自分古文書(7)「死の閃光」(2)

2025.9.14
今日はやや涼しさを感じた。「秋」は忘れてはいないようだ。
「死の閃光」を続けよう。 5回くらいまで掛かりそうかな。
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翌日の夕暮れ近く保夫は庭にしゃがんで黄菊を見ていた。黄菊は今を盛りとその完全な美を誇っている。
「保夫」と父の重々しい声が背後で聞こえた。振り返ると和服に着替え庭下駄を履いた父が立っていた。裏の家の天窓の硝子に反射した夕日の中で、父の赤銅色の顔が艶やかに光っていた。父は眩しそうに眼を細めて笑っている。父は六十にもなるのに未だに駅前の小さな会社に勤めていて、仕事がら毎日のように近辺の町村の営業所廻りをしていた。紫外線に曝されることの多い父の顔は農夫のように日焼けしていて健康そのものであった。
「どうだ、見事に咲いたろう。来年は黄色だけではなくて他の色のものも咲かせてやろう。」
保夫は黙って菊を見ていた。
「何とか言わんか、保夫。憂鬱そうな顔しよって。えっ、どうしたんだ。母さんが愚痴ってたぞ。」父は笑いを浮かべたまま言った。
保夫は自分に言って聞かせるように呟いた。
「憂鬱なんかじゃない。憂鬱なんかじゃ絶対にない。‥‥唯、‥‥‥」
「唯? 唯どうしたんだ。」
微笑の陰に隠れていた詰問するような表情が父の顔に現れた。
「唯どうしようもなく苛立たしいんだ。大きな流れにどんどん流されて行く自分が。その行き着く果てには死が大きく手を広げて待っている。それが見えているのに僕はどうしようもないのだ。」
父は静かに腕を組んで何かを追憶するような顔つきになった。
「お前も死について考えるような年頃になったか。儂も若い頃には良く考えて夜を明かしたものだ。当時は今と違って軍隊があったからその年頃には皆んなその壁に打ち当たった。しかしそんなことは考えても無駄なことだと儂は悟ったよ。どんなに恐れ逃げ惑おうとも死は確実にやって来るだろうし、どう意義付けてみたところで死が変わるわけのものでもあるまい。真剣に生き力一杯闘った結果としての死ならば、それはそれで良いではないかとな。」
「確かにお父さんの時代はそうだったのかもしれない。死は真剣に生き力一杯闘った後の挫折や敗北の結果として存在出来たし、そういう意味では全く良き時代だったんだ。でも現代は違う。挫折や敗北などは贅沢品になった。死は生き闘おうとする前に不意にそしてほとんど運命的に襲って来るんだ。」
「そりゃぁ、おまえ、交通事故が激増して来た現在、死の形も変わって来ているかもしれない。しかしいくら増えたといってもそんな確率は微々たるものだ。注意さえしておればゼロに近いだろう。」
保夫は父のピント外れの言葉に悲しくなった。
「そうじゃないんだ。僕はそんなちっぽけなことを言っているんじゃないんだ。今問題になっているキューバ危機のことを言っているんだ。」
「ほほう、キューバ危機ねぇ。うん、それで」父は言いながら、しゃがみ込んだ。夕陽の反映から外れた父の顔は急に艶を失って非常に卑小に見えた。
「どうしてお父さんはそんなに落ち着いておれるの。今日か明日にも世界戦争になろうとしているんだよ。」
「世界戦争になるかね。儂はそうは思わない。こんなに素晴らしい文明を築き上げて来た人間が、どうして空に向かって唾を吐くような真似をしようか。なるほど少々の小競り合いは起こるだろう。しかし人類は自らの墓標を立てるほど愚かではないよ。」
保夫は菊の根元の卵の殻を指先に力を籠めて潰しながら思った。
〈お父さんも世の中の人と同じ幸せな楽天家だった。譬えば出された御馳走を喜んで食べている人食い人種の生贄のように。お父さんはきっと人食い人種の腹の中に収まっても事態に気付かないかも知れない。〉
父は黙ってしまった保夫に説教口調で続けた。
「お前の肝っ玉はいつまで立っても小さいんだな。そんな事でどうする。もっと太っ腹な堂々とした人間にならなければ。社会に出たら勤まらんぞ。世界戦争だって? そういうのを被害妄想っていうんだ。」
「被害妄想? 僕も妄想だと思いたい。でもそれは必然なんだ。人間の文明は極度に肥大して精神はもはや文明を縦横にコントロールすることが出来なくなっている。あの勢いを極めた恐竜が巨身を持て余して滅亡していったように、人間も自滅して行くしかほか無いんだ。なのにお父さんはよくも妄想などと‥‥‥。」
保夫は興奮の余り頬がピクピクと痙攣するのを覚えた。
「良い良い。じゃぁ妄想は取り消そう。お前の言うように人類が滅亡するものとして、じゃぁ一体お前はそれをどうしようというのだ。えっ、平和を叫んで虚しい示威運動でもおっ始めようというのかね。それとも今流行りの宇宙ロケットとかで他の惑星に逃げ出そうとでも‥‥‥。」
保夫は父の揶揄を混えた皮肉を遮って言った。
「茶化さないでよ、お父さん。人類の終わりが近づいているというのに僕には何も出来ない。唯流されて行くだけ。だからこそ苛立たしいんだ。」
父の嘲弄に対するというよりも、不甲斐ない自己に対する怒りと悲しみが昂じるにつれて、眼の底に熱いマグマが活動し始めた。保夫は涙を見せまいとして横を向いて立ち上がり走るようにして部屋に上がった。
〈畜生! この涙。僕はこの涙のために今までどのくらい惨めな想いをして来たんだ。僕の涙腺は僕を目の仇にしてやがる。僕が弱みを見せると必ずそれに付け込んで愚弄するのだ。〉
抑え難い涙が頬をはらはらと伝わった。
(つづく)
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