母校の豊岡小学校が無くなる?! 5 子供スキー場から、プールへ

昨夜のカラフルサラダ
下からレタス、キャベツ、タマネギ
キュウリ、トマト、コーン、マグロツナ 
味付けはお好きに 

2025.8.24 

小学生の頃、故郷の我が家から50メートルほど南に、 スキー場と呼ばれた場所があった。道路に沿って50メートルほど、高さ2メートルほどの土留めのコンクリートの壁が続いて、土留めの上に上ると一面に土の斜面が20メートルほど下って、平地に土のバレーコートかテニスコートのようなものがあり(戦前は土俵があったと聞いた)、その向こうに豊岡小学校のグラウンドがあった。グラウンドとの境には、植木や鉄棒があって仕切られていたと記憶する。右手のグラウンド角には野球のバックネットが、 〕状にあった。二本松とは対角線上の反対の角である。つまり、スキー場を越して行けば、学校までその程度で行けた。

斜面は平らではなくて、畝のようなわずかな凸凹が斜面に沿ってあった。戦時中はサツマイモ畑になったと、聞いたことがあった。さて、スキー場と呼ばれた斜面では、雪が積もると凸凹が隠れて、子供たちはその上をスキーやそりで滑って遊んだ。子供にとっては、かなり長い斜面だった。しかし、年々雪の積もり方が減って、スキーをすることも少なくなった。

先の戦争中は、空襲警報の度に、母と兄二人はスキー場の土留めコンクリート壁の道路側に掘られた町内の防空壕に避難したという。(自分はまだ生まれていなかった)しかし、豊岡には警報は出ても爆弾を落とされることはなかったため、避難するのは我が家だけだったという。父は見天所に詰めていて、警報を出すほうだったので、警報の時はいつも不在だった。当然、警報が出たら必ず防空壕に避難するように、母と兄たちに厳命して出かけていた。思うに、豊岡は舞鶴の軍港などを爆撃する米軍機の往路に当たっていたので、米軍機が通っても爆弾を落とすことはなかった。これが復路であったら、米軍機も帰還に身軽になるため、余った爆弾を捨てるように落とすこともあっただろうと思う。 

戦後、コンクリートの壁の脇では、正月十五日、町内のどんど焼きが行われた。街中だから大きな火には出来ないが、正月飾りや書初めの反故紙などを燃やし、餅やサツマイモなどを焼いたように覚えている。

現在はスキー場一帯に小学校のプールができたが、我々が卒業してから何年も立ってからで、もちろん自分たちが利用することはなかった。

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