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あさしおペア宿泊券

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息子がくじに当てた、ペア宿泊券 2026.2.26 もう一ヶ月以上前のこと、息子が浜名湖サイクリングに参加したところ、抽選に当たって、「あさしおペア宿泊券」というのをいただいた。我々夫婦にその宿泊券を使えばと言って寄越した。もちろん有難く頂いた。昔から、くじ運が悪いと自負する自分には、くじに当たることなど思いも寄らないことである。それを息子は軽々と当ててくる。 この一と月ほど、バタバタと忙しくて、予約をする気にはなれずにいたが、漸く一息ついて、今日予約を来月2日に入れた。まあ、旨いものを食べて来ようと思う。 午後、区内のSTさんに「歳代記」「大地震の記」「大井河源記」のそれぞれ解読版をもって伺った。いつもこのブログを愛読されて、色々と御意見を頂ける、貴重な方である。きっと読んで貰えるだろうとの思いで進呈した。また福用のSさんにも渡していただくように頼んだ。 「かさぶた日録」から、「かさぶた残日録」になって、古文書の解読を載せるのは、もうやめようと思った。必死に載せても、ブログのシステム側に都合で簡単に打ち切られてしまう。他所へ引っ越せばよいのだが、7000日分のブログを引っ提げて他所へ移るのもかったるい。自分的にはコピーを取ったが、公開は「残日録」だけにした。これでも、毎日書くのだから、付き合って下さる方は大変だと思う。 古文書の解読を載せるのは止めるといっても、古文書解読は止めるわけではない。今まで読んだ古文書も、まとまったものだけでも100冊以上ある。道楽だからこれからも読んでいくことになると思う。 それで考えたのが、解読文の冊子化である。自分のプリンターで刷り、製本して読んでくれそうな方へ進呈することにした。まずは自分の講座の受講者の方には進呈するつもりである。 STさんのお店(理髪店)に2時間近く居て話し込んだ。STさんは地元について、情報をたくさん持っておられるに、改めて驚かされた。また、客の合間に話に行こう。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(6)

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対面石にて 2026.2.25 午後、パソコンが壊れて、中止にした、まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座の埋め合わせの講座を、榛原文化センターで実施した。今日は、仕事で講座へ出席できなくなったという一人を除いて、全員出席であった。この10人が 四月からの新年度にも継続参加してくれるであろうか。今日の講座で、手作りで出来たばかりの「大井河源記(解読版)」を受講 者全員に進呈した。 受講者のMさんは3月1日から四国歩き遍路に逆打ちで出かけるという。同行の士がここにもいた。帰ってからの話が楽しみである。Nさんから田沼の相良城破却の記録の文書を預かる。コピーを取らせていただき、次回返却する。 東海道ウォークは続く。 ********************************************************************************** 広い道を突っ切った所に「八幡神社」と「対面石」の看板が出ていた。探しながら歩いて、通り過ぎたかと心配になった頃、道路工事中の所に八幡神社の入口があった。工事で掘った穴を跳び越したところ、あっ!と警備員が声を上げた。穴に落ちて怪我でもされたら、警備員の落ち度になるのだろう。悪いことをしたと思う。後へ続いた三人は工事の穴を避けて廻った。 200メートルほどの参道を通り、檜林の奥に八幡神社はあった。拝殿には10数人上がって祈願祭でもあるらしく、祝詞や鳴り物が聞こえる。本殿は上屋が出来ていて見えないが、随分古そうである。本殿の左手奥に対面石という、腰掛けるにちょうど良い一対の石があった。 その昔、源頼朝が弟の義経と対面した時に、両者が座った石だという。そこで鈴さんと和さん、臼さんと自分の組み合わせで、その石に座って写真を撮った。対面の時に、食べようとした柿が渋柿だったため、ねじり捨てたところ芽を出したという柿の木が側に植わっていた。この対面石は元々先ほど横切った広い道の側にあったというから、柿の木も伝説に基づいて最近植えられたものである。 皆んなでトイレを借りた後、社務所で神主の奥さんから御朱印をもらう。昔はこの辺りの広い一角が神社の敷地だったが、年々売ってしまい今の広さになったのだと語る。しかし自分たちの代には一坪の土地も減らしていないと胸を張るように話した。 黄瀬川の手前に松並木が残っていて「松並木」...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(5)

