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自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(1)

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イペーの花は車で走るとあちこちに見かける 何しろ目立つ花だから  21日散歩に出たとき見付けて ようやく写真に収めた 2026.4.29 自分古文書と言いながら、今回取り上げるのは自分の書いたものではない。学生のころ、お世話になって、自分の書く文章に少なからず影響を受けた大先輩である。 この文が送られてきた昭和48年、自分が静岡から金谷に住居を移したので、こんな文章を書いてくれたのだと思う。当時の経緯は覚えていないが、この頃、古い写真を探していて、この文章を見つけた。 本人は、今はかなりの高齢で、もう音信不通になっているから、こんな古い文をここへ載せるについて、了解をもらっているわけではないが、聞けたならおそらく了解をくれたものと思う。小澤 寛峰氏は大変魅力的な人物で、何れ詳しくその人となりを紹介する機会もあると思う。 自分の山行記や旅の記録などは、小澤氏から大きな影響を受けていたと、今更に感じる。とにかく、「 島田市北方の山々 」 読んでいただければ幸いである。   *********************************************************************** 島田市北方の山々 小澤寛峰著  島田市北方の低山へは、これまで四度入った事がある。しかも同じ季節、それも同じ十二月にてある。自分には全く珍しい事であった。こんな事は、静岡市も極く近辺の山、日本平以外にはない事であった。それは自分には、この山行きが前三回共、殊にも素敵であったが為であった。  第一回目は、昭和四十三年十二月二十一日であった。その頃はまだ登山という事も知らず、たゞ自然を恋して、少しづゝ山へ心が向いている頃であった。その年の十一月には、達磨山や、鵜山七曲りの大井川縁りを歩いて楽しかった。末だズック靴で、五万分の一地図も購めぬ頃であった。  この第一回目の時は、千葉山智満寺へ行くつもりであった。しかし島田駅を下りてみると、その途中迄の天徳寺行バスの発車まで、かなりの間があった。そして直きに出るのが、川口行のバスであった。五万地図に比ぶれば大ざっぱではあるが、静岡県地図で見たら、川口とは大井川もやゝ遡った所で、智満寺とは山二つほど裏手に当る所であった。順調に行けば、そこからでも智満寺まで行かれそうであった。自分は川口行バスへ飛び乗ったのであった...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(8)

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東海道ウォーク、終りに豊川稲荷へ初詣 2026.4.28 今日より5月1日の駿河古文書会の予習に入る。当番ではないが、予習は必ずやって行く。自分でも感心だと思う。もちろん学生時代にはなかったことである。 東海道ウォーク 番外姫街道3日目を続ける。長くお付き合い願った 「 東海道ウォーク」も今日で終わりとなる。明日からはまた別の自分古文書を載せよう。 ************************************* 家並をはずれて坂を登り、車道に出てすぐに駐車場があった。小さな祠に二体の弘法大師の石像が祀られてあり、『大師堂』と標識があった。そこにワゴンを止めたハイカー姿の中年男性がいて、本坂道が荒れているという。静岡のユースホステル協会の人で、近くここでハイキングを行うので下見をして来たと話す。楽しみにしていた本坂峠の椿の原生林は、花はおろか蕾さえ見当たらなかったという。去年の夏の水不足で、花も付けれないほどに木が弱っているのであろうか。 峠へ至る登山道を少し登ったところで、臼さんがキジ打ちに行く。ついでに我々も休憩をとり、お握りならぬ餡まんと肉まんで昼食に代える。道は言われたほど荒れているとは見えず、ユースホステル協会ともあろう団体が、これ位の道を荒れているというのはおかしいと話す。さらに石畳が始まって歩きやすくなる。十年も前になろうか、ここを子供たちと下ったはずだが、もっと狭い山道だったような気がする。幼い子供たちが藤つるを輪に繋いで、汽車ごっこをしながら下った。一度、本坂峠の旧車道に出てさらに山道は続く。 道端に巨大な岩があった。かってはこの街道を行き来する女性たちが、この岩に自分の姿を写して化粧を直したといわれ、『鏡岩』の名が付いている。岩質は『チャート』だとあったが、固い堆積岩でいかにも磨けば顔でも映りそうである。伝説には後日談があるもので、ある盗人がこの前に立ったときから、現在のように曇ってしまったのだと伝わっている。大きさは長さ十メートル、高さ三メートルだという。 もう一度旧車道に出た所に『椿の原生林』の標識があり、確かに遊歩道の両側に椿の太い木が群生している。樹齢は200年という。しかしどこを探しても椿の花も蕾も見当たらず、葉色が悪くて樹勢もなかった。 杉の木立の中に『本坂峠』はあった。南は尾根つたいに湖西連峰を辿って新所原へ、北は坊ヶ峰へ...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(7)

