「小夜の中山子育て飴」出入 /「駿遠の考古学と歴史」講座より
2025.12.13
午後、金谷宿大学「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席した。S先生へ、水曜日の金谷郷土史研究会での講演のお礼を言う。また「硯屋日記」の今月読んだ分を渡し、さらに「歳代記(明治編)」を渡した。
今日の課題は「小夜の中山の子育て飴」とあったので、「今日は比較的優しい内容ですね」と聞くと、「物語りではなくて、飴餅の販売権を争った出入の話で、決して優しい内容でははない」と言われた。
1803年、小夜の中山より、金谷宿へ向かって下る先、「間の宿」菊川村に対して、小夜の中山夜泣き石伝説にちなみ、久延寺門前で販売していた「飴餅(子育て飴)」を上菊川村、下菊川村、牧之原村の人たちが、販売して、中山の者が迷惑している。即刻止めさせてもらいたい旨の訴訟を掛川藩の役所へ出した。
その反論が菊川よりあった。そもそも、菊川における「飴餅」は、昔、中納言宗行卿が歌われた、異国の南陽県菊水と地名が似る、菊川の水で作った御開運飴餅として売り出した、由緒あるものである。中山の人たちは、家康が一豊から久延寺にて接待を受けたことに対する「御開運飴餅」というが、往時、お寺の周辺には人家がなく、後に店を出し商売し始めたものではないかという。
中山側は菊川には田畑もあり、名物としては「わらび餅」もある。中山には「飴餅」しかないのだから、譲ってくれてもよいではないがと泣き落としをするも、旗色が悪いとみるや、地頭である久延寺へ、相手方の支配である掛川藩の御役所には依怙贔屓がある、そちらからも掛川御役所へ言ってもらいたいなど、泣きついた。結局、内済(和解手続き)となり、中山方から金銭補償を出して、菊川の販売を隔年とする事、ただし、飴と餅を別けて販売することは、勝手次第という結果になった。
ちょうど、江戸では、曲亭馬琴の『石言遺響』(文化2年、1805年)が出版され、夜泣き石伝説が世間に広く流布する頃で、訴訟にも力が入ったことであろう。土産もの「子育て飴」が大きな利権を呼ぶころの話である。
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