自分古文書(16)遠江三十三観音巡礼(10)
2025.12.28
観音巡礼は、前回からさらに2ヶ月経った。5回目の巡礼の記録を載せる。
巡礼団尾根道を蜘蛛の巣を払いつつ進む 遠江三十三観音巡礼⑤
第十四番 瑞霧山大雲院 ・ 第十五番 五台山文殊寺
日 時 平成五年九月十一日(土) 天候 晴れ
冷夏の終わりに少しの残暑が来て、それもこの夏何度目かの台風に雲散霧消し、秋になった。この間に和さんが定年を迎え、涙を残して退職していった。しかし、我等巡礼団に定年はない。巡礼を再開する時が来た。
掛川駅から掛川バスの居尻線に乗る。車窓に掛川城が見える。来年春の落成を目指して、今周辺整備工事が急ピッチに進められている。掛川市に良いシンボルが出来た。これで掛川もしまりのある街になる気がする。ヨーロッパに行くと、どんな街にも教会の塔が立って、街のシンボルとなっているが、日本の街にも必要だと思う。バスは我々四人の貸切り状態が居尻まで続く。バスは楽で良いと話す。気を使って運転する必要もないし、待ち時間さえ無ければ最高である。それにローカルなバスは混み合うこともなく、ゆったりと座れる。
居尻で下車。日差しが強くなる気配に、今日は暑くなりそうだと感じる。鈴さんは靴を新調して初めての遠出だと足元を気にする。久し振りの巡礼団は日陰を選びつつ快調に歩む。こんな調子で歩くと早く着きすぎてしまうと冗談が出るほど。原野谷川を橋の上から覗くと魚影が見える。その先では水着で魚を突く若者の姿もあった。
【歩程】原野谷ダムへ、南へ2.5キロ
居尻で我々を下ろして奥へ入ったバスが戻って来て、原野谷ダムの手前で追い越して行く。バスに手を振ると運転手がニヤッと笑ったようだ。我々の行動を不思議に思っただろうか。行きと異なり、戻りには客の姿が見られ、人ごとながらほっとする。ダムサイドの木陰で休憩をとる。ダムを渡った向こう側に休憩舎やトイレが見えるが、日当たりが良くて暑そうだ。原野谷ダムは大雨時の調整ダムだから、水を湛えてはいない。湖底の流れまでは随分深い。
原野谷ダムから大和田の集落へ下る。橋を渡って大和田診療所隣の自動販売機で飲み物を仕入れる。
畑仕事のおばさんにトンネルへ登る道を教わる。コンクリートで固められた急な農道であった。道が平坦になって真っ直ぐ行くと西郷へ抜けるトンネルの入口に出る。我々は少し手前で分かれた山道をたどる。こんな所に、人が住むのか住まないのか、一軒家があった。それからは道が草で埋まりかけている所もあって、人跡の絶えた山道となった。登り詰めた風が抜ける峠も、草に埋まっていた。臼さんが峠の小さな地蔵さんを見つけた。この山道がトンネルの出来る前の古い道であることが証明された。
道はかすかに車の轍を残す広い尾根道になった。先達として先頭に立ち、目の前で小枝を振り振り蜘蛛の巣を払いながら歩く。所々にヤブランが花茎を伸ばし、小さな薄紫の花をつけている。針葉樹が途切れると、途端に道に雑草がはびこる。雑草の露でズボンの裾がたちまち濡れる。この道が右手西側の谷へ下って行けば正解なのだが、その気配がなく延々と続く。途中鉄塔が現れ、地図で凡その見当が付いた。計画よりかなり東寄りの尾根へ来ていた。
茶畑が現れ、道が二手に分かれた所に、自然石の道しるべがあった。「皇太子ご成婚記念」とあったが、先頃造ったものにしてはいかにも古い。その筈で、年号が大正とあり、昭和天皇のご成婚時のものと判った。「右石ヶ谷、左美人ヶ谷」と漸く読んで地図で探す。その結果どちらを選んでも東側へ下りてしまう事が判明した。しかしここまで来てしまったからにはやむを得ず、少しでも近い石ヶ谷へ下りることにした。目的の大雲院へは一山越さねばならない。
山を越す前に、人家のそばの路上の日陰で休む。ちょうど聞き覚えのある正午のチャイムを聞き、ここは掛川なのだと改めて確認した。空腹であったが、昼食は大雲院と決めていた。
新しく出来た広い道路を教わり、山を越えたものの、目的の大雲院が見つからず、疲れた足で迷う。それでもバイクで通ったおじさんに聞いて漸く大雲院に辿り付いた。
とうとやと 来ていまだきの 三筋川 よろずよかけて 注ぐぼんのう
【本尊】聖観世音菩薩 【所在地】掛川市上垂木
【名木】開山槇(天正2年開山時植える、樹齢450年)
観音堂にお参りの後、庫裏でご朱印を請う。押印後、お茶をよばれながら住職から昔の話を聞く。門前に山崎清一顕彰碑があったことを臼さんが話題に出す。山崎清一氏は掛川地域の茶業の振興に功績があり、当社にも、みえて色々と世話になったことがある人だという。
我々を茶業関係者だと知って、昭和三十六年ごろに十町歩の茶畑開墾の共同事業に参加した苦労話をする。ブルドーザーがまだ珍しかった当時、県で二台購入した機械を借りて開墾したのだが、茶業が斜陽産業だと思われていた当時、茶畑開墾の先駆けで、茶畑の傾斜の付け方、植栽時の施肥の要不要など、すべてが手探りの開墾であった。県の試験場の先生も指導とデータ取りに良く来ていて、県を上げてのテスト事業だった。ブルの運転手などの作業員はお寺に泊めて、厚遇し毎晩酒盛りだった。経費が当時でも数百万円かかり、それ以外に作業員の弁当は勿論、軍手など全て別途にこちらで準備した、など。
弁当を食べるというと、本堂に隣接した精進落しが出来る集会場を開けて、扇風機まで回し自由に使ってくれという。恐縮しながら使わせて戴く。お握りの食事の後、横になるとそのまま昼寝をしたくなるほど気分が良かった。あとで本堂にお参りし、お賽銭をはずんでおいた。
(平成五年九月十一日分、続く)
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