母校の豊岡小学校が無くなる?! 3 二本松のこと
2025.8.11
8月9日の「豊岡小学校遠望」の写真を見て、右手校舎すぐのグラウンドに、松の木が一本見えるのに気付いた。あれは「二本松」と呼ばれて、豊岡小学校のシンボルの松である。かつては、すぐそばに寄りそうようにもう一本の松があって、合わせて「二本松」と呼ばれていた。樹齢は100年以上あったであろうか。小学校の創立と、どちらが早かったのであろう。(豊岡小学校は、三年前に150周年を迎えている)
小学校が3分団に分かれていた時は、右手からグラウンドに沿って手前に伸びていた校舎に教室があった1分団は、その校舎の北の先端に昇降口があった。二本松の所には2分団の昇降口があった。左手、講堂と本館の間を入った所に、3分団の昇降口があった。
昭和47年に出火した県立豊岡高校(出身校)の火災の際に、神武山の向こう側にあった豊岡高校から、神武山を越えた飛び火により、二本松の頂冠部が焼失して、二本の内一本は枯れてしまい、現在は小学校新校舎の前に、1本だけ残っている。かつては、二本松の根元までグラウンドレベルに整地されていて、児童の放課後の待ち合わせ場所だったというが、1分団だった自分たちは、少し離れていたから、待ち合わせ場所にした記憶はない。
松はもともと肥料っ気のない、根元まで踏み固められたぐらいの方が、元気に育つ。だから、松葉の落ち葉はきれいに掃除した方が松の木は喜ぶ。二本松の根元はグラウンドの延長で踏み固められ、松落ち葉はきれいに掃除されていた。
当時は少年野球が盛んで、地区対抗の市内少年野球大会が、毎年、夏休みの豊岡小学校のグラウンドで行われた。地区で選ばれた小学校高学年の選手が、日頃の練習の成果を示すのである。我々の町は町内に古いお寺が二つもあるところから、「寺町」と呼ばれ、小学校の北東側に沿った区で、通学には5分と掛からなかった。放課後、帰宅後に小学校グラウンドに集まって、二本松をバックネット代わりに、毎日のように野球の練習をした。よくしたもので、近所の暇な大人がいつの間にかコーチの役を引き受けていた。
ところが、六年の春に野球大会は廃止になり、その年からはドッジボール大会に取って代わった。どうやら、女子は参加できない野球大会ではなくて、男女共に参加できるドッジボール大会になったようであった。ところが、ところがである。そのドッジボール大会には、自分は参加できなかった。夏休み前に、ふくらはぎに腫物ができて、歩くだけでも痛くて、とても運動は不可能で、夏休み中、自宅に閉じこもっている羽目になった。当時、食糧事情の所為か、大人も子供も身体のあちこちに腫物が出来て、一度できると、膿が出てしまうまで痛みに苦しんだ。
二本松から、そんな思い出に浸ってしまった。
(つづく)
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