自分古文書(1)小説「八個の活字」(続き)

庭のデュランタ・タカラヅカに寄る黒いハナバチ
タイワンタケクマバチ(外来種)?
ちょっとピンボケ、はっきりしないが 

2025.7. 10 

午後、掛川図書館の古文書講座へ出席する。暑い。車の外の気温は、車内の表示で36℃を指していた。とにかく雨が欲しいこの頃である。 

「八個の活字」の続きを載せる。もう一回つづく。 

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 八個の活字(続き)

  階段まで来た時、恐怖は殆ど消滅していた。しかし踊り場まで上った時、不意に第四の恐怖の妄想が彼を訪れて来た。

 (火事!火事だ。火事が起こったらどうなるのか)眼前に火に巻かれている自分の幻影が往来した。それと同時にこの妄想は将来の定められた運命となったかの如くに感じられた。

 (五階の食堂だ。火が出るのはあそこしかない。すると逃げ口を塞がれてしまうではないか)彼の脳髄はなるほど狂っている。けれどもそれは部分的にである。彼にはまだ論理的な思考力が残っていた。足はそれを証明するかの如く、非常階段へ通じるドアへと向かっていた。そのドアはいつも朝係員が開けることになって居た。ところが今日は閉まって居た。彼はわざわざ鍵を借り戸を開けた。非常階段は遙か下に向かって稲妻の如く落ちて居た。

 まだであった。彼は待っていた。一時間、二時間、三時間、何も無かった。四時間程経ち、少しばかり退屈になり始めて来た時だった。外が騒ついてきたのだ。待って居ましたとばかりに、彼は事務所から飛び出し非常階段を駆け降りた。速かった。実に速かった。地面に達するまでに二分とかからなかった。狂人ならではの速さであった。一息に下まで降り上を見上げた。火事はどこに? 煙は煙草の煙さえも出て居なかった。その代わりとでも言おうか。ビルの横にポッカリ開いた穴から仕事を終えた老若男女が疲れた身体を足に表してぞろぞろと行進して来た。

 彼は事務所へは帰らずタクシーを拾った。しかしそのタクシーが彼のあらゆる運命を一本にまとめ、悪魔の行路に向けたのを知る由も無かった。

 「旦那どちらへ」「いや、暫くスピードを出して走らせてくれ」こんな会話の後、暫く沈黙が保持された。タクシーは右手に川を見ながらアスファルト道路を静かに進行して居た。不幸はここに端を切った。運転手の顔がミラーに映った。その顔がゆがんで居た。いや笑って居たのだ。少なくとも彼の眼にはそう映った。第五の妄想は彼をして、この運転手をも暗殺者の一人として思わしめたのである。僅かな自制心が顔を川の方へ向かせた。川は彼の心のようにどす黒く濁って居たが、焦燥は持ち合わせては居なかった。彼の心とは逆に静寂を保持しながらゆっくりと流れて居た。車はかなりのスピードで走って居た。到頭彼に悪魔が宿ってしまった。次の瞬間彼の手は運転手の首に廻って居た。事の異変に極端に驚いた運転手はハンドルを左へ大きく切った。車はブロック塀に激しく衝突した。彼は一瞬頭を運転手の背に埋めて居た。衝突のショックと同時にガラスの破片が頭の上から降って来た。彼は依然として首に廻した手を緩めようとはしなかった。運転手の力がガックリと抜けたのを確かめて、彼は車から逃げ出し、漸く夕暮れの近づいた街を走り去って行った。後には三つの死体が残った。一つはもちろん運転手の物であり、後二つは無惨にも車とブロック塀との間で押し潰された母とその胸に抱かれた赤ん坊の屍であった。

 彼はどこをどう歩いただろうか。一度は巡査に職務質問された。二度、車に撥ねられかけた。三度、何かに蹴つまずいた。背には何時でも人の視線があった。しかもそれは鋭く彼を刺した。彼のエネルギーはそこから漏れ、彼は気力だけで持って居た。彼は現場に残して来た物に気付いて居た。手にはハンケチが巻いて有った。ハンケチには血がにじんで黒く固まって居た。つまりそれは小指だったのだ。彼の左の小指は第一関節から先が無かった。それはきっと運転手の口の中で無情な主人を恨んで居ることであろう。恐怖と苦痛は彼の虎の子の気力さえもしばしばぐらつかせた。しかしながら足は止まることを知らなかった。黙々と前進した。黙々と。

 彼は何度となく行き来した。何度目かについに疲労が彼に決断を下させた。彼は思い切って戸を開けた。彼には子供が居なかった。従って待って居るのは妻一人であった。

 「あら!」いち早く彼女は血のにじんだハンケチを見つけた。

 「手、どうかなさったの?」ためらった原因はそこに有ったのだ。彼は一瞬答を持ち合わして居なかった。

 「いや、ちょっと、なに、犬に咬まれたんだ。そら路地を出た所に野犬が居るだろう。」嘘は明らかであった。四時間前の血は黒く凝固して居た。妻はそれを読み取っただろうか?

 「医者に見せなきゃいけないわ。狂犬病にでも成ったら大変だから。すぐ電話をかけましょう。起きて居らっしゃるかしら。」彼女が電話に立つのを見送った彼は第六の妄想が浮かんで来るのを感じた。

 (やっぱり俺が運転手を殺ったのを知って居るのだ。すると、そうか110番にかけに! やつも暗殺者の一人なのだ)

 数分後彼の手には血だらけの裁ち鋏が握られていた。彼の前には引き千切られた数片の布と朱けに染まった一個の肉塊が転がっていた。宙にたれ下がった受話器は虚しい問いかけを繰り返して居た。

 「もしもし、もしもし、もしもし、‥‥‥‥‥‥‥‥

(つづく)

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