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本坂一里塚 2026.4.27 解読版の冊子化で、次は鈴木牧之の「上越秋山紀行」を選んだ。読んで面白そうなものと考えると、どうしても紀行ものを選んでしまう。今回はかなり遠方のものであるが、読んで面白かったので選んでみた。 東海道ウォーク 番外姫街道も、3日目である。「 東海道ウォーク」もここで終わりとなる。 *************************************   終わりは本坂峠を越えて豊川稲荷へ初詣 姫街道( 三ヶ日宿 → 豊川稲荷 ) 日時 平成8年1月27日(土) 快晴、後時々くもり いま巷では、昨年末のWindows95のフィーバーに続いて、インターネットブームが起きている。体験してみないと話にならないと、先週から自分でもインターネットに加入し接続に取り組んできた。苦労してやっと日曜の朝四時に繋がった。しかし、まだ不安定でスムースに繋がることが少なく、繋がってもすぐに切れてしまうなど問題は多い。とにかくこの一週間インターネット疲れでぐったりだと皆んなに話した。ボケ防止にパソコンをやっている熟年も多いという話に、鈴さんがどのくらいの費用がかかるのかと聞いていた。今は本当に安くなっているから買ったらどうかと勧める。 和さんは先日大札山に登ったが、そこで会ったおじさんが、そこから浜松のアクトタワーが見えると話していた。それらしき物が確かに見えたが、大札山から浜松が見えるはずはないと思ったという。アクトタワーに上がって大札山が見えたら、きっと大札山からも見えるはずだとは、答えにならない答えであった。 浜松駅のバス停でバスを待つ間に、白いジャンパーのおじさんが話しかけてきた。やはり姫街道を歩いているという。磐田から歩いて来て、今日は我々と同じ三ヶ日から本坂峠を越えるのだという。我々以上に道草が多いらしく、今日も浜名湖岸のマンサクの名所に足を延ばすという。後日調べて見ると、三ヶ日町鵺代の『 乎那 の峰』に、およそ三百株のマンサクが群落をつくり、静岡県の天然記念物になっている。ところが、なぜか白いジャンパーのおじさんは我々の乗るバスには乗らなかった。 運転手に尋ねるとバスは三ヶ日駅には寄らないという。前回のコースと繋ぐために、姫街道上の三ヶ日バス停で下りる。 前回と踏み跡を繋ぐために、三ヶ日郵便局まで戻る。実は前回取れなかった風景印の期待をし...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(6)

