自分古文書(9)「うどん」(前)

 
昔、苗を頂いたアメジストセージ
確か畑の隅に植えたはずと
雑木林化した畑は避けて脇の土手から見ると
今も元気よく咲いていた

2025.9.28

自分古文書(8)の「いらごのしま」に続いて、「うどん」という短いものを、続きの積りで書いた。しかし、この試みはここで終わっている。

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うどん

 玄関からそれほど広くもない奥へ声を掛けたが返事がなかった。この春来たときと少しも変わっていない。狭い沓脱ぎには履物がすべて脱ぎ捨てになっていて、片寄せねば足の踏み込む場所もないほどであったし、下駄箱の上は花瓶に色褪せた造花があって、それをも含めて埃が白く降り積もっていた。もう一度声を掛けて、やれやれ留守かと思いながら上がり込み、客間に使う手前の部屋を覗くと、薄暗い中に怯え顔の明子がいた。

 「ママ、いないの?」

 「お使いに行ったん」

 春に来たときには「おじちゃんだ、おじちゃんだ」と言いながら僕の周囲を跳び回り腰に抱きついて来て「おじちゃん、今日泊まっていきいや」と愛くるしい顔で見上げたのにと思って、「僕が誰や、解るか?」と問うと、「おじちゃんやろ」とそれでもちょっと安心したといった表情で僕を見て手元の着せ替え人形に視線を落とした。

 「幼稚園は?」

 「もう終わった」

 明子は金髪を植え込んだ女の子の人形に服を着せようとして引っ張るが、よほどぴったりと作ってあるものを見えてなかなか着せられない。本人はそれに熱中しているにもかかわらず妙にしょんぼり見えた。

 部屋が暗いのは縁になっていた南側へ続きに一ト部屋建て増したからだと解った。

 「もう出来たんだねぇ」

 明子は意味を理解しなかったのか、黙っていた。故郷の母は建て増すについては反対だった。こんな高台の不便な猫の額みたいなところに建て増すお金があったら、貯蓄して平地のもっと広い土地でも買うお金にした方が良い、という母の意見にも一理あって、ここでは夏は断水しがちであったし、登って来る道は細くて一方が崖になっていて子供には少し危険でもあり、もちろん自転車さえ上がれない不便なところであった。兄もゆくゆくは下に移りたいと洩らしていた。けれどもこの土地は義姉の里の父に貰ったもので、兄は義姉に対してもあまり大っぴらには不便をかこつ立場にはなかった。しかも二人目の子供が歩き回るようになって、二タ部屋ではどうしても手狭まになったのであろう。

 境のガラス戸を開けて入ると新しい木の香が匂った。小さな庭を潰し敷地いっぱいに建て増して、ようやく六畳の子供部屋と一間半の押入れが出来ていた。窓を開けると鳥羽の街が一望のもとにあった。この眺望がこの家の唯一の長所である。向かいの小高い山も切り開かれていて、火の見とチャイムタワーを兼ねた灯台のような塔に特徴づけられた白い市庁舎が見える。そして向こうとこちらの山の谷間に家が狭苦しく建て混んで左手前方の港の方へ続いている。円筒形の観光会館の向こう側が海であるがここからは見えない。わずかに建物の間に帆柱が見えてその存在が知れる。全体にごちゃごちゃとした街で空き地らしきものといってない。これではたとえ下に家を求めたとしても狭い点は変わりがないように思えた。却ってここの方が見下ろしておれるだけ増しかもしれない。

(つづく) 

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