なぜ、今、自分古文書なのか

 久しぶりの雨
線状降水帯やら竜巻やら
荒れまくっている所もあるが
当地では恵みの雨で、植物が皆な大喜びである 

2025.7.15

「自分古文書」ー なぜ、こんなことを思いついたのか。たまたま古い書類を見つけたというのは嘘である。

高校時代まで、故郷「但馬の国(兵庫県)」で育った。大学に進学して、静岡県に初めて足を踏み入れた。但馬の国で有名人といえば、冒険家の植村直己氏(高校の四年先輩)ぐらいで、地味な地域である。

兵庫県といえば、神戸から播磨の瀬戸内沿岸の地域が中心で、北の但馬は学業でも、スポーツでも南には後れを取っていた。(60年前の話)

そんなところだから、高校を卒業すると、友人たちは皆な京阪神に出る。あるいは東京に出る。しかし、静岡へ来る人は稀である。(島田市の元教育長松田氏は、高校は違うが、唯一の同郷の先輩である)遠距離ながら友人たちとは薄く交流はあったが、60年経つうちに、次々に交流の輪から消えていった。今や、その頃の話を書いても、残念ながら誰からも、異論・反論の可能性はなくなった。ならば、その頃に書き記した古書類をブログに載せても、問題ないだろう。そんな思いでの「自分古文書」である。

高校三年の夏だったか、その一年後だったか、城崎温泉の仲間の家へ、友人(男)達5、6人が集まって、一夜を過ごした。美食をするわけでもなく、温泉に入るわけでもなく、町屋の木造三階建ての、廊下を歩くと軋むような古い家だった。かっては旅館だったのかもしれない。話題はもっぱら学校の事、社会や政治のこと(当時は60年安保と70年安保の中間位な年である)であったと思う。

夜が更けて、大きな部屋で枕を並べて、ようやく女性の話題になった。田舎の高校で、理科系進学クラスには女子学生は数人しかいなかった。皆な背伸びをして、虚実を混ぜながら話している。それを聞きながら、自分には何も話すことがないと、黙って聞くしかなかった。

高校時代の女性がらみの唯一のエピソードといえば、高校2年の文化祭で、仲間の生徒会長から頼まれて、演劇実行委員長を務めた。副委員長は女性で、今の言葉でいうと「ちょいかわ」な女生徒だった。役目がら、よく打ち合わせなどしていた。ある日、一年先輩の男から呼び止められて、言葉を掛けられた。どう言われて、どう答えたかは忘れたが、要するに「俺の女に手を出すな」といったような内容だった。高校内でそんな世界もあるのだと、驚いたことを覚えている。仲間に話すほどのことではなかった。 

さて、次の古文書も小説で、女生徒との淡い思いを描いたものである。次回から載せよう。

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