小鮒とニワトリとイナゴと
2025.8.5
まだ幼かった昔、五つ年上の次兄が小鮒を取っている情景が浮かぶ。次兄は小学校高学年か、中学1年ぐらいか。以下はすべて自分の目で見た話なのか、後に聞いた話なのか、はっきりしない。草むらの中の細い浅い流れを、流れる方向へ次兄がざばざばと歩いて行く。その先には虫網のような網があって、最後にその網まで至って、網の柄を持ち上げると、網の中には小鮒が溢れんばかりに入っている。それをバケツに移すと、ほぼバケツ一杯になった。(少し記憶に誇張があるか?)
次兄はそのバケツを家に持ち帰った。コンロで少し火を入れて、鶏のエサにするのである。当時、多くの家では鶏を飼っていた。卵は今ほど安いものではなかったから、我が家でも裏の狭い庭に、鶏小屋があり、数羽の鶏がいた。
鶏のエサは糠とチシャが主であった。チシャは今はレタスとかサンチュとか呼ばれる野菜の和名で、親父の日曜菜園からとれた。下の葉っぱをもぐと上へ上へと延びて次々に収穫できるので、我が家では鶏の餌にも使っていた。そのチシャを細かく刻んで、糠と少しの水で練って、鶏に与えた。
その餌ではカルシウムなどが不足すると、小鮒がその補給になったのである。何しろ卵の殻にカルシウムが必要なのである。カルシウムには卵の殻や貝殻を砕いて与えたけれども、たまには小魚がそれに代わった。
夏、畑や土手の草むらなどには、イナゴが沢山いた。害虫なのだが、今のように防除もされていなかったので、取ろうと思えばいくらでも取れた。イナゴの佃煮などがおかずになったりした。我が家ではさすがにイナゴを食べることはなかったが、古くなった懐中電灯の筒の部分の一方に、布袋をつけて、よくイナゴ取りに行った。イナゴは、筒から袋に入れると、もう出てこれない。たくさん取れたらこれを持ち帰り、鶏小屋に放ってやる。鶏がイナゴを追い回し、最後の一匹まで食べつくしてしまう。イナゴは鶏の好物なのだろう。鶏小屋ではイナゴには逃げ場がない。
その鶏も、卵をいただくとは別に、時々一羽を風呂敷に包んで、かしわ屋さんに持って行くと、かしわ(関西で鶏肉のことをいう)になって戻ってくる。皿に、かしわだけでなく、鶏の腹から出てきた、出来かかった卵のたまごが、小さい物から生む寸前のものまで並び、食べられる内臓部分まで残らず並べられて戻ってきた。そして、それぞれ料理されて食卓に載るのである。
貧しくとも、往時(70年前)の家庭では、様々に、食卓を豊かにする工夫がされていたと思う。
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