自分古文書(6)「奇壁」4
2025.8.26
自分の学生時代は、60年安保と70年安保の間、そろそろ70年安保への動きが出始めた頃で、学生運動盛りの時代であった。
縁があって、この頃、大学の50年近く後輩の、まだ卒業して間がない、孫のような青年と話す機会があった。
同じ大学の、学部名は変わったが、似たことを学んだと聞いて、自分の時代は大学が学生に占拠されて、講義ができない状態が続いたと話すと、「私たちと一緒ですね」と言う。聞けば、彼らの大学生活は、コロナ真っ盛りで、講義はリモートばかりで、大学に行くことすら稀であったようだ。
そう言う発想はしたことがなかったが、確かに彼らの大学時代と、自分たちの大学時代には、共通点があったのかもしれない。
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今や都会にはほとんど人の住む余地が無くなっている。何も住宅事情を言っているのではない。環境そのものが凡そ人間離れしているのだ。左右の耳を貫通させてしまう警笛や工場の機械音、眼を焼き潰す刺激的な広告の氾濫、肺の中を真っ黒に塗り上げる排気ガスや煤煙、もし人が孤立するやたちまち押し潰してしまう車の大河や雑踏。どこに人間が住めるというのか。
仙作の大学のある都市も例外ではなかった。そして唯一のオアシスと考えていた大学も、今や毎時間のように怒号や罵声が乱れ飛びアジビラが空を舞う。かくして教室は競馬場のごとくなり、無視されたビラが落ち葉のように床を埋め尽くす。塀という塀、壁という壁、あるいは庭木さえも貼られたビラで貼りぼてと化す。大学におれば明日にでも革命が起こりそうに感じ、一歩学外へ出ればあらゆるものが命を狙っているとの妄想さえ起こる。入学して一年も立てば向学心に燃えた学生の心はアジられ洗脳され赤くなるか、あるいは黒い空気に染められて真っ黒になってしまうのだ。それらの迫害や誘惑に対して多くの学生たちは逃避を試みる。スポーツを大学生の全てと考えてみる学生、酒・麻雀・パチンコの三種の神器の手入れに昼夜励んでみる学生、必要以上にアルバイトをやり守銭奴たらんと試みる学生。しかし逃避は熱中という新たな誘惑を呼び、丸腰の彼らは簡単に陥落してしまう。
仙作はあらゆる迫害や誘惑を自分とは無関係と割り切って完全に無視しているつもりだった。自分だけでも勉学に懸命になろうと思った。ところがやゝもすると大勢に押し流されそうになる。そういう自分に遭遇する度に煩悶し、泥沼に落ち込んだような焦燥を感じた。そういう時には古本屋街を当ても無く彷徨い歩いた。故郷では書斎の古書の中で父に色々なことを相談した。父はその都度的確なる解決策を与えてくれた。だから古本を見、その香を嗅いでいると良き解決策が見つからぬまでも、煤けかけていた心が浄化され、大勢に立ち向かう新しい力が湧き上がって来るのだった。
心の洗濯場である古本屋街も父の突然の死以来、悲しみの導火線と化してしまった。それでも仙作は懲りずに古本屋街を彷徨い歩いた。そしてとある古本屋で見つけたのが『山陰の旅』という本だった。その本の中で、山陰地方がその観光資源にもかゝわらず凡そ観光とは疎遠なことを知ったとき、旅へ出たいという衝動が激しく仙作を襲った。夏の休暇に入るのを待ちかねたように、仙作は各駅停車の列車に乗り込んだ。切符は山陰の東の入口S市まで買ったが、車中で玄武洞の箇所を読んだとき、そこに引かれるものがあって一ト駅乗り越してしまった。
「都会は活気があって素晴らしいでしょう」
「えっ? えゝ、そうらしいですね」
「らしいなんて、まるで人ごとみたい。フフフ」
「実は僕は都会が嫌になって、こうして旅に出て来ているんです」
富久子は理解出来ないという表情を『残りものの部品』で表したが、都会から逃げ出して来て思い出すことさえ嫌った仙作は理由を説明しようとしなかった。そして話題を変えるため、先程から気になっていたことを口に出した。
「どうしてそんなに無理して標準語ばかり使うんですか。お父さんと話すように方言で話してくれませんか。僕はあの無味乾燥な標準語というやつに飽き飽きしてるんだ」
そういう仙作自身、標準語を使っているのに少しも気付いていなかった。・・
「あら」
富久子は悪戯を見つけられた子供のように顔を赤らめ、含羞み笑いを浮かべて言った。
「そういうわけでもねぇだけど‥‥‥たゞあんまり方言丸出しで喋ったら、笑いんさると思ったしけいに」
仙作は思わず吹き出した。
「見んせい、笑いんさるは」
「いやいや、御免御免。あなたが急に方言を使うからつい吹き出してしまった。しかし何も恥ずかしがることは無いと思う。なぜって、もし方言が無ければ日本語なんて味け無くなってしまうんじゃないかな。旅行だって興味が半減してしまうと思うな」
「そうけぇな。ほんなら堂々と方言を使ってもえゝ訳だねぇか」
方言が飛び出してから、二人は急に親しさを増したように感じた。方言と標準語がしばらく交わされた。そして話の種が切れて沈黙が訪れたとき、爺さんがタオルで手を拭き拭き暖簾を分けて出て来た。
「長げぇこと待たせて。もう昼過ぎちゃったけどもうちょっと待っとくれんせぇ。今婆さんが飯を炊きよるしけいに」
「どうもお世話かけます」
「家の婆さんはあんたぁ。未だに生きた魚の料理をようしよりませんだぁで。肝っ玉の小さいやつで。お蔭で魚の料理がうまぁなりましてなぁ。ハハハ‥‥」
仙作も笑いを浮かべた。たったそれだけのことで笑う爺さんが本当に好きになり、自分の父のように感じて嬉しくなったからだ。
「富久、そんなとこにぼさっとしとらんと、早よ食事の用意でもせんけぇ」
「はぁーい」
富久子はわざと長い返事をして奥へ入ってしまった。
(つづく)
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