自分古文書(6)「奇壁」8

兵庫県 玄武洞公園 マグマのうねりを残す柱状節理 : 自然の写真帖 
沢庵石がたくさん積み重なったような玄武洞
(ネットより写真拝借) 

 2025.9.3 

昨日の朝、M証券会社から電話があって、最終整理が終わって送金したと聞く。高年齢になって、人の顔が見えない取引は止めようと思っていたが、その一つが終わった。気にかかっていたことが、一つ済んですっきりする。このように、だんだん身の回りを整理をして行かねばならない。 

「奇壁」の続きを載せる。 

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 竿と波の音がのどかに聞こえていた。舟は川の流れを小気味良く切って進んだ。1.5メートルはありそうな葦の間の水路に分け入って間もなく、舟は計算されたごとく正確に接岸した。それとともに汗を絞り出すような蝉の声が耳を突いて来た。

 二人が桟橋に上がると背後から船頭の声が追いかけて来た。

 「ゆっくり見て来んせぇ。お代は帰りに一緒にもらうしけぇに」

 「有り難う!」

 つづら折りになった石段を登って行く。

 「これ、みんな玄武岩だぁで」

 足元の石段を指差して富久子が言った。

 石段を登り切るとそこに屏風のように『奇壁』が聳え立っていた。仙作はそこに太古の地球に生存していたといわれる巨大な怪鳥の姿を見た。正に飛び立たんとしているその怪鳥は覆い被さって来るようだ。無数の灰色の鱗は長い年月にすっかり光を失っていた。これは化石なのだ。火山の噴火に驚愕し飛び立たんとしたまゝ、火山灰に埋もれてそのまゝ化石となってしまった。

 仙作は『自然は偉大なる芸術家だ』という誰かの言葉を思い出した。

 「うーん、実に素晴らしい。本当に芸術家だ」

 その自然美にかってなかったほど感動して、仙作は突拍子も無い声で叫んだ。

 「何が芸術家だぁ」

 「自然だ、大自然だ」

 富久子のきょとんとした顔を見て仙作は思わず笑い出した。二人の笑いの二重唱は奇壁に反響して消えた。

 仙作はつくづくと奇壁を眺めた。何という素晴らしさだ。亀甲形に、柱状に高さ二十数メートルの壁面に刻まれた自然の手になる大抽象彫刻は現代のどんな抽象彫刻も足元にも寄せつけない威光を放っていた。雄大さや崇高さにおいてはもちろん、その精巧さや奇抜さにおいても。

 二人はいつの間にか自然のまゝの丸太のベンチに腰かけていた。『いつの間にか』という表現が当てはまるほど仙作の心はその自然美に引き込まれていたのである。

 「私も来春、都会に出るつもり。就職して」

 「えっ!」

 何ということだろう。同じベンチに腰を掛け、同じ光景を眼の前に見ながら、二人は全く別のことを考えていた。仙作は急に現実に引き戻され、寝入り端を起こされて憤る幼児のような腹立たしさを覚えた。仙作は吐き出すように言った。

 「都会に出るって! 馬鹿な! 人と車とビルと騒音と煤煙琮玽璉、そんな都会のどこがいゝんだ!」

 富久子は仙作の剣幕に困惑した。

 「だってぇ。都会は色々な面で便利だし、楽しいことが多いし、若い人だったら誰だって憧れるわ」

 か細い震える声で富久子はわずかに反駁を試みた。

 「そして一年も都会におれば誰だって嫌気がさしてしまう」

 仙作はいかにも憎々しげに言った。そしてそのとき見出したのだった。富久子の眼が潤んで来たのを。仙作は奇壁の方に眼を背けた。

 〈俺はどうしてこれほど向きになって詰問したのだろうか。都会に対する嫌悪と、不意に現実に引き戻された不快が俺をここまで追い込んだのか。しかし嫌悪や不快は彼女が都会に出るのに反対する直接的原因にはなり得ない。なぜなら、嫌悪や不快は俺自身の個人的な感情であり、富久子には何ら関係ないはずだから。そうすると、俺の言動は富久子の家族か恋人の言動じゃないか。恋人? 俺はふとしたことから玄武洞を案内して貰うことになったゞけの関係の富久子が好きになったのか。馬鹿な! あのような残り物の寄せ集め琮玽璉まてよ。先程、彼女が美しく見えたのはどういう訳なのだ。そして心の底で揺らめいた新奇な感情は? それこそ恋の証拠ではなかったのか。そんな馬鹿な。俺はたゞあの美しい眼が都会で汚されてしまうのを惜しむ余りあんなに向きになったんだ。遺跡の破壊に反対する考古学者や山の俗化を憂慮する登山家のような気持からなのだ。そうだ、そうなのだ〉

 仙作は無理やりに結論を引き出した。考古学者や登山家の心に遺跡や山に対する愛情が内包されていることに少しも気付かずに。

 「でもやっぱり、私、都会へ出たいわ」

 長い沈黙の後、富久子は意地を張るように呟いた。

 仙作は出来るだけ声を和らげて言った。

 「僕はあなたのような人に都会に出て欲しくないんだ。都会で一年も生活してご覧なさい。きっと、あなたの美しい瞳なんか、どんよりと曇ってしまうから。僕はそれが耐えられないんだ」

 仙作は、富久子が美の神から与えられた唯一の美を失うことは女性であることを奪われるに等しいと思い、そう言ったつもりだった。

 「私だって‥‥‥」

 富久子はポツリと言って下を向いてしまった。彼女はその後にどう続けるつもりだったのだろう。また何故自ら口を封じてしまったのだろうか。しばらく異様な空気が流れた。仙作は話題を変える必要を感じた。

(つづく) 

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