自分古文書(6)「奇壁」3
2025.8.25
元々山が低くて傾斜が緩い円山川はこの辺りまでくると、日本海まで緩やかな流れとなって、川幅はゆったりとしている。ご存じの通り、太平洋岸と違って、日本海は潮の満ち引きはわずか数十センチしかないから、海に近くても水位はほとんど変わらない。渡し舟にとっては良好な環境であった。川の向こう岸、小山の中腹、わずかに山肌がみえるあたりが玄武洞である。屋根が見えるのが、その後に出来た、玄武洞ミュージアムである。
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爺さんはわずかに腰を屈めて暖簾を潜り奥へ消えた。残された二人の間に重苦しい沈黙が訪れた。ようやく去りかけていた夏の暑苦しさが再び迫って来た。さらにK温泉へ行く数台の観光バスが列をなして表の道を通ると、茶店は地震とはまた異質の貧乏ゆすりをやってのけ、舞い上がった埃が簀を通り抜けて茶店の中まで侵入してきた。
「埃が、すいません‥‥‥どこの大学ですか」
「あっそうですね」
仙作は定期入れを出し、中から1枚の名刺を娘に渡した。アルバイトの時に必要で何枚か作っておいた手書きの名刺だった。
「F大学法学部、えゝと『くまつ』、いや『ひさまつ』って読むんですか。久松仙作さんって言うの」
名刺から眼を上げた娘の顔を初めて真正面から見た。列車内でちらっと見た感じに間違いは無かった。これではお世辞にも美人だとは言えない。その娘に恋愛してようやく十人並くらいに見えるという容貌だ。鼻は小さく日和見的で、それを補うように口は大きかった。耳は裏返っており、耳たぶは有るか無しかの存在にすぎなかった。眉は棚引く霞か雲と言えば体裁は良いが、うっすらと八時二十分を指している。しかもそれらの各部分が丸い輪郭の中に雑然と同居している。しかし美神はどんな女性も見捨てはしなかった。この娘の美の分配は眼にあった。汽車の中でも感じたように清らかに澄んでいた。
〈人跡知らない山奥で緑の木々だけを水面に映す湖のような清廉さ、朝露に濡れた竜胆の花のような気高さ、そして苔生した岩室のイモリの住む泉のような神秘さよ〉
仙作は自分が恋人ならきっとそう誉め称えるだろうと思った。なぜなら誉め言葉は彼女をうっとりさせるばかりか、自らの眼から恋愛に邪魔な醜い部分を消し去るであろうから。
彼女の美しい眼はさらに煤煙にくすんでもいなければ、都会の退廃という乾燥剤で干からびてもいなかった。仙作はこれを何に譬えるべきかと考えた。妖精、そうだ妖精の眼だ。もちろん本物の妖精の眼を知る由もなかったから、ただ観念上の妖精の眼に似ているにすぎなかった。しかしそれが全く当を得た比喩だと思った。仙作は自分の思索の異常さに気付いて、口を突いて出た苦笑をはぐらかすように尋ねた。
「お父さんは『ふく』って呼んでいらっしゃったけど、それはあなたの名前?」
「えゝ、本当は富久子っていうの。変な名前でしょう。私、その名がひどく嫌なんだけど」
仙作は或る本に某文筆家がこの『ひどく』という女性特有の、しかも多用する形容詞は女性の無知を表す最も顕著な例だという暴論を書いているのを読んだことがあった。このとき頭にそのことが過った。
「そうですか。『ひどく』ねぇ」
皮肉混じりで言ったが富久子には通じなかった。
「ふくって福の神の福?」
皮肉の通じなかったのを幸いに急いで話題を変えた。
「いいえ、富(とみ)という字に久松さんの久で富久子なの」
「良いじゃないですか。永久に富む子って」
「そうかしら。でも少しがめついような名前だわ」
不意に言葉が途切れた。富久子はのれんの方に視線を移し、仙作は表を通る自転車を簀を通して眼で追っていた。
「法学部って言うとデモばかりやっている学部じゃなかったかしら」
「そうですね。世間の人は一般にそう感じているようですけど、デモっているのはほんの一部の連中で、デモの本当の意味を知っているのはさらにその内の一握りの学生なんですよ。彼らのやることは派手だから学部どころか大学全体がデモるように感じられがちですけどね」
「そういう仙作さんはデモに出たことあるの」
「とんでもない。デモのデの字も嫌いですよ。デモっている連中は大部分、半分スポーツのようにやっているんですが、車の多い道路でスポーツを楽しまなくたってね。指導している連中も頭の足らん連中ばかりですよ。法を犯してまでデモろうと言うのですから。あれじゃ示威運動じゃなくて破壊活動じゃないですか。その結果たるや、たった三行ほど新聞に取り上げられるくらいで、街の人には迷惑がられ、おまけに青春の貴重な時期を何年か裁判所通いをしてるんですからね。本当に御苦労さんな、笑止千万なことですよ。血の気ばかり多くて頭の使い方を心得ない奴らなんだから」
この旅に出て来るまで毎日のように蓄積されて来た遣る方無き憤懣を言葉に出す機会を得て、仙作はほとんど息もつかず喋り捲くった。
(つづく)
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