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自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(6)

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慈眼寺庚申堂 手前に梅の古木が見えている 2026.4.26 桑原藤泰著の「安倍記」、解読版の冊子化が出来た。これで8冊目になる。桑原藤泰著に「浜かづら 安倍紀行」という書があるが、「 安倍記 」は、 本人がその要をまとめ、読みやすくしたものだという。旅日記風に書かれていて、確かに読みやすい。途中、日が一日ずれているように思うが、細かいことは言うまい。これも希望者に分けようと考えている。特に静岡の人は読んでみて貰いたい。 以下へ8冊の冊子を挙げる。   1 歳代記(幕末編)       松浦幸蔵著   2 歳代記( 明治編)         〃      3 安政 大地震能記         山崎久麻呂著    4 大井河源記(前編)      桑原藤泰著   5  大井河源記(後編)         〃      6 安政大地震記録         松下良伯著    7  薦被り騒動(五和の百姓一揆)  山田家文書   8  安倍記              桑原藤泰著                   東海道ウォーク 番外姫街道、2日目を続けよう。 ************************************* 再び街道に戻り、慈眼寺に立ち寄る。ここの庚申堂は、明治になって佐久米から買い取り、移築したものだという。一見して古いものに見える。堂前に梅の古木があった。 姫街道は東名高速によってここで寸断されて昔とは随分変わってしまっている。現在の道は迂回して東名を潜り、向こう側の東名に沿った道を大里峠へ登る。旧の大里峠が地元民により整備されているという立て札につられて道を逸れて山へ登ってみたが、行き止まりで引き返した。ついて来なかった川さんは懸命だった。東名を高架で渡り返して三ヶ日の町へ下る。 雨が再び降り始め、今度の雲行きでは容易に止みそうに見えなかった。皆んなの足がさらに急ぎ足になる。高札場跡の標識も横目に通り過ぎた。 三ヶ日の町に入ると、道が改修されて地図とうまく照合出来ずに、自分のいる位置を見失ってしまった。多分この方向で良いだろうと進んで行くと、三ヶ日一里塚の石碑があった。位置は確認出来たはずであったが、自信なさそうなナビゲーターに心配して、和さんが近くでゲートボールをする人に聞いて来てくれた。...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(5)

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姫街道 姫岩(平石) 2026.4.25 東海道ウォーク 番外姫街道、2日目の続きである。 ************************************* すぐに引佐峠が始まり、復元されたらしい石畳が始まる。金谷の石畳ほどの幅は無いが、使われた石が丸石ではなく、お城の石垣をねかせたように、割った石の平らな面を使っていて、気持ち歩き易い。 金谷の石畳ほどの高低差を登りきった所に、『平石御休憩所』がある。『姫岩(平石)』の説明板があった。往時には、大名行列が通るときなどに、気賀の近藤家の家臣がここまで出迎え、湯茶の接待をしたという。見回すと、すぐ側に畳十畳敷ほどの一枚岩があった。道面とほぼ同じのため目立たなかったが、少し傾斜があって、かっては旅人の絶好の休憩場所になっていたのだろう。江戸時代以来、幾多の旅人が座ったと思うと感慨がひとしおである。 和さんは、今朝出掛けに折り畳みの傘を持ってきたから、きっと雨が降ると不吉な予想を立てていたが、休んでいる間に雲行きが怪しくなり、雨の心配が出てきた。お天気が続いていたし、午後になって降水確率がやっと20%の予報だったから、まさかと思っていたのだが、合羽も家に置いて来たという鈴さんもおり、何となく気忙しくなってきた。 浜名湖もちらちら見える緩やかな登りの山道を行く。道が時々別れるが、標識がしっかりしているから安心である。地図によると、遙か山の上を通る車道と合流する辺りが峠のようだ。引佐峠は切り割りになった車道には出ないで、山道を登った所にあった。 南へ行くと天浜線浜名湖佐久米駅へ下る。北へ行くと道路で切断されているが尉ヶ峰へ登るハイキングコースである。姫街道は東から来て西へ下る。引佐峠はその十字路にあった。 登りよりも急な下り坂が続き、中でも急なジグザク道に『象鳴き坂』という名前が付けられていた。清の商人が広南国より朝廷に献上した牡の象を、京から江戸へ送るのに、今切を舟で渡ることが出来ず姫街道を通った。その折りこの長い急な坂道に、さしもの象も悲鳴を上げたということからの命名である。 少し下ると左手に大きな岩があった。『石投げ岩』である。岩の上に小石がたくさんのっていた。案内板によると峠を登り下りする旅人が、その岩に石を投げると無事に峠が越えられるという。早速石を探すが舗装された道には容易に石が見つからない。全員来た道を...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(4)