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慈眼寺庚申堂 手前に梅の古木が見えている 2026.4.26 桑原藤泰著の「安倍記」、解読版の冊子化が出来た。これで8冊目になる。桑原藤泰著に「浜かづら 安倍紀行」という書があるが、「 安倍記 」は、 本人がその要をまとめ、読みやすくしたものだという。旅日記風に書かれていて、確かに読みやすい。途中、日が一日ずれているように思うが、細かいことは言うまい。これも希望者に分けようと考えている。特に静岡の人は読んでみて貰いたい。 以下へ8冊の冊子を挙げる。   1 歳代記(幕末編)       松浦幸蔵著   2 歳代記( 明治編)         〃      3 安政 大地震能記         山崎久麻呂著    4 大井河源記(前編)      桑原藤泰著   5  大井河源記(後編)         〃      6 安政大地震記録         松下良伯著    7  薦被り騒動(五和の百姓一揆)  山田家文書   8  安倍記              桑原藤泰著                   東海道ウォーク 番外姫街道、2日目を続けよう。 ************************************* 再び街道に戻り、慈眼寺に立ち寄る。ここの庚申堂は、明治になって佐久米から買い取り、移築したものだという。一見して古いものに見える。堂前に梅の古木があった。 姫街道は東名高速によってここで寸断されて昔とは随分変わってしまっている。現在の道は迂回して東名を潜り、向こう側の東名に沿った道を大里峠へ登る。旧の大里峠が地元民により整備されているという立て札につられて道を逸れて山へ登ってみたが、行き止まりで引き返した。ついて来なかった川さんは懸命だった。東名を高架で渡り返して三ヶ日の町へ下る。 雨が再び降り始め、今度の雲行きでは容易に止みそうに見えなかった。皆んなの足がさらに急ぎ足になる。高札場跡の標識も横目に通り過ぎた。 三ヶ日の町に入ると、道が改修されて地図とうまく照合出来ずに、自分のいる位置を見失ってしまった。多分この方向で良いだろうと進んで行くと、三ヶ日一里塚の石碑があった。位置は確認出来たはずであったが、自信なさそうなナビゲーターに心配して、和さんが近くでゲートボールをする人に聞いて来てくれた。...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(5)

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姫街道 姫岩(平石) 2026.4.25 東海道ウォーク 番外姫街道、2日目の続きである。 ************************************* すぐに引佐峠が始まり、復元されたらしい石畳が始まる。金谷の石畳ほどの幅は無いが、使われた石が丸石ではなく、お城の石垣をねかせたように、割った石の平らな面を使っていて、気持ち歩き易い。 金谷の石畳ほどの高低差を登りきった所に、『平石御休憩所』がある。『姫岩(平石)』の説明板があった。往時には、大名行列が通るときなどに、気賀の近藤家の家臣がここまで出迎え、湯茶の接待をしたという。見回すと、すぐ側に畳十畳敷ほどの一枚岩があった。道面とほぼ同じのため目立たなかったが、少し傾斜があって、かっては旅人の絶好の休憩場所になっていたのだろう。江戸時代以来、幾多の旅人が座ったと思うと感慨がひとしおである。 和さんは、今朝出掛けに折り畳みの傘を持ってきたから、きっと雨が降ると不吉な予想を立てていたが、休んでいる間に雲行きが怪しくなり、雨の心配が出てきた。お天気が続いていたし、午後になって降水確率がやっと20%の予報だったから、まさかと思っていたのだが、合羽も家に置いて来たという鈴さんもおり、何となく気忙しくなってきた。 浜名湖もちらちら見える緩やかな登りの山道を行く。道が時々別れるが、標識がしっかりしているから安心である。地図によると、遙か山の上を通る車道と合流する辺りが峠のようだ。引佐峠は切り割りになった車道には出ないで、山道を登った所にあった。 南へ行くと天浜線浜名湖佐久米駅へ下る。北へ行くと道路で切断されているが尉ヶ峰へ登るハイキングコースである。姫街道は東から来て西へ下る。引佐峠はその十字路にあった。 登りよりも急な下り坂が続き、中でも急なジグザク道に『象鳴き坂』という名前が付けられていた。清の商人が広南国より朝廷に献上した牡の象を、京から江戸へ送るのに、今切を舟で渡ることが出来ず姫街道を通った。その折りこの長い急な坂道に、さしもの象も悲鳴を上げたということからの命名である。 少し下ると左手に大きな岩があった。『石投げ岩』である。岩の上に小石がたくさんのっていた。案内板によると峠を登り下りする旅人が、その岩に石を投げると無事に峠が越えられるという。早速石を探すが舗装された道には容易に石が見つからない。全員来た道を...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(4)