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「三島女郎衆の碑」   富士の白雪朝日で溶けて 三島女郎衆の化粧水 2026.2.24 夜、金谷宿大学の教授会で、金谷公民館に行く。いつも隣の席になる金谷宿の歴史の講座のOさんに、出来たばかりの 大井河源記(解読版)を進呈しようと、準備をしていたが、Oさんは欠席で、いつも代表で教授委嘱状をもらう役が自分のところへ廻ってきた。 来年度は二人、初心者クラスに受講の応募があったようだ。辞める方も出るのでもう二人ほど希望者がでればよいのだが。 隣に短歌のS教授がいたので、短歌と狂歌の違いを聞く。面白おかしく読むのが狂歌だと聞く。Oさんの代わりにS教授に、 大井河源記(解読版)を進呈した。S教授は「竹下村誌稿」の解読のことも承知しておられた。光栄である。 東海道ウォークは初回から11日目に、二回目を実施した。一行はやる気である。 ************************************* 歩く励みはサイン・スタンプ・一里塚    三島宿 → 沼津宿 → 原宿    日時 平成7年1月16日(月) 晴れ 昨日は娘の成人式で、カメラマンやら運転手で大忙しであった。明けて今朝、第二回目の東海道ウォーキングへ出掛ける。前回は静岡と沼津で列車の切離しがあり、その度に後ろの車両に乗り換えたりしたが、今回は一電車早くしたため一時間半で三島に着いた。話に花を咲かせていると時間の立つのが早い。 駅からすぐの、アスファルト道路に囲まれた三角地帯に岩山が頭を出して、数本のケヤキの大木が岩を掴んでいた。そこは小さな公園になっていて「愛染の滝」と名付けられた小さな滝が岩の上方から流れていた。「飲料水」と標識の立った竹樋から細く出ている水を飲んでみた。少し生温かった。三島には楽寿園を始め、いたる所から富士山の湧き水が出ているとは聞いていたが、こんな街中からも出ているとは驚きであった。近くの三島市民文化会館前のからくり時計が、ちょうど九時を知らせた。楽器を持った小さな三体の人形が、円筒型の時計塔の上部から現れて、音楽を奏でながらぐるぐる回る。 楽寿園の近くに「三島女郎衆の碑」があると本で読んで、向かい側の公園に入って探した。ここにも湧き水の流れとケヤキが目立つ。公園の南東の角に「白滝観音堂」があり、傍らに目的の「三島女郎衆の碑」があった。高さ3メートルほどの板碑に、...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(4)

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「こわめし坂」下より 30年前も富士山は変わらない 2026.2.23 天皇誕生日の今日は、富士山(223)の日でもある。30年前の一行も街道歩きのあちこちで富士山に出会っている。一行はようやく三島大社に着いたようだ。 ************************************* 車道から旧街道へ、標示は無かったが、それらしい様子と地図で確かめて、旧街道に入る。所々に石畳が頭を出していて、確認出来た。下り切った所にこれより「臼転ばし坂」と標示があった。箱根旧街道には数多くの命名された「坂」あった。昔の旅人は名前の付いた坂を一つ又一つと乗り越えて、励みにしながら登って行ったのであろう。我らは反対にそれらの坂を楽々と下ってきた。 箱根街道の入口の角に「箱根路」と彫り込んだ大きな石碑があった。これは往路のバスの中からも見えた。バス道の両側に一段高く松並木が始まった。ここは「初音ヶ原の松並木」で西側には松林の更に西側に石畳が復元されて、この石畳と松並木は、静岡県街並50選に「石畳の道」として選ばれている。松並木を100メートルほど歩いた所に「錦田の一里塚」があった。バス道の向こう側とこちらに、対で塚が残っている。塚の上には榎が植えられている。街道筋で最も典型的な一里塚として現存するものの一つだという。一里塚の側には箱根八里記念碑「錦田一里塚」の文学碑があった。 日々うらら 松の道場の 一里塚     ( 作者名読めず ) 作者は書かれていたが、どうしても読めなかった。 松並木の終わりに、小さな「雲助備前繁の墓」が置かれていた。そしてすぐ隣に(と記憶しているが)「箱根大根の碑」が建立されていた。見た時はそれと判らなかったが、後日、本でそれと知った。 箱根八里の馬子吹き消えて / 今は大根を造る歌    源水 明治になって鉄道が通り、 街道が廃れて、旅人の世話を業としていた人達が大根作りを始めた。この街道の切干大根は有名であった。和さんも昔、会社の先代会長に頼まれて、この辺りにニンジンを買いに来たという。この辺りはニンジンも旨いと評判だったのだ。 これより町中の裏道を「愛宕坂」「今井坂」と下って三島大社へと続く通りに出た。四人とも、箱根から何も食べていない空腹と、長く続いた下り坂に重くなった足を、ゴール間近と励ましながら歩いた。 静岡県一の初詣客で賑わう三...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(3)

