自分古文書(6)「奇壁」7

昔の渡し舟(ネットより写真拝借)
玄武洞の渡し舟ではない 

 2025.9.1 

「奇壁」の以前に、玄武洞の写真のような渡し舟には乗ったことがあったのだろうか。確か竿で舟を進めていたように記憶する。ならば乗ったことがあったのか。玄武洞には何回か行ったことがある。しかし、対岸を通れば渡し舟は利用しない。かくも、人の記憶などはあてにならない。書き残したものだけが確かである。 

「奇壁」を続けよう。 

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 店前まで出ると、外はいよいよ暑さを増してアスファルト道路は今にも沸騰しそうであった。靴べらを使っている仙作の背に向かって爺さんは言った。

 「娘に案内させますしけいに、ちょっと待っとくれんせぇ。案内するほどひれぇところでもねぇけど、一人で行きんさるよりはえゝだろうしけいに」

 「どうも重ね重ねあいすいません」

 仙作は爺さんの気質が良く解ってきたので拒まなかった。

 「なぁになぁに。富久!富久はおらんか!」

 廊下をぎしぎしいわせながら早足でやって来た富久子は戯けて暖簾から首だけをぴょこんと突き出した。

 「なんでぇな。お父ちゃん」

 「学生さんを玄武洞に案内したげんせぇ」

 「でも‥‥‥」

 「デモもストもねぇ。今から向こう岸へ渡りんさるそうだしけぇに、えゝか」

 富久子は可憐に赤らめた顔を下げて頷いた。

 富久子の案内で例の細道を通って渡し場へ出た。渡し舟は見えなかった。

 「ちいと間、待っとったら、こっちに来るしけいに」

 「舟は何艘あるの?」

 「二艘。でも今日は一艘だけみたいだわ」

 二人の立っているところはコンクリートの小さな桟橋だった。仙作は足元に眼を落とした。垂直なコンクリートの壁にひたひたと小波が押し寄せて来る。水際まで青い水草がコンクリートにこびりついている。そこではすでに人工物が自然の攻勢に退却を始めているのだ。仙作は自然に対して声援を送りたい気持になった。

 「魚がおるわ。ほらあそこにようけぇ」

 富久子の指差す方向を見ると黒い魚が沢山動いている。たまに白く光るのは魚の腹であろう。仙作は小石を拾い群れの中に投げ入れた。魚の群れは一瞬電撃を受けたように思い思いの方向へ走ったが、しばらくすると元の群れに戻った。

 「あまり驚きませんね」

 仙作は自然の大いなる暗示に気付いていなかった。魚の群れを見る彫りの浅い富久子の横顔は当然のこと平坦にみえたが、各部分の不統一さが見立たないだけ正面からより美人に見えた。富久子は仙作の眼差しを無視して遙か前方に眼を移した。

 「見えたわ。あれが渡し舟。小さな舟でしょう」

 対岸にはすらりと伸びた葦が岸辺をすっかり隠すように繁茂していた。折しもその葦の林から舳先を現した舟はみるみるうちに全貌を現すと、こちらへ方向転換して近づいて来た。案外に浅い川とみえて船頭は長い竿で川底を突きながら舟を進めている。竿は虚空を舞って水面に音を立てゝ突き刺さり、船頭の腕の力を川底に与え、その反作用を舟に伝える。舟はその度に新しい速度を得る。突いた川底が舟から離れ、用を果たさなくなった竿は水飛沫を上げて再度空中に飛び上がる。舟はある周期を以て速度の増減を繰り返しながら、流れを垂直に割りつゝ確実に進んで来る。その舟の作った小さな波頭はわずかに扇形の広がりを見せ、間もなく流れに押し流されるように消えてしまう。

 舟が間近になると富久子は眼を輝かせて叫んだ。

 「小父さん! やっとくれるかぁ」

 「おう! 一寸待ちな。今、舟を着けるしけぇ」

 船頭は舟を見事に操り桟橋に横付けにした。

 「さっ、乗ったり、乗ったり」

 舟が着岸すると仙作はすぐに乗り移り、腕を富久子に差し延べた。一瞬の躊躇いを見せた富久子は次の瞬間には仙作に腕を任せ、快活にひらりと飛び乗った。その勢いで舟が岸との間に少し水を開けた。ひらりと舞ったスカートと手の感触は仙作には全く異質の別個の物に感じられた。前者は秋の空のように爽やかだったが、後者は暑くじっとりと汗ばむ夏の重苦しさが充満していた。

 日焼けした中に深い皺を刻んだ初老の船頭は二人の様子を苦笑いして見ていた。二人の手が離れると竿で桟橋を一押して言った。

 「富うちゃん。そっちの人はおめえのボーイフンドシとか言うやつけぇな」

 「いやだぁ、小父ちゃん。それも言うならボーイフレンドって言うんだねぇけぇな」

 富久子は転がった箸を見るように笑った。

 「そうそう、そのフレンドけぇな」

 「まあそんなとこかも知れん」

 富久子は仙作の方を振り返って悪戯っぽく笑った。大胆な富久子に対して仙作は軽い狼狽を覚えた。心にふと危険な感情が浮かんだからだ。

 〈いけない! 彼女の顔が十人並みに見えて来た〉

 仙作はその感情を心から追い出すように二、三度首を振った。しかし蝋燭の光に揺らめく影のごとき捉えようのない不安定な感情の揺動はブランコのように振幅を増して、いよいよ鮮明な決定的なものになってきた。それは仙作にとって全く新奇な経験だった。

(つづく)

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