「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 1 竹下村の由来
2025.7.21
午前中、掛川の孫、まーくん、あっくん、えまちゃん、三兄弟妹が、久しぶりに揃ってやってきた。兄弟の野球が今日はないのだという。写真は持参した、初馬の畑で採れた巨大スイカだという。17kgは4、5歳の子供の体重ぐらいか。同じくらいの巨大スイカ、ニ、三日前マーケットに並んでいるのを見た。3000円を超す値段が付いていた。近頃、スイカが大きくなったように思うのは、自分だけだろうか。小学校の頃の、家でのスイカの食べ方、真っ二つに切って、一方に兄貴と親父、もう一方に自分とおふくろが、それぞれ大きいスプーンを持って、よーいどんで食べた。あの頃の食べ方は、こんな巨大スイカでは出来ないだろう。
************************************************************
「竹下村誌稿(解読版)」を手掛けてなら、さぞかし「竹下村誌稿」に詳しいんでしょうねと言われるが、解読したのは、2017.11~2019.2で、もう5年以上前の事。記憶も薄れている。何より解読作業は、読書と違って、内容が記憶に残りにくいようだ。解読に気を取られて、内容は二の次になるのだろう。
そこで、しばらく「竹下村誌稿(解読版)」を改めて拾い読みして、紹介しようと思う。何しろ400頁を越える大著である。最初から読み進めるのはきつい。適当に拾い読みになることを、ご容赦願いたい。
最初は「竹下村」の「竹下」の由来についてである。やはり最初に気になるだろう。「竹下」の由来については「竹下村誌稿(解読版)」(以降、解読版と呼ぼう)154頁にある。要約して示す。
掛川誌稿の竹下村の項には、元、竹の下と呼ぶとある。東の方、斎藤島の辺、大井川堤に竹林ありて、その下に人家ありしより、竹の下を村名とすとある。
また一説に、天正中(1573~1593)、武田氏の遺臣武田宣勝なるもの、駿東郡竹之下に潜伏し、竹之下宣勝と改め、後、縁故を以って本郡菊川に着し、慶長中(1596~1615)、一たび本村に来たり、開墾に着手す。よって竹之下村と称す。宣勝はその後、大坂の豊臣氏の招きに応じ、大坂の陣に参戦したというが、それはまた別の話である。
この説については、確証はないけれども、無根の説にあらざることを推想せらるとしている。
コメント
コメントを投稿