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SY氏の通夜で思う

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  散歩の途中で、オオデマリの花 2026.4.22 夕方、SY氏のお通夜に行く。当地域では、この頃のお葬式はお通夜だけで、 それも 御香典を納め、御焼香して、故人の顔を拝んで来るだけの味気ないものになってしまった。 SY氏、お母さんが亡くなって4か月、追うように逝ってしまった。薬のない奇病で、本人も驚くほどの早逝だったと聞いたが、何なのだろう。今、日本でも増えているというが。故人の顔は思わぬ早逝の悔しさを含んでいるように見えた。いつも温和な表情がなくて、別の人のように見えた。 葬儀場では参会者が、病院に来たみたいに、皆マスクをしている。自分はマスクをしてこなかったけれども、今はマスク着用が常識なのであろうか。葬場にいた女性たちから声を掛けられても、誰だか判らない。「マスクで判らない」というと、マスクを下げてくれて、昔の部下たちだと分かった。毎日顔を見ているならとにかく、もう十年以上も、顔を見たこともなければ、マスクをされると全く分からなくなるものだ。 SY氏の弟さんにお悔やみの挨拶をした。「二人とも時間が取れるようになったので、講座を受講して見ようと話していたんですが」と聞く。確かの何年か前に彼に講座の話をしたことがあった。お世辞にもそう言ってもらって、嬉しいとともに悔しいと思った。 その間20分ほど、そそくさと葬儀場を後にした。これからはどんなに親しくしていた人でも、死んでしまえば、こんなすげない別れとなってしまうのか。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(2)

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一番茶、直前   花粉症が収まり、久しぶりの散歩で 2026.4.21 一昨日、昨日と立て続けに、長野、東北と大きな地震が起きて、改めて、地震列島を感じる日々である。当地は遠方の地震はほとんど感じることがない。もともと大井川の扇状地が、瀬が変わって出来た土地で、おそらく地下は砂利が幾層にも重なっている土地だから、地震が伝わりにくい地域だと思う。来たる東南海大地震でどうなるかは、神のみぞ知るだが、神様も判断を断るに違いない。 東海道ウォーク(姫街道)1日目の続きである。 ************************************* 静大工学部の脇を通り、北へひたすら歩く。左手に航空自衛隊浜松基地を見る辺りの地名を『小豆餅』という。武田軍に追われ敗走する家康がこの地で小豆餅を食べて空腹を癒したという地名の謂われがある。小豆餅本家『あおい』というお菓子屋さんがあった。そろそろ空腹を感じていたため、小豆餅という名前に引かれて立ち寄る。小豆餅は安倍川餅に似たものであった。早速、鈴さんが購入した。 すぐ先に『飛行聯隊前駅跡』の標識があり、臼さんの記憶によると、気賀から鉄道が出ていたが浜松までは通じていなかったと思うという。電車ではなくて蒸気機関車だったようだ。 市野から気賀へ至る道との合流点を三方原追分という。そこにサインがあった。うっかり近くの宿との距離を書き取り忘れたが地図で推量して記入する。 浜松宿  6.5km   → 【浜松市追分】  →  気賀宿  7.7km 側に『権現様跡』の標識がある。『追分の一里塚』が近くにあると思い、角の交番に入り聞いてみたが知らないとの答えだった。(帰ってから調べた所、追分の一里塚は交差点から市野の方へ少し戻った道路端に現存しているとのことであった) この交差点より姫街道の松並木が始まる。残っているのは道路の西側だけだが、これより断続的に約3 .7 キロ続くという。太い松が多い中に、枯れて切られた新しい切り株が何本か見られたのは残念であった。途中の宝くじ売り場で、臼さん、鈴さん、川さんが年末ジャンボ宝くじを買った。聞けば当たる率が大変高いというが? 途中『権七店』という茶店のあった地点に標識がある。この辺りはかっては松並木だけで何もなく、小さな茶店が大変貴重だったのだろうと思う。側に権七...

SY氏の死を新聞訃報欄で知って、ショック!

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庭の白いツツジの花 今の自分の心境を表すか 2026.4.20 今朝、起きがけに夢を見た。 最近よく見る夢に、相棒と故郷の周囲の村々を歩いて、街中へ向かおうとするが、ぐるぐる回るばかりで一向に街へ向かう道が見いだせないという、何ともイラつく夢がある。その相棒は、当地へ来てからの知り合いや友人ばかりである。今朝の夢も、八條だとか三江の名が出てくるが、川向うへ行く道や橋が見つからない。今日の仲間は長年自分の部下として、共に仕事をしてきたSY君であった。 目が覚めて、起きだし、静岡新聞を見た。この頃はついつい訃報闌に目が行くのだが、何とそのSY氏の名前が載っているではないか。嘘だろうと、よく見れば住所も喪主が弟なのも符合する。間違いない。70歳、それは少し早すぎるだろう。夢に出てきたのはSY氏が知らせたのであろうか。 午 前中、二か所から SY氏の 訃報を伝える電話があった。 家もそんなに離れていないから、これから色々附き合おうと、連絡を取っていたのだが、自宅の電話には出ない。携帯番号は知らないから、そのままになっていた。そうしている間に、しばらく前に、お母さんが亡くなったようだと聞いた。かなりの長寿だったと思う。さらにどうやら静岡で弟と同居しているらしいと聞いた。兄弟ともに生涯独り身だったから、兄弟で住むようになったのかと思っていた。 お通夜は22日だという。 午前中、もう一本電話があった。「6月にある高校の同窓会に出席するか」と、明石のⅠ氏からの電話。どうしようかと迷っていた。講座の受講を二つばかりパスしなければならないし、もう、どうしても会いたいと思う人たちも、鬼籍や施設に入ってしまった。 Ⅰ氏は帰りに施設に入っているKY氏を見舞おうと言う。SY氏の訃報にあったばかりで、このチャンスに会って置かなければ、きっと後悔すると思うと、傘寿最後の同窓会も、KY氏の見舞いも大切に思えてきた。前向きに検討しようかと思う。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(1)

