自分古文書(7)「死の閃光」(1)
2025.9.12
午後、駿河古文書会で静岡へ行く。先週台風で延期になったものである。*****************************************************************
「奇壁」から一年後、大学二年の時に書いた小説である。テーマは、「キューバ危機」の頃、若者が感じた妄想である。妄想で終わったが、実は危機一髪のところまで事態は進んでいたを、我々は後に知ることになる。
死の閃光
秋になった。爽やかな高天に筆で軽く掃いたようなすじ雲の流れる日本晴れの日が続き、周囲の山々はのんびりと衣替えを始めた。今年も保夫の父自慢の菊が見事な大輪をつけた。狭い庭には黄一色の菊花が満ち溢れて、芳香が部屋の中まで漂ってくる。保夫はそれを美しいと思った。しかし同時にその絢爛さの背後に人為のはかなさも感じていた。
〈あの貧相な葉っぱはどうだ。ひょろひょろの茎は細竹の支柱で辛くも立っているにすぎないし、あの繊細豪華な花びらだって渦巻型の針金に身を持たせてやっと姿を保っておれるのじゃないか。〉
そこにはもはや自然の逞しさは見出せなかった。造花の美が不滅のはかなさとするならば、この菊の絢爛は差し詰め完成のはかなさといってよいだろう。
新聞は行楽地の人出を報じていたし、高校の同級生は半月後に迫った修学旅行に浮足立っていた。しかし保夫はとても秋を享楽する気にはなれなかった。下校すると、たまに庭に降りて菊にじっと見入るほかは、ほとんど自分の部屋に閉じ籠っていた。そうかといって勉強に勤しむ気配は更々無かった。唯机に向かい頬杖を突いて漠然と障子の桟に視線を遣ったり、寝転がってぼんやりと眼の焦点を虚空に彷徨わせたりしているだけであった。
「保夫!」母が階段の下から呼んだ。「保夫!降りて来なさい。」
〈保夫君、呑気な母さんのお呼びですよ。はいはい只今参上仕ります。〉
「うぉーい」保夫は唸りながら起き上がると大きく欠伸した。
階下へ降りると母が言った。
「家に許り閉じ籠っていないで、少しは外に出て散歩でもして来たらどうなの。」
保夫は拒む理由も無かったから下駄を突掛けると表に出た。習慣で足は自然に通学路に向いていた。夕方の街は平生と何ら変わるところ無く、何となく忙しげに騒ついていた。
〈何という楽天家揃いなんだろう。彼らは未来を窺い見ようともしなければ、過去を顧みようともしない。周囲に注意を配ることすら怠っている。自分の存在は天に任せておいて、眼を皿のようにして、ひたすら『もく』を探し求めている。〉
眼の前に高校の裏山が有った。久し振りに登ってみようと思って麓の小道を辿った。
頂上からは保夫の街が一望に見渡せた。西の国鉄駅から東の大川まで背骨のように通じた大通りを中心に、その南北に雑然と密集した大小の家屋。それが山陰の東の入口に当たる、この小さな地方都市の市街地のほぼすべてであった。あとはその周りに僅かに市街の裾野を見せ、更に郊外に若干の田圃を残して、他はどこを見ても山また山である。
〈こんな街でも焼けるに二日と掛かるまい。〉
街のあちこちに黒い煙と共に火の手が上がり家々を嘗め回しながら、いつかそれらの総てが手を取り合い、大きな渦巻をなして一匹の緋龍の如く天に昇っていく。阿鼻叫喚。巷はたちまち地獄絵図と化し、幾多の魂が緋龍を追うように昇天する。保夫はそのような幻想を打ち消すようにふふと笑いを洩らしながら涙ぐんでいた。保夫の生まれ育った平和な夕暮の街が奇妙に歪んだ。
太陽は西の滑らかな稜線に没し始めていた。辺りは赤一色の世界。保夫は幼い頃、戯れに赤いセロファンを眼にあてがった時の驚愕を思い返した。そしてその時、通りのあらゆるものが赤味を帯びている中で、ポストだけが却ってそれを失っているのを大変不思議がったものであった。
〈明日、登る太陽はあのポストのように赤味を喪失しているのではなかろうか。夜明けまでにはきっと沢山の赤い小さい太陽が産声を上げるに違いない。明朝東の空に昇りかけた太陽は、ポストが赤いセロファンに感じたと同じ嫉妬を赤い小さい太陽に感じて、色を失うのだ。しかしそれを一体誰が目撃出来るというのか。〉
耐え難く感じて太陽から眼を逸らすと空中に黄菊の幻影が浮かんだ。
〈この世の終焉の黄菊!〉
黄菊はすぐに薄らいで消えた。保夫は戦慄を感じて山を駆け下りた。
〈莫迦な、そんな莫迦な。でも僕に何が出来るというのだ。僕には逃避する余地さえ残されていないではないか。〉
叫び出したい衝動を辛くも抑えて細い山道を駆けた。
(つづく)
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