自分古文書(10)「ベーローや」(中)
2025.10. 8
自分古文書「ベーローや」を続ける。
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小学校の校庭には、櫓(やぐら) を中央にして一杯に丸い人垣が出来ていた。その人垣に沿うように連なる黄色い提灯が目に映ったとき、匡は込み上げるような懐かしさに打たれた。それは通り雨のように襲い、匡の心に僅かな湿りを残して去った。匡は自分を故郷へ追い立てて来たものの正体を見たような気がした。
人垣の肩越しに覗くと、中に踊りの二重の輪があって、それが内に外に揺れながらゆっくり右に移っていく。どことなく間延びした踊りである。
「おい、戻ったんか」と匡は肩を叩かれた。市役所に勤めている腕白仲間の晃だった。
「二年振りか」
「正月には帰って来てるんだが、誰にも会わない」
「佐知にもだろう」
「あの我儘娘か。あれっきりだが、どうしてる?」
「この春、婚約した。結婚は秋だ」
晃の言葉は冷たい刃物のように匡の胸に触れた。
「そうか。しかしよくあんな奴を嫁に貰う男がいたねぇ」と言い繕いながら、匡は不思議なほど動揺していた。晃が黙っているので、
「じゃぁ、この夏は好きな盆踊にも出ないで、家にしおらしくしているのか。それにしてもどんな男かね、相手は」
「来てるよ」
「へぇ、近所なのか?」
「いや、佐知のことだ。それ、内側の輪の、白地に赤とピンクの花模様の、派手な浴衣の‥‥‥」と晃の指差す方を見ると、踊りながらこちらを向いた白い顔に見覚えがあった。
「美人になっとろうが。三つ下だから二十歳だ。匡、どこへ行くんだ」
匡は大股に手前の外側の輪に割って入った。輪を乱された踊り娘(こ) たちは迷惑げに間隔を空けた。そこに晃も入って来て、「おい、十時までは女子供の時間だぞ」と手足を踊りに合わせながら、小声で咎めた。
手が“あやつり”のようにひょいと挙がると、袖口から白い腕(かいな) が覗く。右手が挙がるときには、左手は胸の前を横切って慎ましやかに右手に添えられた。左手のときはその逆になった。提灯(ちょうちん) の光の中で、佐知の浴衣も、黒い髪も、隣の人々も、周囲の空気までもが黄色味を帯びて見えた。その中にあって、佐知の手だけが光の真空地帯でもあるかのように白かった。それが頭の上でひらりひらりと返されるのを見ているうちに、匡は昔どこかでそんな光景に出会ったような気がしてきた。
「どねぇだ、綺麗になっとろうが」と、佐知に気を取られて踊りもなおざりな匡に、晃は話しかけた。
「でも、今頃になって変な気起こすな。佐知にはもう婚約者がいるんだしけいに。おい、聞いとるんか」
晃の声は苛立っていたが、匡は少しも聞いていなかった。心は古い記憶の世界を彷徨っていた。
黄色いのは胸まである菜の花畑だった。ひらひらと白いのは戯れ合いながら舞う二片(ひら)の紋白蝶だった。網も持たずに匡は菜の花畑を紋白蝶を追って駆ける。佐知に約束したからだ。忙しない揚げ雲雀の囀りさえ懶く聞こえる春日和である。匡は何度か窪めた両手で菜の花に止まるところを取ろうとするが、その度にひらりと逃げてしまう。「ターちゃん、ターちゃん」と佐知が追ってくる。
二人が菜の花畑の途切れるところまで追って来たとき、目の前に不意に野良着姿の若い男女が立ち上がった。二片の蝶々はそれを越えて、堤の方へ飛んで行ってしまった。
「どうしたん?」
「ちぇっ、邪魔が入った。行こう、佐知」
匡は佐知の手をぐいぐい引っ張って歩き出した。
(つづく)
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