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我が家に似合わない胡蝶蘭 2026.4.24 何日か前、まーくんの父親の勤める会社で新社屋の落成式があったようで、胡蝶蘭の鉢をいただいたと言い、その内一鉢を我家へ持ってきてくれた。どこへ飾ろうと考えるも、大きすぎて飾る所もない。結局玄関に飾ってみたが、大きすぎて、我が家には似合わない代物である。買えば数万円はすると聞き、粗末にはできないが、胡蝶蘭の花はどのくらい持つのであろうか。花が終わったらどうすれば良いのか。来年も花を咲かせる方法があるのだろうか。疑問だらけで、今日もこの花を眺めている。 東海道ウォーク 番外姫街道、2日目を載せる。 ************************************* 時雨に追われて素通りの三ヶ日宿 姫街道( 気賀宿 → 三ヶ日宿 ) 日時 平成七年十二年二十四日(日) 晴れ後しぐれ 先週末に引き続き、姫街道の二回目を歩く。この慌ただしい年末に街道歩きを行うとは、非常識かもしれないけれども、そんなグループがあっても世の中楽しいではないか。東海道スタンプも三ヶ日宿を残すのみとなった。 昨日、社内のボーリング大会の帰りにコージツへ寄り、毛糸の帽子を買う。前回寒くて、鈴さんの耳の隠れる帽子が羨ましかったからだ。カナダ製で1800円ほどかかった。 浜松駅のロータリー型のバス乗り場から気賀駅行に乗る。客は少なく、我らの5人合わせて 3000円の運賃は大きな収入だろう。下車時のボタンが前の座席の背に付いているのは大変楽である。お年寄りには何よりのサービスだと思う。 バスは前回歩いた所をたどるように走る。苦労して歩いた所を次々と確認する。見過ごしたサインを見つけて、どうして見逃したのか不思議に思う。終点の気賀駅で下車。駅前の道路上で写真を撮り歩き始める。お天気は上々でこのあと時雨れるとは思いもしなかった。 姫街道に戻るとすぐに気賀宿の本陣(中村家)跡があった。また地元の細江仏教会の僧侶数人が、墨染めの衣と笠を被って、読経を唱えながら、家々を托鉢してくるのに出会った。胸には『義援托鉢』と掛かれた袋を下げていた。案内書にも出ていた古い家並の一軒に、『名倉屋』と出ていた。 『犬くぐり道』は、地元の人が気賀関を避けて通った山道である。 莚 ( むしろ ) を一枚垂らして、その下をくぐり抜けさせたという。地元民だけには目こぼしされていたのであろう...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(3)