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我が家に似合わない胡蝶蘭 2026.4.24 何日か前、まーくんの父親の勤める会社で新社屋の落成式があったようで、胡蝶蘭の鉢をいただいたと言い、その内一鉢を我家へ持ってきてくれた。どこへ飾ろうと考えるも、大きすぎて飾る所もない。結局玄関に飾ってみたが、大きすぎて、我が家には似合わない代物である。買えば数万円はすると聞き、粗末にはできないが、胡蝶蘭の花はどのくらい持つのであろうか。花が終わったらどうすれば良いのか。来年も花を咲かせる方法があるのだろうか。疑問だらけで、今日もこの花を眺めている。 東海道ウォーク 番外姫街道、2日目を載せる。 ************************************* 時雨に追われて素通りの三ヶ日宿 姫街道( 気賀宿 → 三ヶ日宿 ) 日時 平成七年十二年二十四日(日) 晴れ後しぐれ 先週末に引き続き、姫街道の二回目を歩く。この慌ただしい年末に街道歩きを行うとは、非常識かもしれないけれども、そんなグループがあっても世の中楽しいではないか。東海道スタンプも三ヶ日宿を残すのみとなった。 昨日、社内のボーリング大会の帰りにコージツへ寄り、毛糸の帽子を買う。前回寒くて、鈴さんの耳の隠れる帽子が羨ましかったからだ。カナダ製で1800円ほどかかった。 浜松駅のロータリー型のバス乗り場から気賀駅行に乗る。客は少なく、我らの5人合わせて 3000円の運賃は大きな収入だろう。下車時のボタンが前の座席の背に付いているのは大変楽である。お年寄りには何よりのサービスだと思う。 バスは前回歩いた所をたどるように走る。苦労して歩いた所を次々と確認する。見過ごしたサインを見つけて、どうして見逃したのか不思議に思う。終点の気賀駅で下車。駅前の道路上で写真を撮り歩き始める。お天気は上々でこのあと時雨れるとは思いもしなかった。 姫街道に戻るとすぐに気賀宿の本陣(中村家)跡があった。また地元の細江仏教会の僧侶数人が、墨染めの衣と笠を被って、読経を唱えながら、家々を托鉢してくるのに出会った。胸には『義援托鉢』と掛かれた袋を下げていた。案内書にも出ていた古い家並の一軒に、『名倉屋』と出ていた。 『犬くぐり道』は、地元の人が気賀関を避けて通った山道である。 莚 ( むしろ ) を一枚垂らして、その下をくぐり抜けさせたという。地元民だけには目こぼしされていたのであろう...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(3)

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姫様道中の大きな絵看板 2026.4.23 解読冊子は、現在8冊目「安倍記」を手掛けている。桑原黙斎には「濱つづら安倍紀行」と 「 安倍記 」があるが、内容は似ているが、 「安倍記」の方が旅紀行として、まとめられているので、そちらを手掛けることにした。 それはさて置き、東海道ウォーク姫街道1日目を続けよう。 ************************************* 今日初めて、メイン道路から外れて、少し進んだ四つ角に『六地蔵』が祀られていた。傍の竹藪はかって刑場であったと言い、刑死者を供養したものだという。そして六地蔵のサインがあった。 浜松宿  11.5km   → 【細江町六地蔵】  →  気賀宿  2.7km 見る人が見れば、その竹藪にはきっと霊がうようよしているのだろうと誰か言う。だから、その部分だけは未だに土地利用されず、竹藪で取り残されているのだろう。 姫街道は道から逸れてさらに細い道になる。その分岐の角に秋葉常夜燈があった。姫街道の道しるべもあったのだが、川さんは一人なら知らずに行き過ぎてしまうところだと語る。 槇囲いの中の道を少し行くと千日堂に至る。ここでゆっくりと休憩する。千日堂は最近建て直されて新しくなっていた。代々気賀関所の管理者だった近藤家の下屋敷にあった観音様を移して祀ったのが始まりだというが、宝永年間に阿弥陀如来を祀って、千日念仏が行われてから千日堂と呼ばれるようになった。椎の古木が何本かあった。臼さんからミカンを頂く。 老ヶ谷の一里塚には気がつかずに過ぎ、姫街道の面影の残る長坂も平行する車道の方を下ってしまった。そして細江の入口の落合橋を渡る。この橋の直前で都田川に井伊谷川が合流する。だからこの橋を落合橋と呼ぶのであろう。江戸時代には渡し舟で渡ったという。 細江の町に入った所で『みそまん』の看板を見つける。細江の名物だと話しながら通り過ぎようとすると、和さんが表にいた奥さんに呼び込まれてしまった。そしてついつい連れ買いをしてしまう。しかし帰宅してから評判良くて、すぐになくなってしまった。天浜線のガードを抜けた角に、姫様道中の大きな絵看板のある小公園があった。そして気賀宿のサインもあった。 浜松宿  14.2km   → 【気賀宿】  →  三ヶ日宿  10.8k...