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大井河源記(解読版) 2026.2.22 今日、大井河源記(前編・後編)解読版が仕上がった。少しづつプリントして、関係の皆さんに配ろうと思う。これで、歳代記(二分冊)、大地震の記、に続いて、三本目となる。 ***************************************** 東海道ウォーク一日目、一行はまだ箱根から三島宿への途中だ。 車道を少し歩いた所に、「菊池千本槍の碑」があった。御醍醐天皇の頃、菊池氏が竹竿に短刀を括り着けて槍を作り戦いに望んだ。それまで槍という武具は無かったというが、本当なのだろうか。 再び旧街道を下り車道に出た所に、大きな芭蕉の句碑があった。 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き    芭蕉 芭蕉翁、富士山が見えず負け惜しみの一句である。今日は句碑の背後に富士山が見えた。再び箱根竹の旧街道に入った所に、鎖に囲まれた石柱の「明治天皇休息碑』があった。恐れ多くも、その傍らで和さんは小用を足した。他の三人は少し離れた街道脇で連れションに及んだ。それより「上長坂」と呼ばれる長い下りの石畳の旧街道を下った。 旧街道が集落と車道に出合う手前の人家の前に、「笹原一里塚」があった。道路より少し高い所に丸い塚がしっかり残っていた。塚の上の樹木は榎であろうか。傍らに箱根八里記念碑「笹原一里塚」の文学碑があった。 森の谺を背に此の径をゆく 次なる道に出会うため      大岡信 車道を突っ切って人家の間の舗装道路を行く。この辺りを「こわめし坂」というようだ。道路工事中で、削岩機がコンクリートを割るすぐ側を通る。こわめし坂から車道に出たあたりで見る富士山は、左手の愛鷹山系と並んで面白く、皆んなカメラを取り出しシャッターを切った。「松雲寺」は寺本陣と呼ばれ、かつては人を泊めた。ここにも明治天皇の足跡が碑として残っていた。 すでに午後二時を回り、箱根の山かけ蕎麦もすっかり消化された。このあと空腹を抱えて、食事処を探しながら歩くことになった。あの山かけ蕎麦がなかったら、もっと辛いものになっていただろう。 車道から外れ、学校のそばを行く。学校のある辺り、昔は法善寺という寺があり栄えていた。寺の中に「七面堂」というお堂もあった。今はただ石碑が残っているだけである。それより下る急坂の歩道を「題目坂」といい、登ってくる旅人は法善寺を目指して、お題目を唱えながら登って来た...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(2)