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姫様道中の大きな絵看板 2026.4.23 解読冊子は、現在8冊目「安倍記」を手掛けている。桑原黙斎には「濱つづら安倍紀行」と 「 安倍記 」があるが、内容は似ているが、 「安倍記」の方が旅紀行として、まとめられているので、そちらを手掛けることにした。 それはさて置き、東海道ウォーク姫街道1日目を続けよう。 ************************************* 今日初めて、メイン道路から外れて、少し進んだ四つ角に『六地蔵』が祀られていた。傍の竹藪はかって刑場であったと言い、刑死者を供養したものだという。そして六地蔵のサインがあった。 浜松宿  11.5km   → 【細江町六地蔵】  →  気賀宿  2.7km 見る人が見れば、その竹藪にはきっと霊がうようよしているのだろうと誰か言う。だから、その部分だけは未だに土地利用されず、竹藪で取り残されているのだろう。 姫街道は道から逸れてさらに細い道になる。その分岐の角に秋葉常夜燈があった。姫街道の道しるべもあったのだが、川さんは一人なら知らずに行き過ぎてしまうところだと語る。 槇囲いの中の道を少し行くと千日堂に至る。ここでゆっくりと休憩する。千日堂は最近建て直されて新しくなっていた。代々気賀関所の管理者だった近藤家の下屋敷にあった観音様を移して祀ったのが始まりだというが、宝永年間に阿弥陀如来を祀って、千日念仏が行われてから千日堂と呼ばれるようになった。椎の古木が何本かあった。臼さんからミカンを頂く。 老ヶ谷の一里塚には気がつかずに過ぎ、姫街道の面影の残る長坂も平行する車道の方を下ってしまった。そして細江の入口の落合橋を渡る。この橋の直前で都田川に井伊谷川が合流する。だからこの橋を落合橋と呼ぶのであろう。江戸時代には渡し舟で渡ったという。 細江の町に入った所で『みそまん』の看板を見つける。細江の名物だと話しながら通り過ぎようとすると、和さんが表にいた奥さんに呼び込まれてしまった。そしてついつい連れ買いをしてしまう。しかし帰宅してから評判良くて、すぐになくなってしまった。天浜線のガードを抜けた角に、姫様道中の大きな絵看板のある小公園があった。そして気賀宿のサインもあった。 浜松宿  14.2km   → 【気賀宿】  →  三ヶ日宿  10.8k...

SY氏の通夜で思う

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  散歩の途中で、オオデマリの花 2026.4.22 夕方、SY氏のお通夜に行く。当地域では、この頃のお葬式はお通夜だけで、 それも 御香典を納め、御焼香して、故人の顔を拝んで来るだけの味気ないものになってしまった。 SY氏、お母さんが亡くなって4か月、追うように逝ってしまった。薬のない奇病で、本人も驚くほどの早逝だったと聞いたが、何なのだろう。今、日本でも増えているというが。故人の顔は思わぬ早逝の悔しさを含んでいるように見えた。いつも温和な表情がなくて、別の人のように見えた。 葬儀場では参会者が、病院に来たみたいに、皆マスクをしている。自分はマスクをしてこなかったけれども、今はマスク着用が常識なのであろうか。葬場にいた女性たちから声を掛けられても、誰だか判らない。「マスクで判らない」というと、マスクを下げてくれて、昔の部下たちだと分かった。毎日顔を見ているならとにかく、もう十年以上も、顔を見たこともなければ、マスクをされると全く分からなくなるものだ。 SY氏の弟さんにお悔やみの挨拶をした。「二人とも時間が取れるようになったので、講座を受講して見ようと話していたんですが」と聞く。確かの何年か前に彼に講座の話をしたことがあった。お世辞にもそう言ってもらって、嬉しいとともに悔しいと思った。 その間20分ほど、そそくさと葬儀場を後にした。これからはどんなに親しくしていた人でも、死んでしまえば、こんなすげない別れとなってしまうのか。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(2)

