はなづま     語らいし  連理 れんり の枝も 枯れ果てゝ 胸のほむらの  薪 たきぎ とぞなる これが当時流行した狂歌である。題材に色恋ものが多い。「枕時計」という言葉が出て来た。はて、この当時時計は、どの程度普及してなのだろう。S先生に電話で尋ねたところ、高価だったが、あるにはあったという。裕福な商人なら所持していたかも。 よく意味を考えると、狂歌の楽しみ方が分ると思う。

「蕉園渉筆」(漢文)を読む(89)(遠州魚)

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  鱠残魚(しらうお) 毛利梅園著「梅園魚品図正」より(江戸、天保6年) 2026.10.22 狂歌の解読課題、昨日、今日、二日で終わる。明日、時間が取れたら届けよう。 今、懐中電灯を照らしながら、入力している。部屋の蛍光灯が切れてしまった。開けてみると、蛇がとぐろを巻いたような 蛍光 ランプが入っている。これは自分の手にはおえそうにない。明日、電気屋さんに電話しよう。 それにしても、パソコンは照明がないと使えないことが改めて知った。キーボードが見えないのだ。   「 蕉園渉筆」解読の続きを載せる。 *********************************************************************** (原文) (遠州魚) 〇余在都下嗜春時比目魚、遠州無有也、赤鬃魚多、有、味減都下者、 且皮肉際有悪臭、土人以龍蝦為勝都下、信然、香魚産大堰川者佳、 遠而不得、香魚腐速也、余嗜膾残魚、遠州不産、波津海浜所網、 土人当之、然於真膾残魚 (解読) (遠州魚) 〇余、在都下に在り、春時、 比目魚 (ひもくぎょ) を嗜 (たしな) む。 遠州有ること無きなり。 赤鬃魚 (あこうだい) 多く有り。味都下より減 (げん) ずもの、 且 (か) つ、皮肉際 (ぎわ) に悪臭有り。 土 人 (どにん) 、龍蝦 (いせえび) を以って 都下に勝ると為す、 信然 (しんぜん) 。 香魚 (こうぎょ ) 、大堰 (井) 川に産するものは 佳 (よ) い。遠くて得ず。香魚は腐りが速いなり。 余、 鱠 残魚 (しらうお) を 嗜 (たしな) む。遠州には産せず。波津 (はつ) 海浜網する所、 土人、こ れに当る。 然 (しか) し、真の 鱠残魚 (しらうお) に非ず。 (語注) ※ 比目魚(ひもくぎょ)➔ ヒラメ・カレイの異名。 ※ 赤鬃魚(あこうだい)➔ フサカサゴ科の深海魚。アコウまたはメヌケ,メヌキなどともいわれる。 ※ 信然(しんぜん)➔ 信じるねうちのあること。また、そのさま。 ※ 香魚(こうぎょ)➔ アユの異名。 ※ 鱠残魚(しらうお)➔ シラウオ科の魚。全長十センチ。生きている時はほとんど無色透明、死ぬと白くなる。日本海全域と、太平洋側では本州中部以北に分布。汽水域にすみ、春、産卵のため川を遡る。( 波津のものは し...

