誰がこんな21世紀を想像したか(3) コロナ騒動

 
コロナウイルス(ネットより写真拝借) 

2025.9.16

これだけ衛生環境も整った21世紀に、紛争が絶えない後進国ならばいざ知らず、文明国といわれる先進国に至るまで、「コロナ」と名付けられたウイルスが世界に蔓延するとは、誰が想像したであろう。

「コロナ」とはギリシャ語で「王冠」のことをいうらしい。子供のころに、太陽を描く時には、円の周りに放射線状に線を画いて太陽らしくしたが、その線も「光冠」(コロナ)と呼ばれる。顕微鏡で見ると、コロナウイルスは円形に突起が出た形で、このコロナに似ていることから、そう名付けられたという。

「コロナ」騒動が日本に引き起ったことは、ここで繰り返す必要はないだろう。コロナは有名な芸能人の命を奪って、日本の隅々までその存在を知らしめた。 

自分も経験したことのない疫病の蔓延。いつまで続くのかと、誰もが苦しんだけれども、自分は、コロナ騒ぎは何れ終わるものだと思っていた。自然界に一人勝ちはあり得ない。猛威を振るうコロナも、何れ周囲と共存出来るまでに勢力を弱めるはずだと思った。対象である人を殺してしまえば、コロナも生きて行けない。変異を遂げる中で、人を殺さない程度の弱いコロナが生き延びるわけで、何れインフルエンザと同程度のウイルスになって、終息を迎えるだろうとは、想像していた。

かつて、セイタカアワダチソウが勢力が強く、根から他の植物を殲滅する物質を出しているから、今に人の手が入らない野山は、すべてセイタカアワダチソウに取って代わられるだろうと、聞いていた。ところが、今もセイタカアワダチソウは土手などに見られるが、ススキなどと共存して違和感を感じることはない。これが自然の営みだと思う。

それで、コロナも終息を迎えた。自粛々々と、多くのことをコロナ流行を理由に中止をしてきた。コロナが終わったのだから、何れ元の生活に戻れるだろうと、みんなが期待した。しかし、今、元に戻らないことがたくさんあることに、気付かされるのは自分だけではないと思う。  

地区が区民のために実施していた、お祭りなど数々の行事の中に、今もって復活していないものが多くみられる。中止をしてみて、その行事が無駄であったことに気付くならまだしも、その楽なことに気付いてしまったとしたら、残念である。 

同じことが個人の行事にも言える。結婚式、葬式などが大きく簡略化されてしまった。葬式ももう何年か、本葬に出ることは無くなった。お通夜にお参りして終わりである。もっとも、コロナ以前からその傾向はあったが、コロナが一般化するのに後押しした。

今もって、多くの人々が人前でマスクを外せないでいる。多くの女性がマスク生活では化粧が簡単なことに気付いてしまった。マスクを外せないのがその所為でないことを願うばかりである。  

コロナで失われたものは人命だけではなかった。ネット社会になって、人と人の関係が疎遠になってきているところで、コロナはそれに追い打ちをかける効果があった。

さらにネットで増幅されて、アメリカでは、疎遠はいがみ合いとなり、今や「内戦」状態と報道されるほどになっている。そんな話はまた別稿で。

コメント

このブログの人気の投稿

「かさぶた日録」改め「かさぶた残日録」開始

竹下村誌稿の事

金谷郷土史研究会ー”べらぼう見学会”(10日)