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一番茶、直前   花粉症が収まり、久しぶりの散歩で 2026.4.21 一昨日、昨日と立て続けに、長野、東北と大きな地震が起きて、改めて、地震列島を感じる日々である。当地は遠方の地震はほとんど感じることがない。もともと大井川の扇状地が、瀬が変わって出来た土地で、おそらく地下は砂利が幾層にも重なっている土地だから、地震が伝わりにくい地域だと思う。来たる東南海大地震でどうなるかは、神のみぞ知るだが、神様も判断を断るに違いない。 東海道ウォーク(姫街道)1日目の続きである。 ************************************* 静大工学部の脇を通り、北へひたすら歩く。左手に航空自衛隊浜松基地を見る辺りの地名を『小豆餅』という。武田軍に追われ敗走する家康がこの地で小豆餅を食べて空腹を癒したという地名の謂われがある。小豆餅本家『あおい』というお菓子屋さんがあった。そろそろ空腹を感じていたため、小豆餅という名前に引かれて立ち寄る。小豆餅は安倍川餅に似たものであった。早速、鈴さんが購入した。 すぐ先に『飛行聯隊前駅跡』の標識があり、臼さんの記憶によると、気賀から鉄道が出ていたが浜松までは通じていなかったと思うという。電車ではなくて蒸気機関車だったようだ。 市野から気賀へ至る道との合流点を三方原追分という。そこにサインがあった。うっかり近くの宿との距離を書き取り忘れたが地図で推量して記入する。 浜松宿  6.5km   → 【浜松市追分】  →  気賀宿  7.7km 側に『権現様跡』の標識がある。『追分の一里塚』が近くにあると思い、角の交番に入り聞いてみたが知らないとの答えだった。(帰ってから調べた所、追分の一里塚は交差点から市野の方へ少し戻った道路端に現存しているとのことであった) この交差点より姫街道の松並木が始まる。残っているのは道路の西側だけだが、これより断続的に約3 .7 キロ続くという。太い松が多い中に、枯れて切られた新しい切り株が何本か見られたのは残念であった。途中の宝くじ売り場で、臼さん、鈴さん、川さんが年末ジャンボ宝くじを買った。聞けば当たる率が大変高いというが? 途中『権七店』という茶店のあった地点に標識がある。この辺りはかっては松並木だけで何もなく、小さな茶店が大変貴重だったのだろうと思う。側に権七...

SY氏の死を新聞訃報欄で知って、ショック!

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庭の白いツツジの花 今の自分の心境を表すか 2026.4.20 今朝、起きがけに夢を見た。 最近よく見る夢に、相棒と故郷の周囲の村々を歩いて、街中へ向かおうとするが、ぐるぐる回るばかりで一向に街へ向かう道が見いだせないという、何ともイラつく夢がある。その相棒は、当地へ来てからの知り合いや友人ばかりである。今朝の夢も、八條だとか三江の名が出てくるが、川向うへ行く道や橋が見つからない。今日の仲間は長年自分の部下として、共に仕事をしてきたSY君であった。 目が覚めて、起きだし、静岡新聞を見た。この頃はついつい訃報闌に目が行くのだが、何とそのSY氏の名前が載っているではないか。嘘だろうと、よく見れば住所も喪主が弟なのも符合する。間違いない。70歳、それは少し早すぎるだろう。夢に出てきたのはSY氏が知らせたのであろうか。 午 前中、二か所から SY氏の 訃報を伝える電話があった。 家もそんなに離れていないから、これから色々附き合おうと、連絡を取っていたのだが、自宅の電話には出ない。携帯番号は知らないから、そのままになっていた。そうしている間に、しばらく前に、お母さんが亡くなったようだと聞いた。かなりの長寿だったと思う。さらにどうやら静岡で弟と同居しているらしいと聞いた。兄弟ともに生涯独り身だったから、兄弟で住むようになったのかと思っていた。 お通夜は22日だという。 午前中、もう一本電話があった。「6月にある高校の同窓会に出席するか」と、明石のⅠ氏からの電話。どうしようかと迷っていた。講座の受講を二つばかりパスしなければならないし、もう、どうしても会いたいと思う人たちも、鬼籍や施設に入ってしまった。 Ⅰ氏は帰りに施設に入っているKY氏を見舞おうと言う。SY氏の訃報にあったばかりで、このチャンスに会って置かなければ、きっと後悔すると思うと、傘寿最後の同窓会も、KY氏の見舞いも大切に思えてきた。前向きに検討しようかと思う。