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  往時の 犀ヶ崖資料館 (ネットより拝借) 新築なった今の資料館 (ネットより拝借) 2026.4.19 昨日、講座の終わった後、金谷郷土史研究会のN氏と、金谷公民館の新館長に面会してきた。福祉関係を長年勤め、部長まで務めたM女史、どこまでやってくれそうか、とにかく色々とお願いやら、相談にも乗れる話などして、丁度手元に持っていた、「歳代記」と「大地震能記」の解読版を進呈してきた。任期は三年というが、ぜひとも精力的に活躍してもらいたいと思う。色々な面で協力は惜しまないつもりである。 ************************************* 番外、姫街道ウォーク かって、見付宿から浜名湖の北を通り、本坂峠を越えて、御油宿に至る東海道の脇街道は『本坂道』といわれて、今切の難所を避ける街道として、賑わいをみせていた。そして、宝永四年の大地震で、新居の町が大破してからは、東海道を往来する人々のほとんどが本坂道を使うようになった。しかし、災害復旧と客の激減に困窮する新居の人々を見兼ねて、幕府は大名・旗本については、特別なことのない限り本坂道の通行を禁止した。以後本坂道では大きな行列は、宮家・公家・大名の貴婦人の行列に限られ、いつか『姫街道』と呼ばれることになった。 我らは『東海道五十三次ウォーキング(静岡編)』の最後に、番外として、姫街道を歩く。関東編を始める前に姫街道をこなして置かないとスタンプにきりがつかないとの理由で、とにかく姫街道に出発することになった。 姫街道は東からは、見付宿から池田渡しを経て市野・気賀宿へ出る道、天竜川を渡った安間から市野・気賀宿へ出る道、さらに浜松宿から直接気賀宿へ出る道がある。今回はスタンプのある浜松宿から直接気賀宿へ出る道を選ぶ。 細江名物、みそまん・銅鐸・姫様道中 姫街道( 浜松宿 → 気賀宿 ) 日時 平成7年12年16日(土) 快晴 お天気は快晴で少し寒い。川さんは携帯電話を買うとかで、今日はテストのためデモ機を持っての参加となる。 浜松駅から『姫街道』の起点に向かう途中に、東海道ウォークの本編で通った時は気がつかなかったが、浜松宿の川口・杉浦本陣跡を示す立て札があった。さらに、連尺の交差点の側に高札場跡の立て札があり、浜松宿から入る『姫街道』はここを始点にしたという。 街道を北へ行った鹿谷町...

長野県に5強の地震、偶然に‥‥‥

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  静岡城北公園の満開のツツジ 2026.4.18 午前(初心者)、午後(経験者)と、金谷宿大学「古文書に親しむ」講座を実施した。今日は初年度の第一回で、初心者に10名、経験者に8名の参加があって、今年度も講座が順調に進められそうである。経験者のOさんが一人、参加されるとの話だったが、本日欠席された。気になるので明日でも電話してみようと思う。 今年度は、自分が開講している金谷宿大学2講座とまきのはら塾の講座で、同じ「喜三太さんの記録」全部で140ページを、手分けして読んで行こうと思う。およそ30年にわたる 「喜三太さんの記録」を、最初10年を金谷の初心者講座で、次の10年を金谷の経験者講座で、最後の10年をまきのはら塾の講座で読むつもりで始めた。 難易度は、金谷初心者講座、まきのはら講座、金谷経験者講座の順で難しくなると思う。まあ、読んでみなければわからないが。 午後、金谷宿大学、経験者コースで解読を進めて、「信州善行寺大地震」という表題の「記録」に取り掛かった時、受講者のHさんが「長野の北部で地震が発生した」という。「えゝ、今からその記録を読みます」と答えると、「そうではなくて、今スマホに‥‥」と、何と、なんというタイミングだろう。同じ長野で今、震度5強の地震が発生したとスマホに出たというのである。さらに、そのあと、震度5弱の地震もあった。 古文書の 「信州善行寺大地震」は弘化五年(1848年)の話である。信州の善行寺で御開帳があって、多くの参拝客が参詣に集まっている最中に大地震があり、多くの家がつぶれ、火事がおきて焼失した。参拝客の多くが家の下敷きになったり、火事に巻き込まれたりして亡くなり、その骨を集めて塚を立てて葬ったという。この近辺からもグループで出かけて、地震の情報に途中で引返してきたり、死人が出たりした。藤枝から出かけた20人のグループは一人を除いて全員亡くなったというような話が記されていた。 これは200年以上昔の話で、現代ではそのような事態にはならないと思うが、この偶然をどう説明すればよいのだろう。そら恐ろしい気分である。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(35)