SY氏の通夜で思う

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  散歩の途中で、オオデマリの花 2026.4.22 夕方、SY氏のお通夜に行く。当地域では、この頃のお葬式はお通夜だけで、 それも 御香典を納め、御焼香して、故人の顔を拝んで来るだけの味気ないものになってしまった。 SY氏、お母さんが亡くなって4か月、追うように逝ってしまった。薬のない奇病で、本人も驚くほどの早逝だったと聞いたが、何なのだろう。今、日本でも増えているというが。故人の顔は思わぬ早逝の悔しさを含んでいるように見えた。いつも温和な表情がなくて、別の人のように見えた。 葬儀場では参会者が、病院に来たみたいに、皆マスクをしている。自分はマスクをしてこなかったけれども、今はマスク着用が常識なのであろうか。葬場にいた女性たちから声を掛けられても、誰だか判らない。「マスクで判らない」というと、マスクを下げてくれて、昔の部下たちだと分かった。毎日顔を見ているならとにかく、もう十年以上も、顔を見たこともなければ、マスクをされると全く分からなくなるものだ。 SY氏の弟さんにお悔やみの挨拶をした。「二人とも時間が取れるようになったので、講座を受講して見ようと話していたんですが」と聞く。確かの何年か前に彼に講座の話をしたことがあった。お世辞にもそう言ってもらって、嬉しいとともに悔しいと思った。 その間20分ほど、そそくさと葬儀場を後にした。これからはどんなに親しくしていた人でも、死んでしまえば、こんなすげない別れとなってしまうのか。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(2)

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一番茶、直前   花粉症が収まり、久しぶりの散歩で 2026.4.21 一昨日、昨日と立て続けに、長野、東北と大きな地震が起きて、改めて、地震列島を感じる日々である。当地は遠方の地震はほとんど感じることがない。もともと大井川の扇状地が、瀬が変わって出来た土地で、おそらく地下は砂利が幾層にも重なっている土地だから、地震が伝わりにくい地域だと思う。来たる東南海大地震でどうなるかは、神のみぞ知るだが、神様も判断を断るに違いない。 東海道ウォーク(姫街道)1日目の続きである。 ************************************* 静大工学部の脇を通り、北へひたすら歩く。左手に航空自衛隊浜松基地を見る辺りの地名を『小豆餅』という。武田軍に追われ敗走する家康がこの地で小豆餅を食べて空腹を癒したという地名の謂われがある。小豆餅本家『あおい』というお菓子屋さんがあった。そろそろ空腹を感じていたため、小豆餅という名前に引かれて立ち寄る。小豆餅は安倍川餅に似たものであった。早速、鈴さんが購入した。 すぐ先に『飛行聯隊前駅跡』の標識があり、臼さんの記憶によると、気賀から鉄道が出ていたが浜松までは通じていなかったと思うという。電車ではなくて蒸気機関車だったようだ。 市野から気賀へ至る道との合流点を三方原追分という。そこにサインがあった。うっかり近くの宿との距離を書き取り忘れたが地図で推量して記入する。 浜松宿  6.5km   → 【浜松市追分】  →  気賀宿  7.7km 側に『権現様跡』の標識がある。『追分の一里塚』が近くにあると思い、角の交番に入り聞いてみたが知らないとの答えだった。(帰ってから調べた所、追分の一里塚は交差点から市野の方へ少し戻った道路端に現存しているとのことであった) この交差点より姫街道の松並木が始まる。残っているのは道路の西側だけだが、これより断続的に約3 .7 キロ続くという。太い松が多い中に、枯れて切られた新しい切り株が何本か見られたのは残念であった。途中の宝くじ売り場で、臼さん、鈴さん、川さんが年末ジャンボ宝くじを買った。聞けば当たる率が大変高いというが? 途中『権七店』という茶店のあった地点に標識がある。この辺りはかっては松並木だけで何もなく、小さな茶店が大変貴重だったのだろうと思う。側に権七...

