自分古文書(12)「尻尾」
妙な小説である。当時読んでいた、星新一、小松左京、安部公房などに触発されて書いたものと思われる。当時、実際に「ある」「なし」よりも、「信じるのか」「信じないのか」の方が人間にとって重要ではないのか、などと考えていた。そんな発想で、いくつか、小説を書いている。「尻尾」は、そのうちの極く短いものである。
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尻 尾
Sのことを話そう。
ある夜、私は銭湯でSに会った。
「おい、僕の尻尾、どうもなっていないかい」
彼は実にこともなげに尋ねた。けれども私は驚かなかった。それが彼のお気に入りの表現であることをよく知っていたからである。彼はかって、「迷っていたんだが、やっぱりアメリカのジェット機1機、購入することに決心したよ」といったこともあり、又、独身の彼なのに、「俺、ほとほと弱ったよ。子供が出来ちゃったんだ」といったこともあるのである。
彼の指し示した尾骶骨の部分を見ると、内出血して赤紫色になっている。
「あざになってまぜ。尾骶骨のところ。いったいどうしたんだ」
「それは知ってる。ころんだんだ。尻尾の方はどうだい。途中で折れたりしてないかい」
私は彼がその気なら乗ってやれと思って、
「こりゃ酷い。三つに折れてるぜ」と顔をしかめてみせると、彼は湯気の中でまっ青になった。
「おい,どうしよう。なおるだろうか。元通りになおるだろうか」
「冗談も度を越すとね」
「これが冗談だというんか、貴様は」
彼は今度は真っ赤になって怒った。まるで七面鳥のようなやつだと思いながら、
「冗談でなくって、無いものがどうして折れたりするんだ」
「無いものが折れないなんて、貴様はどうしてそんな悟りきったような顔をしていえるんだい」
「そりゃ君、何も見えやしないし、第一、人間に尻尾があるなんて、誰が信じる」
「ああ、貴様もだめだ」
Sは額に手をあて、尻尾のない腰部をこちらにみせて、湯船に跳び込んでしまった。私はこの時、ふと思い出した。『ジェット機』のときは確か数日後、アメリカ製のジェット機の玩具を買って来たし、『子供』のときは、翌日、どこから手に入れたのか、子猫を抱いて現れたのであった。今度も何かやるつもりだな。きつねの尻尾でもつけて現れる気でだろうか。私は幾日か期待しながら待っていた。
1週間ほどたったある朝、私は朝刊を開いて呆然とした。次のような見出しがあったからだ。
『学生、尻尾を苦に自殺!』
私は食いつくように読んだ。やはりSだ。
『‥‥‥なおS君は尻尾があることから、ノイローゼになっていて、発作的に自殺したものとみられる』
私はうしろに手を回し、そっと尾骶骨のあたりをふれてみた。
(昭和43年3月)
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