「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 2 鵜田里の薬師
2025.7.23
どこを拾い読みするかは、決めないで、解読版をぱらぱらめくって、目に留まったところを読んで、ここへ載せる。何が選ばれるかは、自分も分からない。そんな選び方でご勘弁。脈絡がないのが「拾い読み」の面白さだと思ってもらいたい。
今日の「拾い読み」は「鵜田里の薬師」である。解読版の125頁に記事はある。要約して以下へ示す。
話は霊異記の記載による。霊異記は「日本霊異記」とも呼び、薬師寺の僧景戒が著した、漢文で書かれた日本最古の説話集。大井川の河上、遠江国榛原郡の志戸呂に鵜田里という村があり、天平宝字二年(758)三月、鵜田里の河辺の砂の中より、「我を取れ、我を取れ」の声あり。通りかかった僧が掘ってみると、薬師仏が左右の耳を欠いた状態で出てきた。僧は仏師にその耳を造らせ、鵜田里に堂を建て、その薬師仏を安置した。
鵜田里は、湿潤な沼沢(淖=うたり) を語源としているのだろう。大井川に水が溢れれば、たちまち河と成るような近辺の土地を指していると思われる。霊異記には鵜田里は遠江国榛原郡質侶(志戸呂)郷にあったとするが、今、その薬師仏は川向うの駿河国志太郡野田村の鵜田寺薬師堂に安置されている。大井川の西と東に話が一見食い違っているように見える。
この食い違いについて、その後書かれた各種史誌に、さまざまな説が記されている。「竹下村誌稿」では、諸説を示して、真実を解明しようとしている。
「榛原郡志」では、鵜田里は古代は質侶郷の一部だったが、しばしば起きる地変で消滅したとする。その証拠に、榛原郡質侶郷にあった横岡古城址は宇田城とも称されていた。
「元享釈書」ては、霊異記を再録した後、この霊仏は質侶薬師と称し祭られていたものが、洪水で今の鵜田寺近くへ漂着したものだとする。
「地名辞書」では、鵜田里が遠江国榛原郡質侶(志戸呂)郷にあったというは、霊異記作者の伝聞の誤りで、もともと鵜田寺の近辺に鵜田里はあったとする。鵜田寺の近辺も、湿潤な地(うたり)であった。
この他、駿河風土記、駿河新風土記などの説を紹介し、何が真実かを検討している。
(この先は解読版でご覧ください)
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