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  令和7年版 面白古文書12月 2026.2.21    本日は金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座を実施した。受講者で身体を壊す人がちらほらある。年齢が仕事を終えたあたりの人が多いから、やむをえないとはいうものの、ぜひお身体には留意していただき、長くお付き合い願いたい。 受講者の皆さんに、「面白古文書12月」の令和7年版を配った。これで5冊目(5年目)となる。毎月の講座の冒頭に、短い様々な古文書を読んできて、その総数が60になる。どこまで続けられるかわからないが、今後も続けようと思う。 *********************************************************************************************** 東海道ウォーク一日目、一行は箱根から三島宿へ下っている。 茨ヶ平の、東方の山並を見晴らせる位置に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」が建てられ、次の文字が刻まれていた。      北斗闌干    井上靖 (「闌干」は月や星が光輝くさまを示す) 「箱根八里」を後世まで残すために、道中八ヶ所に著名な文学者に依頼して建てられた文学碑の一つである。神奈川県側に四ヶ所、静岡県側に四ヶ所設置されているという。 火山灰地の上に箱根竹が繁茂して道を狭めている旧街道を下ると、一度車道へ出てまた旧街道に入り、すぐに車道に出る。車道に出る手前に「接待茶屋跡」があった。柵で囲われた接待茶屋跡には一面の碑と二人の胸像があった。その胸像に「鈴木利喜三郎」という名を見つけた。鈴さんとは一字違いの名前である。さらに車道を渡った箱根旧街道の入口には、灌木に囲まれて「接待茶屋」の共通サインがあった。近くに「山中新田の一里塚」があったはずだが、気が付かずに通り過ぎてしまった。 頼朝が兜を置いたとも、秀吉が兜を置いたとも言われている「甲石」は、大きなおむすび型の石が旧街道脇にある。もう少し上にあったものを、道路改修時にじゃまになってここへ移したものだという。街道筋の大石が多くの人に見られる内に、様々な伝説が出来ていく様子が知れて面白い。甲石から少し下った所に「明治天皇御小休跡碑」の石柱があった。 これも道中には珍しい巨石「念仏岩」があり、下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。旧街道は所々に石畳を残しながら「...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(1)

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  出発地点 箱根関所 2026.2.20    遠江三十三観音を終えて、次は東海道を歩こうとの約束通り、一ヶ月後、まだ松が明けないうちに、 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)を 計画した。今から30年前の記録である。一緒に歩いた仲間たち(いずれも職場の先輩)は皆んなあちらの世界に旅立ってしまった。今やこの記録だけが、当時の仲間たちの息遣いが知れるものになってしまった。 それでは始めよう。 ********************************************************************************************* 東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿) 西暦2001年には東海道に宿駅制度が出来てから400 年を迎える。最近、東海道五十三次が見直され、街道筋に諸施設が整備され、各種イベントが催されて歩く人も多いという。特に静岡県内では、共通サイン(東海道の道標)が設置され、宿場ごとにスタンプが置かれていて、歩く励みになる。我らも東海道五十三次を歩こうと計画する。しかし、いきなり日本橋からでは辛いから、手始めにまず静岡県を歩こうと思う。静岡県には何といっても五十三次の内二十二宿がある。すでに図書館で旧東海道の道筋を調べ、国土地理院発行の二万五千分の一地図に落としてある。さて、いかなる弥次喜多道中となりますやら。 松の内、箱根旧街道石畳をひた下る     箱根関所 → 三島宿 日時 平成7年1月5日(木) 箱根、曇り、のち晴れ風寒し スタートは県境(箱根峠)にしようとも思ったが、いずれ後日、日本橋から歩く際のゴールが箱根峠では交通の便が悪いと考えて、箱根関所とした。出発は一月の松の内とする。一昨夜、和さんから、明日は雨の予報だから明後日に延期したいと電話があった。雨の出発では辛い気持は同じである。一も二も無く賛成する。案の定、昨日は今の季節には珍しく大雨であった。明けて今朝、低気圧が東へ抜けて季節風が吹き出し、暖かな正月の天気から、一転して、晴天ながら寒い一日になりそうであった。まだ正月気分の抜けない三島駅から箱根登山バスに乗る。切符売り場のおばさんは、関所までと言うと、歩くなら終点の元箱根まで行けば、箱根杉並木も見られるから、と勧めた。しかし、スタートは関所からの方...