「蕉園渉筆」(漢文)を読む(88)松魚

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松魚(鰹魚烏帽子)、つまり「かつお」 毛利梅園著「梅園魚品図正」より(江戸、天保6年) 字は細かくて読めないが、「松魚」の所は判る 2026.10.21 午後、金谷郷土史研究会の例会。Hさんに寄り、江戸初期、11年の東海道、その主に島田側の調査の報告がなされた。11年だけの東海道になかなか400年も経った現在、その痕跡を捜すのは大変である。その重要な痕跡は「一里塚」の存在なのだろうが、郷土史家の先輩たちが想像した径も、中々納得しがたいようであった。  「 蕉園渉筆」解読の続きを載せる。 *********************************************************************** (原文) 松魚 〇癸未歳自初夏至秋末、相良之海出松魚十倍於常年、余在江都不嗜松魚、 初来試喫之、味与江都別、作鱒紅色之鮮、最可賞也、 松魚江都所鬻産於相州、 三四月初出者購以数金、都人嘗新為栄、 貴家相競、貧者典衣而食、遠州掛川駅、 距相良一日程、逓送松魚嘗新為栄、 稍与都人似矣、一民典衣而食、余鱠少許、 夸餽諸隣人、喜謂、独嘗之不情也、 乃招其旧知、署案買酒、待弄紅鮮、 旧知来見其不多、以為主人既飽、 卒下箸一口喫二三臠、見之意頗忿、 傾杯已亦喫一臠、客又一口喫尽、 興趣索然、於是忿形色、切歯扼腕、大声成勢、 欧撃知旧然後快然忿解稍愧走入別室、 知旧始識其待、己不喫、自忍海窟辱去、 余泊駅時逆旅主人話之 (解読) 松魚 癸未 (文政六) 歳、初夏より秋末に至り、相良の海、 松魚 (しょうぎょ) 常年の十倍 出 (い) づ。 余 (よ) 、江都 (江戸) に在りて松魚を嗜 (たしな) まず。 初来 (しょらい) これを 試喫 ( しきつ) す。 味 (あじ) 江都 (江戸) と別して、鱒 (ます) の紅色の鮮 (あざや) かさを 作 (な) して、最も賞 (め) でるべきなり。 松魚 (鰹) 、江都 (江戸) で鬻 (ひさ) ぐ所、相州に産し、三、四月初出 (しょしゅつ) もの、 数金 (両) を以って購 (あがな) う。 都人、新しきを 嘗 (な) め 、 為栄 (いえい) す。 貴家相競 (きそ) い、貧者 典衣 (てんい) して食う。 遠州掛川駅、相良 に一日程 距 (へだ) つ。 遠州掛川駅、相良に一日程距 (へだ) つ。 逓送 (て...

「蕉園渉筆」(漢文)を読む(87)造池

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  江戸狂歌本選集第十五巻 より 2026.10.20 午前中、県立中央図書館に行き「 江戸狂歌本選集第十五巻 」を借りて来た。歴史のS先生から頼まれながら、先送りにしてきた課題だが、10月末が期限と聞き、漸く行動に起こす。はじめ課題も一目見たとき、これは単なる古文書の解読とはいかない。余程、狂歌について勉強しなければ、読めそうにないと思った。ただ受けた以上は曲がりなりにも課題をこなさねばならない。写真のようなものが、四枚、これを解読するのが、課題である。夜、ほぼ1枚解読してみたが、幾つか疑問が残った。後、10日、何とか頑張ってみよう。 帰りにO氏宅に寄って、一般向けに解読した冊子を11冊進呈してきた。 「 蕉園渉筆」解読の続きを載せる。 *********************************************************************** (原文) 造池 癸未冬賜部内之責、其歳所賠併分還、独目木村、里正次郎左衛門会邑民告之曰、 焼券、其恩已大矣、併賜所賠恵豈可忘哉、今湖池所用一、所圮折二、毎歳有旱患、 若以恵再興之、永不遺忘而無旱患、我別仮金、補其不贍、衆皆諾焉、乃改作、 民免患、余以状聞于太公、公感甚、志有賞賜、又為邑民修理余一池、以能従里正之意也 (解読) 造池 癸未 (みずのとひつじ) 冬、部内 (領内) の 責 (せき) を賜 (たま) う。 その歳、併せて 分還 (ぶんかん) を 賠 (つぐな) う所、 独 (ひと) り目木村、里正 (名主) 、 次郎左衛門、 邑民 (ゆうみん) に会い、これを告げて曰く、 焼券 、その恩、 已 (すで) に大なり。 併せ賜う所、 賠恵 (ばいけい) 、 豈 (あに) 忘るべきや 。 今、湖池に用うる所一つ、 圮折 (ひせつ) する所二つ、毎歳、 旱患 (かんかん) 有り。 若し、恵み ( 賠恵 ) を以って これを再興なれば、永く 遺忘 (いぼう) せずして、 旱患 (かんかん) なし。 我が 仮金 (かきん) を別け、その贍 (た) らざるを補う。衆 (村人) 、皆な 諾 (うべな) う 。 乃 (すなわ) ち改作し、民 (たみ) 患 (かん) を免る。 余、状を以って 太公 (たいこう) に 聞く (知らす) 。公、 志 (こころざし) に 甚だ 感じ 、 賞賜 (し...

