昨日の郷土史研講演会はどうでしたか
『山内一豊と秀吉・秀次』
2025.12.11
12月10日午後、金谷郷土史研究会で、顧問の曽根先生の講演会があった。自分は「まきのはら塾」の講座と重なって、参加できなかった。今日午後、その結果が知りたくて、事務局のNさんの事務所へ行く。聞いたところでは、参加者は16人で、ほぼ予定した人が来てくれたようであった。
演題の「山内一豊と秀吉・秀次」は、来年の大河「豊臣兄弟」の先取りであろうか。
曽根先生の講演会の録音CDを、Nさんから借りて、今、聞き終えた。
小田原城の落城後、家康は関東へ移り、駿河に中村一氏、掛川に山内一豊がそれぞれ城主として入るが、どうやら我々が考えていた江戸時代の藩主とは、立場が少し違うみたいで、城主といえ、すべて秀吉の命令で動いている代官ほどの権限しかなかったように思われる。
当時の書状など、一次資料を見ると、特に掛川には「蔵入り地」(豊臣の所領)が含まれていて、一豊はその管理もしていて、その過怠を責められて、罰則さえちらつかされいる。さらには、西日本の武将たちにのみに課せられた朝鮮出兵を、「折檻」という名目で、言い渡されてたりしている。
出兵はなかったものの、とても、金谷郷土研が課題にしている「天正の瀬替え」など、秀吉の命令が無い限り、考えることすら無かったと思われる。これは駿府の中村一氏も同じで、したがって「天正の瀬替え」はなかったとする傍証になる、との話に最後はつながった。
納得で、一つの強力な状況証拠にはなるが、しかし、まだ決定的な証拠ではない。まだまだ、金谷郷土史研の、新資料の発見などの努力は重ねなければならないと思った。
曽根先生、講演ご苦労様でした。ありがとうございました。
コメント
コメントを投稿