母校の豊岡小学校が無くなる?! 1 長瀬先生のこと

2025.8.9
今なら大学の教育学部出身の教員が大半なのだろうが、戦後間もなくの往時は、教員不足から、教員養成所出身の先生が多くいた。自分の5、6年生の担任だった長瀬且人先生もそういう一人で、今思えばいい加減な(いい加減は誉め言葉のつもり)先生であった。もっとも、クラスが53人も居れば、細かいことにこだわってはおれない。
市内に私立中学なんてないから、皆んなそのまま公立中学に入るのだし、父兄も生活に汲々としていて、子供に構ってはおれず、当然、モンスターペアレントもいない。それでも、不登校などという生徒は一人もいなかった。先生は、クラスで仲間外れにする気配には敏感で、クラスの女子生徒が仲良しグループを作った時には、放課後に呼び集め、諫めた。
何かを学んだという記憶はない。子供の頃の記憶ってそんなもんだろう。先生は、大方のことは生徒の自主性を重んじ、下手でも生徒たちに任せて口を出さなかった。悪く言えば、いい加減な先生だったが、今から思うに、先生は加減を心得た、深い考えがあったに違いない。多分違いない。
放っておいても、ドッジボール大会や卓球大会には優勝した。休み時間に、男女入り混じって相撲と取っていたのは、自分たちのクラスだけだった。それも子供たちが勝手にやっていたことである。
放課後、生徒たちはよく先生の自宅に遊びに行った。子供はおらず、家には奥さんがいるだけであったが、自分たちは奥さんと随分仲良くなった。奥さんとゲームなどして遊んでいて、先生がかえって見えると、そろそろ帰ろうと入れ替わりに帰った。えっ、そうすると奥さんは夕食をいつ準備していたのだろう。
学校で学んだ野焼きの土器(縄文土器)を、瓦屋さんからもらって来た土で作って、先生の家の裏の畑で野焼きしたり、座敷で相撲を取って床板を壊したり、それでも出入り禁止にはならなかったし、父兄たちはそんなことを誰も知らなかった。
先生のお宅へは、中学になってからも、頻繁に訪問した。先生よりも奥さんと遊ぶためであった。先生の本棚から借りて本もよく読んだ。覚えているのは山手樹一郎の全集である。時代小説の面白さはその時に知ったのであるが、以後50年、あえて時代小説には手を出さず、老後の楽しみに残しておいた。そして、今、時代小説を楽しんでいる。
一度だけ、先生から苦言を呈されたことがある。卒業も近づいたある日、誰もいない体育館の隅で、「君はもう少し頑張るとすばらしくなるのがなぁ」もう少し頑張れたのかどうか、あの世の先生はどう見ているだろう。(つづく)
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