吉田町のT古書店へ行く

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千葉へ移住の田中藩 武家の妻女の手紙 2026.10.19 朝、昨日連絡しておいた、吉田町のT古書店へ行く。T氏は歳の差40数歳の、古文書を通じた若い友人である。年に一、二度会って、古文書について、色々情報交換をしている。いつも10時ごろ訪れるのだが、話が長くなってお昼を越えてしまうので、今日は30分ほど早く訪れた。 古書店とは言え、T氏が最も興味を持っているのは古文書で、仕事の中で触れた古文書を情報として、論文にまとめることを目標として、日々活動していると聞いている。ただ、古文書を理解して、情報が交換できる人は、T氏の周りにも中々いないから、自分が行くと、かっこうの聞き手になって、話が次々に出て止まらないようだ。 今日の話題は、最初は、上流の大井川の瀬替えで、影響をもろに受ける大井川河口に近い村々の様子について、論文にまとめたいと聞いていたが、その話の続編で、この地域を管理しいた何人かの代官の情報が、この地域の動きを考えるに大変重要であると聞く。河口方面から見た大井川の瀬替えが天正18年というのは、やはり無理があるようだという。個別の村々の様子や、代官の動きなど、たくさんの固有名詞をもとに聞いたのだが、その話はT氏が書かれる論文を見てからにしよう。 二つ目は、焼津の主立つ農家から、田中藩の武士へ嫁いで、一男を得た後、その武士の亭主に若くして死に別れた女性の手紙の話であった。まだ幼い息子が家督を継いだが、まもなく明治になり、静岡の各藩は千葉県に移された。主人をうしない、幼い息子を抱えて、遠い千葉へ移住して、周りは見知らぬ人ばかりの、城も何もない地で、大苦労する女性が、唯一頼れるのは実家で、出した手紙が10数通、手に入ったと、きっちり整理されたものを見せて頂いた。 千葉へ移住した各藩の事情が、こういう形で残されたものは大変珍しいと思う。自分の講座でぜひ読んでみたいなあと思っていたところ、そっくり貸して貰えることになった。早速コピーを取って返そうと思う。 三つ目は、知り合いの古書店から、屏風がたくさん手に入り、その表に張られた書画などは剥がして掛け軸などにして利用するが、残りの屏風は処分するばかりになっていた。欲しいなら持って帰ってよいと云われ、その内張りに張られている古文書目当てでもらってきたところ、京都の名の知れた儒学者の父親が、医者、兼、 悉皆屋 を営んでいて、そ...

道しるべを拓本してみれば

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  道しるべの拓本 「左 金谷 右 日坂」 金谷、日坂の間の、少し下に「道」と見えるが、 2026.10.18 番生寺の大井神社の秋祭りで、 騒ぐ音が近くの再製工場の外壁に反響して、聞こえてくる。暑い夏と長雨の後、漸く遅い秋がやってきた。    * * * * *  * * * * * 横岡新田の昔あった火の見櫓に近くに、小さな石の道しるべがある。いつ頃置かれたものかは知らないが、今では彫り込まれた文字も読めない。 金谷広報誌「ほほえみ」令和8年8月号「うまちゃんの「五和日記」」の中に、 「横岡消防詰所横に、南を向いた道標があり、『左金谷、右掛塚』の文字が刻まれています。ここから金谷街道になります。つまり北へ向えば、ここから川根街道ということです。」 と書かれている。金谷宿大学の歴史のS教授に、金谷の道しるべに「掛塚」が出て来るのは如何にも おかしい。風化して判読不能とも書いてあるから、間違いではないのか、と指摘されて、N氏が、それでは拓本を取ってみようと、約束された。 昨日、N氏と現地に出向き、側で洗車している人に断り、拓本を取った。簡易な拓本で、道しるべの表面に専用の和紙を広げ固定し、上からカーボン紙で擦るだけで、拓本が取れる。道しるべを汚すこともない。 結果は写真のようになった。 これをどう判断するかは、視る人によるであろうが、側の家から年配の女性が出て来られて、確かに、左金谷、右日坂と書かれていると聞いていると話された。目の前の家と家の間の、人がやっと通れるほどの細道が、昔、日坂へ行く道であった。その遥か先に、西原が見えている。あの西原を登って、日坂へ通じる道があり、江戸の初めには、島田宿が水害で全滅したとき、11年間東海道として利用されたこともある。 水曜日には、金谷郷土史研究会で、その11年間の東海道の島田側の話を、会員が発表してくれるという。楽しみである。