自分古文書(14)6年A組 36年目の同窓会(前)
2025.10.27
6年A組 36年目の同窓会
記 録
【1日目】
9月末、『6Aクラス会案内』と書かれた茶封筒が来た。発信元は坂※志津子、中を開くと案内状・名簿と共に、『日高町金谷 やまめ料理“阿瀬”』のパンフレットが出て来た。数年前の京都での同窓会が思い出される。行くことになるんだろうなあと思った。
江原駅ホームには新婚旅行の見送り客の一団がいて、避けて通る。はじめ皆の顔が判るかどうか心配だった。案の定、出迎え口でこちらに合図を送る男性がはて誰だったか? あんな同級生がいただろうか。改札を抜けて最初に目に入ってきたのが西※幸二の顔であった。これは忘れない。加※賢二もいた。頭の禿げかかったのは誰だったかしら(後で田※嘉彦と判明)。駅での待ち合わせの件を知らせる電話をくれた中※正もいた。皆んないいおっさんになった。車から奥さんが降りてきた。挨拶している所に、最初判らなかった男が近づいてきた。「先生?!」
坂※志津子、秋※智子、粟※紀美子、脇※美子(いづれも旧姓)の女性軍もいた。最も名前と顔がくっついたのは暫くたってからであった。まもなく岸※良雄が車で到着した。上※幹代の到着を駅頭で待つ坂※志津子を残して、会場に向けて出発することになった。途中の車で脇※美子から、彼女の旦那が兄とが同級で、教育委員会時代には同僚として親しくして頂いたと挨拶があった。会場は阿瀬渓谷のやまめ料理を出す『阿瀬』という渓谷の宿である。阿瀬渓谷は神鍋とは一と谷南の渓谷で、谷を詰めて行くと植村直己が最初に登った蘇武岳に至る。『阿瀬』は中※正がこの20年来毎年行っている常宿で、同じく幹事の坂※志津子も最近下見をしてきたという。道々、ふるさとの山は山の形が優しいと感想を述べた。その優しい山が今燃え上がりつつある。紅葉の季節の到来である。
『阿瀬』は細い渓谷沿いにあった。木造建築で、数段の階段が登ったり降りたり、複雑な廊下を2階へ上がる。途中の中2階が女性達の部屋であった。男どもの部屋は2階の凡そ20畳程の部屋で電気炬燵が2つ据えられていた。食事までの間、炬燵を囲んでさっそく話が弾んだ。その間に男どもは順番に風呂に入った。温泉ではないけれども檜風呂で気持ちがよい。間もなく上※幹代も到着した。
岸※良雄とは久しぶりに会った。取り急いで、高校時代の仲間の消息を聞いた。由※が心筋梗塞で倒れたというニュースには驚かされた。一時は危なかったらしいが、何とか生還したという。今では普通の生活には支障はないが、詰まった血管は回復しないため、きつい運動は出来ないと言われているらしい。斉※はおふくろさんが亡くなり、独り暮らしをしているようだ。浦※は東北大学にいるが、教養学部がなくなり、今まで教授であった者が再度審査を受けることになった。浦※本人はめでたく理学部数理学科の教授になった。しかし審査に落ちたものは教授になれず惨めなものだという。中※は阪大の研究所にまだいる。井※は兵庫農業高校の教頭になった。僕も去年から取締役になったと話した。当の岸※は松下の中央研究所で、フロンの代替品の研究をしているのだという。色々なことがあったのに、自分は全くつんぼ桟敷に置かれている。残念で寂しい限りである。たまには関西にも出掛けなければいけないのかもしれない。
田※嘉彦は北但米穀にいて、何年か前に親父が会社に来て、言葉を交わしたことがあるという。今から静岡に行くのだと言っていたそうだ。
階下の部屋で炭火を囲んでヤマメを焼きながら、ヤマメの刺し身などヤマメづくしの料理を前に、同窓会が始まった。
(つづく)
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