SY氏の死を新聞訃報欄で知って、ショック!

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庭の白いツツジの花 今の自分の心境を表すか 2026.4.20 今朝、起きがけに夢を見た。 最近よく見る夢に、相棒と故郷の周囲の村々を歩いて、街中へ向かおうとするが、ぐるぐる回るばかりで一向に街へ向かう道が見いだせないという、何ともイラつく夢がある。その相棒は、当地へ来てからの知り合いや友人ばかりである。今朝の夢も、八條だとか三江の名が出てくるが、川向うへ行く道や橋が見つからない。今日の仲間は長年自分の部下として、共に仕事をしてきたSY君であった。 目が覚めて、起きだし、静岡新聞を見た。この頃はついつい訃報闌に目が行くのだが、何とそのSY氏の名前が載っているではないか。嘘だろうと、よく見れば住所も喪主が弟なのも符合する。間違いない。70歳、それは少し早すぎるだろう。夢に出てきたのはSY氏が知らせたのであろうか。 午 前中、二か所から SY氏の 訃報を伝える電話があった。 家もそんなに離れていないから、これから色々附き合おうと、連絡を取っていたのだが、自宅の電話には出ない。携帯番号は知らないから、そのままになっていた。そうしている間に、しばらく前に、お母さんが亡くなったようだと聞いた。かなりの長寿だったと思う。さらにどうやら静岡で弟と同居しているらしいと聞いた。兄弟ともに生涯独り身だったから、兄弟で住むようになったのかと思っていた。 お通夜は22日だという。 午前中、もう一本電話があった。「6月にある高校の同窓会に出席するか」と、明石のⅠ氏からの電話。どうしようかと迷っていた。講座の受講を二つばかりパスしなければならないし、もう、どうしても会いたいと思う人たちも、鬼籍や施設に入ってしまった。 Ⅰ氏は帰りに施設に入っているKY氏を見舞おうと言う。SY氏の訃報にあったばかりで、このチャンスに会って置かなければ、きっと後悔すると思うと、傘寿最後の同窓会も、KY氏の見舞いも大切に思えてきた。前向きに検討しようかと思う。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(1)

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  往時の 犀ヶ崖資料館 (ネットより拝借) 新築なった今の資料館 (ネットより拝借) 2026.4.19 昨日、講座の終わった後、金谷郷土史研究会のN氏と、金谷公民館の新館長に面会してきた。福祉関係を長年勤め、部長まで務めたM女史、どこまでやってくれそうか、とにかく色々とお願いやら、相談にも乗れる話などして、丁度手元に持っていた、「歳代記」と「大地震能記」の解読版を進呈してきた。任期は三年というが、ぜひとも精力的に活躍してもらいたいと思う。色々な面で協力は惜しまないつもりである。 ************************************* 番外、姫街道ウォーク かって、見付宿から浜名湖の北を通り、本坂峠を越えて、御油宿に至る東海道の脇街道は『本坂道』といわれて、今切の難所を避ける街道として、賑わいをみせていた。そして、宝永四年の大地震で、新居の町が大破してからは、東海道を往来する人々のほとんどが本坂道を使うようになった。しかし、災害復旧と客の激減に困窮する新居の人々を見兼ねて、幕府は大名・旗本については、特別なことのない限り本坂道の通行を禁止した。以後本坂道では大きな行列は、宮家・公家・大名の貴婦人の行列に限られ、いつか『姫街道』と呼ばれることになった。 我らは『東海道五十三次ウォーキング(静岡編)』の最後に、番外として、姫街道を歩く。関東編を始める前に姫街道をこなして置かないとスタンプにきりがつかないとの理由で、とにかく姫街道に出発することになった。 姫街道は東からは、見付宿から池田渡しを経て市野・気賀宿へ出る道、天竜川を渡った安間から市野・気賀宿へ出る道、さらに浜松宿から直接気賀宿へ出る道がある。今回はスタンプのある浜松宿から直接気賀宿へ出る道を選ぶ。 細江名物、みそまん・銅鐸・姫様道中 姫街道( 浜松宿 → 気賀宿 ) 日時 平成7年12年16日(土) 快晴 お天気は快晴で少し寒い。川さんは携帯電話を買うとかで、今日はテストのためデモ機を持っての参加となる。 浜松駅から『姫街道』の起点に向かう途中に、東海道ウォークの本編で通った時は気がつかなかったが、浜松宿の川口・杉浦本陣跡を示す立て札があった。さらに、連尺の交差点の側に高札場跡の立て札があり、浜松宿から入る『姫街道』はここを始点にしたという。 街道を北へ行った鹿谷町...

