母校の豊岡小学校が無くなる?! 2 卒業文集「雑草」のこと

豊岡小学校卒業文集「雑草」
(但し、後の同窓会時コピーを頂いたもの) 
中央の学校の版画に「YK」とイニシャルが彫られているから
自分が彫った版画と思われる 

2025.8.10 

6年生になると、どのクラスも卒業文集を作った。他のクラスは、先生が手を出して、中々の文集が出来るのだが、N先生は一切、手を出さなかった。どんな内容にするのか、謄写版の使い方まで、クラスの子供たちに任せた。主だった子供たちが編集委員になって、事がはじまったように記憶する。

卒業文集「雑草」を今見るに、ガリ版の文字はバラバラで、編集委員がそれぞれに切ったことが伺える。ガリ版で、色々な生徒によって切られた文字は、そのまま個人の書き癖がでるから、これを読むのは、もはや、古文書解読の世界である。

先生が何も言わなかった証拠に、生徒一人一人のニックネームが拾われているコーナーがあることで、普通ならそんなコーナーは止めさせるに違いない。ところが、ご丁寧に、ニックネームのついた理由、及び、それぞれの性格まで、口に衣を着せることなく記している。これではまるで悪口集である。性格覧を読んでいくと、「とてもほがらかで、時々とっぴょうしな事を言って人を笑わす」「短気ですぐおこりカッとなる」「すこしおっちょこちょいで、へんなことをいう」などと辛辣な言葉が続く中で、自分の欄を見て驚いた。

  おだやかで責任感が強く、人から信頼されている。

おいおい、これは最上級の誉め言葉ではないか。他の人すべてを見てもこれほどの誉め言葉はない。辛辣な見方の中で、これはどうしたことなのだろう。そんなにクラスを牛耳っていたつもりはないし、この文集も主導的な立場だったかもしれないが、みんなが意見を出し合って作っていたはずで、いったい誰がこんな歯の浮くようなことを書いたんだ? 今まで全く気付かなかった。皆んな自分には一目も二目も置いていたのであろうか。50年以上経って、初めて気づくとは、ずいぶん間の抜けた話である。

この卒業文集を「雑草」とは、よくも名付けたもので、できるだけ人の手が加わえないで、勝手に力強く伸ばすという意味で、長瀬先生の目指した所だった。それを生徒たちは理解していたのだろうか。

「雑草」の最初に長瀬先生が言葉を寄せている。 

長瀬先生の言葉と肖像
もちろん版画は生徒が彫った  

     先生の言葉(長瀬且人) 

卒業おめでとう

お祝いの言葉と共に、君達との生活も終りだね。しかしなぜか、これが最後だとの実感がしない。来る日、来る日も運動場でソフトボールやすもうをしなければならないような気がする。これも先生のちょっぴりしたセンチなのかもしれない。いやセンチメンタルでなく、事実であるようおねがいしよう。君達と自由に話したり、山に海に、大気を満きつしに行こうね。

年の立つものは、はやい物だね。君達をうけもってから二年間、またたく間にすぎさったね。この間、先生の強情から大へんむりな仕事をたのんだりしたが、君達はいつもやり遂げてくれました。又ドッヂボールに優勝したり、体育的行事にもみなが協力一致してその効果をあらわしてくれました。

先生自身、君達の自はつ的な仕事ぶりは、他の先生の前でも、鼻高々でした。(ありがとう)お礼を言うと共にいたらなかった点をおわび致します。小学校を巣立つ君達には、ひろびろした希望の空が待っているでしょう。あやまたず、正確にしかも力強く学びの空をかけめぐるようがんばって下さい。

                 一九五九年三月二十四日  長瀬且人

後に、先生は述懐して、まだ若かったときに受け持ったこのクラスが、最も印象深いと、言われた。何度も持たれた、このクラス同窓会の席での、社交辞令ではなかったと信じたい。晩年には、御夫婦で同窓会に招待した。それほどに、先生の自宅を訪れる機会が多く、奥さんになじんでいたのは、ダントツでこのクラスであった。(つづく)

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