自分古文書(6)「奇壁」9

2025.9.5
台風15号が近付いている。日本列島には夏の高気圧にすっぽり覆われて、台風が近づける状況ではなかった。今までの台風は西に、東に逸れて、日本は酷暑の日々が続いていたが、ようやく台風が来そうな様子になってきた。台風の影響というより、台風が太平洋にある ”水蒸気の川” を引き込んで、大雨になると予測されていた。午後、静岡で駿河古文書会がある。出席をどうしようかと迷っていた所、今朝早く、台風のため中止の電話連絡があった。考えてみれば、高齢者が多い会だから、当然の処置だったと思う。
「奇壁」を続ける。今日も入れて、残り三回である。
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「T山ってどこの山」
仙作は自分も驚くくらい明朗な声で話題を変えた。
「えっ! あゝ、あそこに少し高い山が見えるでしょう」
富久子が指差した川向こうには角の取れた柔らかい感じの山が頭をもたげていた。
「どうしてT山、知っとるの」
「これ、この本に書いてあるんだ」
仙作はうまく話題を変えたことに内心喜んで『山陰の旅』を広げた。
「いゝですか。こう書いてある。『玄武洞ーS市の赤石に在り、その名は文化四年四月、柴野栗山が命名したもので、玄武とは角形亀甲形のことである。大昔T山を中心とした大噴火があり』つまりあの山のことですね。『地中から煮え立った岩石が噴き出し、幾つかに裂けて、早く固まった岩の隙間に流れ込んで六角形の柱のように固まったものだと言われている。山陰線玄武洞駅より昔ながらの渡し舟でM川を渡り行く。春は桜、秋は紅葉に包まれて、玄武洞の名は泉都、K温泉と共に名高い』」
富久子は聞いているのか、いないのか、じっと前方に眼を据えていた。仙作は富久子の沈黙が不気味だった。それゆえ努めて明るい声で続けた。
「ほう青龍洞っていうのもあるんですね。『青龍洞ー玄武洞より南へ約一町、採石によって出来たもので、褶曲作用のため柱石が傾き曲がって、美しい柱状節理を示している。玄武洞と共に名高い』」
黙りこくっている富久子が仙作は小恐ろしくさえなって来た。
「青龍洞はどっちの方?」
仙作はじっとしておれなくなって、丸太のベンチから立ち上がった。
「こっち」
一言、言うと富久子は先に立ってスタスタと歩き出した。仙作はほっとして後に続いた。なるほど細い山道を百メートルほど行くと広場に出た。
眼前に立ちはだかった青龍洞の奇壁は玄武洞と同じくらいの規模を有し、自然の技巧は玄武洞のそれより一層繊細になり、しかもその褶曲した岩の中には正に昇り龍を思わせるような勢いと神秘さがあった。
二人は奇壁の前の、玄武岩を利用して造った池の端に立っていた。驚嘆している仙作をよそに、富久子は池の泥を蹴立てゝ泳いでいる鮒の行列に眼を遣っていた。音律のまちまちな蝉の大合唱が絶えず奇壁に反響している。
「富久子さん!」
仙作は衝動的に呼びかけた。振り向いた富久子の眼を仙作の眼が鋭く捉えるや否や、急に時間かストップしてしまった。仙作の眼には富久子が、富久子の眼には仙作が鮮明に焼き付けられた。喧しい蝉の声はいつの間にか掻き消され、二人の立っている大地さえも影を潜めた。ただ頭をじりじりと焦がす陽光だけが懸命に危険信号を送っていた。
どれくらいの時間が立ったろうか。いや、ほんの一瞬だったのかも知れない。仙作は急に富久子の姿を拭い去って言った。
「僕はあなたが羨ましいなぁ」
富久子は魂を奪われたようにぽかんとしていた。
「あなたはこのような自然環境の中に生活出来るんだから。ビルと車と群衆の都会。何という無味乾燥。それはまるで人工砂漠だ。僕は出来るなら自然の中に逃げ出したい。このような自然に抱かれて眠る。それこそ僕の夢だったんだ。そこでお願いがあるんだが、僕はこゝでひと寝入りして帰りたい。僕を一人にしておいてくれないか。先に帰って、お父さんには帰りに寄ると言っておいて下さい。」
仙作は富久子がそれ以上こゝにいることに危険を感じていたのだ。
「仙作さん! 卑怯よ! 意気地無しだわ。昼寝でも何でもしとったらいゝ」
富久子は吐き捨てるように言うと足早に去って行った。放心していた仙作は富久子の姿が山陰に消えると、大きく溜め息をついて木陰の草の上に仰向けになった。奇壁は頭上に聳え立った。耳には山彦のように富久子の言葉が繰り返し響いていた。
「何が卑怯なのだ。どうして意気地無しなのだ‥‥‥‥」
爽やかな川風が混乱した頭に眠りの櫛を当てた。頭に靄が立ち込めて来るのを、遠のいていく意識で感じていた。
(つづく)
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