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  静岡城北公園のヒトツバタゴ花盛り 2026.4.17 午後、駿河古文書会で静岡へ行く。城北公園はなんじゃもんじゃ( ヒトツバタゴ )の白い花が真っ盛りであった。 東海道ウォーク11日目の続きを載せる。今日で東海道二十二宿のうぉーくを終える。続いて姫街道を歩くことになる。 ************************************* 町に入るとすぐ 曲尺手( かねんて) の標識があった。ここでは道がクランク型にずれて通りを見通すことが出来なくなっている。大名行列が往来していた当時、行列がかち合うと、位の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。そこで、行列は曲尺手の手前で止まり、斥候を出して、かち合いそうならばお寺などに一時避難し、かち合う事態を避けたという。 東海道スタンプ「潮見坂」 和さんがめざとく谷中たばこ店を見つけて『東海道』スタンプ『白須賀宿』を押す。たばこ店で食堂を尋ねたところ、国道へ出た所にあるという。国道へ逸れる四つ角に問屋場跡のサインがあった。        新居宿  6.3km   → 【問屋場跡】  →  二川宿  5.9 km 国道端の吾妻屋食堂に入り、エビフライ定食を食べる。北西風が強まり、入口の隙間が笛のように鳴る。 町中の旧東海道に戻った所に『夏目甕麿邸址』の石標があった。 夏目甕麿( なつめみかまろ) は本居宣長の門人の国学者である。 大きな鬼瓦を置いた屋根が不相応に立派過ぎて、重さのために軒の左右を鉄柱に支えられた庚申堂があった。前庭には『見ざる聞かざる言わざる』の三匹の猿の像が設置されていた。 人家が尽きる手前に境宿のサインがあった。これより先、愛知県にはこのような道しるべはないから、東海道の最西端のサインである。         白須賀宿  0.2km   → 【境宿】  →  二川宿  5.2km 人家が尽きて渡った小さな川が、現在も県境の境川である。これで長い静岡県を縦断し終えた。しかし姫街道も残しており、まだ途中では喜びも湧かず、県境の道路標識を背景に、記念写真を撮って先へ進む。 道は広い国道一号線、遮るものもないキャベツ畑を、激しい向かい風に、木枯らし紋次郎のように、顔の前で帽子を摘んで歩く。それでも身体さら吹き飛ばされそうで、大...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(34)

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潮見坂から遠江 保永堂版東海道五十三次「白須賀」 2026.4.16 朝から土曜日の金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座の準備。年度初めで色々な書類造りに手間取る。 昨日に続いて、東海道ウォーク11日目の続きを載せる。 ************************************* 国道一号線に出た所に橋本のサインがあった。 新居宿  0.1km   → 【新居宿 橋本】  →  白須賀宿  3.5km 十五世紀の末の大地震で、浜名湖南側の湖岸が切れて、今切口が出来るまでは、舞坂まで陸続きであった。この橋本に宿があり、街道は真っ直ぐに、舞坂へ歩いて行けたという。旧街道はすぐに国道一号線から別れて、『浜名旧街道』に入る。この道には南側に松並木が残っていたが、松食虫にやられてしまい、新居町の手で松の若木が植えられた。今ではその松もかなり大きく立派になっている。他の市町村もこれに習い、枯れた松の補植を是非お願いしたいものである。きっとすぐに美しい松並木が回復すると思う。 紅葉寺跡のサインがあり、北へ少し入ると階段の上に樹木だけ残った敷地が見えた。「源頼朝が立ち寄った際、地元の名主の娘と・・・・・・その娘が建てた云々」の説明板に鈴さん曰く「昔の武将はやりたい放題だったのだろう」そう言ってしまえば夢もロマンもない。 新居宿  0.9km   → 【紅葉寺跡】  →  白須賀宿  2.8km 松並木の中に歌碑が一基あった。続古今和歌集に収録された二首の歌が刻まれていた。 風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟   為家 わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで   阿佛尼 太い槙の木が並んだ道畔に、大倉戸の立場跡の標識があった。休み処として、客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった。 『明治天皇御野立所阯』の石碑の前で休憩をとる。臼さんから蜜柑が廻って来る。この辺りより空腹がつのり、食堂を求めながら歩く。 火鎮神社前に白須賀宿のサインがあった。かってはここが白須賀宿であったが、津波で壊滅して、少し先の潮見坂を登った高台に宿場を移したのだという。 新居宿  2.9km   → 【白須賀宿(火鎮神社)】  →  二川宿  9.3km 通り掛かりの店で...