自分古文書(8)「いらごのしま」(後)
2025.9.26
まきのはら塾の「古文書解読を楽しむ」講座、やはり榛原文化センターが来月一杯、避難所となるため、今回は、相良のいーらへ会場を移すことに決めた。時間は30分遅らせて、1時30分からとする。
自分古文書「いらごのしま」の島の後半を続ける。
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中程まで降りたところで切り開いた細長い棚状の広場に出た。そこには万葉歌碑が1基、忘れられたように海に面していた。
うつせみの いのちをしみ なみにぬれ
いらごのしまの たまもかりをす
麻続王(をみのおおきみ)とある。王((おおきみ)というからには都では貴公子だったのだろう。反逆の陰謀か何かの咎で華やかな都からこの寂寥たる半島の先端に流刑に処せられ、淋しい恥多き命を長らえていたのであろう。
灯台は思ったより小規模で無人灯台だった。足元に洗濯板を立てたような急な下りの石段があって、岩の上にコンクリートで固めた灯台の基底まで導いていた。神島は灯台の先端よりはるか左上に見える。神島と岬の間は潮の流れの激しい伊良湖水道である。その動きは窺えないけれども、鉛色の海面下には絶えることのない不気味な移動が続いているのであろう。水道を数隻の小型船が先を争うように三河湾の方へ波を蹴立てて進んでいた。それを目で追いながらふと思った。
〈王は陸路ではなしに舟で流されてきたのではないか〉
長い陸路を大回りして来るより三河か鳥羽から島伝いの海路を採った方がよほど近いのだ。王を岬に残して舟が岸を離れたとき、王は『舟を返せ!』とわめき叫んだであろうか。僕は王の身になってみてそうはしなかっただろうと思った。王は貴公子としての矜持を捨てきれなかった。だから叫び出したい心を懸命に押さえて、海に背を向け舟が視界を去るのをじっと待ったに相違ない。たとえ王自身に落ち度があったとしても、冷たく流刑にした社会に対する反抗をその背に装って。
前の石段を降りようかと少し迷ったが、一段降りてみて降りようと心が決まった。一段ごとに灯台は雨後の筍のようににょきにょきと伸び上がり、神島は水平線とともに段をなして沈んでいった。灯台の先端が水平線を越えたとき、僕は灯台が曇り空に突き刺さったように思えて、危うく平衡感覚を失いかけ立ち止まった。一段後ろへ上がって灯台が水平線の下に引っ込むのを確かめてから再び降り始めた。降り尽きたところは岩場であった。今や灯台は聳え立っていた。外装がところどころ剥落して白ペンキで塗り直されている。発光源のまわりの手摺は赤錆びていて嵐にはそこまで波に包まれることが容易に想像出来た。
僕は肌の荒い岩に腰を下ろした。波が大儀そうにうち寄せてきて岩に当たり、お義理のように垂直なしぶきを上げた。波の嫌々の虚しい繰り返しを眺めながら、あの歌を読んだときの麻続王の気持を思い遣った。
『うつせみの命惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈りをす』淋しい歌だ。自分の望みを拒絶したこの世にまだ未練を残して、海草を食いながら生きている。その女々しさを十分承知していながら自らの命を絶つことも出来ないのだ。ただ苦い自嘲の念をもって歌を読むだけなのである。これがかって反逆を企てようとした男なのだろうか。いや反逆とは限らない。妹の衣通姫(そとおりひめ)と通じた軽太子(かるのみこ) のように道ならぬ恋であっても島流しになる。道ならぬ恋は麻続王にぴったりの罪名のように思えた。それを王の政敵に讒訴されたのかもしれない。しかもその政敵も王の恋人に密かに思いを寄せていて‥‥。僕は空想をやめて顔を上げた。よくみると神島の向こうに雲にもまがうような鳥羽の島々が見えた。麻続王も恋人を残してきた遙か水平線のかなたをこのように眺め暮らしたのかもしれない。僕は感傷的というよりむしろ憂鬱な気分になってしまった。
元来た道を辿って上の道に出て振り返ると、神島の右手にかなり近づいて褪めたピンク色のフェリーボートが岬に向かっていた。いつの間に出現したのか、少しも気がつかなかった。僕は今度は本当に急ぐために足元に注意を配りつつ駆けだした。そして時間があったばかりにこんなところへ足を延ばして、却って気を滅入らせてしまったことを後悔していた。
(昭和42年12月)
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