自分古文書(1)小説「八個の活字」(終り)

牧之原台地と夏空(自宅より)

2025.7. 11

午後、アクアの一年点検でトヨタのディーラーに行く。車の更新に高年齢者用の、いつでも解約できるローンを勧められた。免許返上などで車が不要になったら、下取りで、以降のローンは支払い不要というシステムである。いよいよそんな年齢になったことを、改めて自覚させられた。

最後に整備士が点検に来たので、暑いのに大変だねぇ、と話す。整備工場には冷房が入っているという。局所冷房ではなしに、全体の冷房だという。そういう時代なんだと思う。

以下、「八個の活字」の最終を掲載する。  

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  八個の活字(終り) 

 たった二畳の部屋だった。天井は低くベットが部屋の半分を占めて居た。ベットの上には灰色の毛布が一枚有るだけだった。他にこの部屋に有る物といえば、彼が着ている『8番』という番号のついたよれよれの衣服と、彼の履いている赤いスリッパだけだった。しかし彼は幸福だった。この部屋は彼の天国だった。彼は毎日尋問される時以外はこの天国で暮らせた。彼は天国の王様であった。彼は今まで敵国の暗殺者にしばしば殺されかけた。その頃は一人で防衛しなければならなかった。しかし今は違う。窓の鉄格子、窓の外の高い塀、ドアの鍵、それらはすべて彼の近衛兵であった。流石の名暗殺者達もそれを突破することは出来なかった。その上王様には食事係まで付いていた。三度三度きっちりと食事係は食事を運んで来た。幾日か幸福な日が続いた。しかもその幸福が至福と成った時、その余りの膨張のために、一瞬の内にそれ自ら打ち壊れてしまった。ある日、突如不吉な足音が静かに正確に彼の部屋に近づいて来た。それは彼の天国でピタリと止まった。次の瞬間、金属音と共に掛け金が外された。彼は自分の至福が開けられたドアの隙間から漏れ出てしまうのをどうする事も出来なかった。

 白い部屋だった。今度は一人ではなかった。一人の仲間が居た。暗殺者とは本質的に異なった真実の仲間だった。それは最もまともな人間であった。いや、彼にはそう思えたと言った方が正確かも知れない。仲間は彼の言う事を良く聞いた。執拗に彼に服従した。彼は以前の幸福を取り戻したかに見えた。しかしそれは突然足元からガラガラッと音を立てて崩れ落ちてしまったのだ。ある晴れた日だった。いつも彼がそうであったように、彼の眼は窓の外に高くそびえ立って居る塵焼却場の巨大な煙突から出る煙の行く先を追っていた。煙は初めこそ元気であったが、いずれは薄くなり元気を失って消えて行く運命にあった。突如、余りにも突然、この不幸な歌声が流れて来たのだった。その歌声は隣室から出てきた。隣室の少女、それが発声主であった。何の汚れも知らないその少しばかりかん高い歌声は、清らかに美しく流れて来た。

 「♪ 遙かに果て無くドナウの水は行く

    麗しい藍色のドナウの水は常に流れる 」              

 古い傷が疼いて来た。彼の心からは既に消え去ってしまっている筈の忌まわしい記憶がよみがえって来た。どす黒い川がやっと洗われた心を泥だらけの足で踏みにじってしまった。にごった彼の心は第七の妄想を穿り出して来た。理由無き恐怖が襲って来た。そして恐怖が極致に達した時、残虐性へと変化して行った。眼は異様に光り、身体は緊張で小刻みに振動し始めた。

 老医師は自分の精神病治療に大きな自信が有った。よく自ら一人で病室に入り患者を診察して廻った。今日も例外では無かった。日は漸く西の山に沈みかけて居た。老医師は彼の病室に入って来た。

 「どうだね、気分は」

 老医師の指しのべた手が彼の残虐性に点火した。彼の自制力がそれを消し止める力を既に失ってしまって居ようとは、流石の老医師も気が付かなかった。

 彼は広大な草野に居た。彼は百獣の王たるべきライオンであった。この草野には彼に適う者は居なかった。その時老鹿がやって来て彼に毒舌を振り掛けようとした。むらむらっと野獣の本能たるべき残虐性が沸き上がって来た。次の瞬間、彼の身体は空中を飛んで居た。すべては一瞬の内に終わった。

 彼が我に帰ったのは、騒ぎを聞きつけた若い医師達が駆けつける足音が聞こえて来た時であった。眼の前には老医師の老いぼれた枯れ木の如き屍が座りこむ様に倒れて居た。彼は走った。始終ヒタヒタと誰かの追って来る足音を背に感じて居た。ついにその男の足音は彼を追い越した。それは同室の男だった。男はニヤリと微笑を投げかけると再び彼の後に従った。男は依然として彼に従って居るのだ。彼の心には既に逃げる所が決まって居た。そしてその地点はぼんやりと眼に映って居た。それは巨大な煙突であった。今まで心を慰めてくれた煙突だった。煙突には梯子の付いて居る事に、彼は以前から気付いて居たのだった。彼はそれを今登っている。十メートル位登った時、ふと下を見ると五メートル位の所を、同室の男がこれまた一生懸命に登って来るのだ。その真下では二、三人の若い医師らしい男が彼らを見上げていた。

 「降りてこい!」一人の口から出た声が近づきつつある夜の空気に響き渡った。

 彼はついに頂上まで達した。漸く同室の男もすぐ下に達した。その時彼は突如、『蜘蛛の糸』のカンタダと化した。その男に自分の煙突を取られると言う考えが頭に閃いた。

 「降りろ! これは俺一人の煙突だ。降りろ!」こういう言葉が口を出終わらない間に足が男の肩に延びて居た。男は煙突を離れ声も立てず落下して行った。上を見ていた医師の一人は余りの急な事に、男を避けることが出来なかった。医師の頭と男の頭が衝突した時、火花ならぬ血花が散った。そして血花と共に二人の生命が失われてしまった。

 彼は幸福であった。下では人々が手も出せずうろうろして居る。夕闇は徐々に彼の姿を隠してしまい、到頭下に居る人々は彼の姿を見ることが出来なくなってしまった。やっと人々が灯光器で煙突を照らした時には、彼の姿は既に闇に溶かし込まれてしまったかの如く消えてしまっていた。沢山の人々が煙突の回りを死体を求めて捜索した。しかし死体は発見されず、人々は捜索を中止した。

 闇の中に彼の姿が消えた時、彼には第八番目の妄想が現れた。そしてそれは彼の最後の妄想であった。彼は眼の前に煙を吐いて居る煙突の中に天国を見出したのであった。そこにはあらゆる幸福が在るのだという考えが彼の心を占めた時、彼の姿は煙突の中に吸い込まれて行った。その下には考えに反して、赤い舌を出した大きな怪物が彼を食わんとして待ち構えていたのであった。

 彼の白骨死体が塵の中から発見されたのは翌朝の事であった。もちろんその日の夕刊には大見出しが出た。

 『狂人の白骨体発見』

 八個の活字は人間を嘲り笑って居た。            ー 完 ー

                          (昭和39年3~4月)

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