長野県に5強の地震、偶然に‥‥‥

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  静岡城北公園の満開のツツジ 2026.4.18 午前(初心者)、午後(経験者)と、金谷宿大学「古文書に親しむ」講座を実施した。今日は初年度の第一回で、初心者に10名、経験者に8名の参加があって、今年度も講座が順調に進められそうである。経験者のOさんが一人、参加されるとの話だったが、本日欠席された。気になるので明日でも電話してみようと思う。 今年度は、自分が開講している金谷宿大学2講座とまきのはら塾の講座で、同じ「喜三太さんの記録」全部で140ページを、手分けして読んで行こうと思う。およそ30年にわたる 「喜三太さんの記録」を、最初10年を金谷の初心者講座で、次の10年を金谷の経験者講座で、最後の10年をまきのはら塾の講座で読むつもりで始めた。 難易度は、金谷初心者講座、まきのはら講座、金谷経験者講座の順で難しくなると思う。まあ、読んでみなければわからないが。 午後、金谷宿大学、経験者コースで解読を進めて、「信州善行寺大地震」という表題の「記録」に取り掛かった時、受講者のHさんが「長野の北部で地震が発生した」という。「えゝ、今からその記録を読みます」と答えると、「そうではなくて、今スマホに‥‥」と、何と、なんというタイミングだろう。同じ長野で今、震度5強の地震が発生したとスマホに出たというのである。さらに、そのあと、震度5弱の地震もあった。 古文書の 「信州善行寺大地震」は弘化五年(1848年)の話である。信州の善行寺で御開帳があって、多くの参拝客が参詣に集まっている最中に大地震があり、多くの家がつぶれ、火事がおきて焼失した。参拝客の多くが家の下敷きになったり、火事に巻き込まれたりして亡くなり、その骨を集めて塚を立てて葬ったという。この近辺からもグループで出かけて、地震の情報に途中で引返してきたり、死人が出たりした。藤枝から出かけた20人のグループは一人を除いて全員亡くなったというような話が記されていた。 これは200年以上昔の話で、現代ではそのような事態にはならないと思うが、この偶然をどう説明すればよいのだろう。そら恐ろしい気分である。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(35)

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  静岡城北公園のヒトツバタゴ花盛り 2026.4.17 午後、駿河古文書会で静岡へ行く。城北公園はなんじゃもんじゃ( ヒトツバタゴ )の白い花が真っ盛りであった。 東海道ウォーク11日目の続きを載せる。今日で東海道二十二宿のうぉーくを終える。続いて姫街道を歩くことになる。 ************************************* 町に入るとすぐ 曲尺手( かねんて) の標識があった。ここでは道がクランク型にずれて通りを見通すことが出来なくなっている。大名行列が往来していた当時、行列がかち合うと、位の低い大名が駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。そこで、行列は曲尺手の手前で止まり、斥候を出して、かち合いそうならばお寺などに一時避難し、かち合う事態を避けたという。 東海道スタンプ「潮見坂」 和さんがめざとく谷中たばこ店を見つけて『東海道』スタンプ『白須賀宿』を押す。たばこ店で食堂を尋ねたところ、国道へ出た所にあるという。国道へ逸れる四つ角に問屋場跡のサインがあった。        新居宿  6.3km   → 【問屋場跡】  →  二川宿  5.9 km 国道端の吾妻屋食堂に入り、エビフライ定食を食べる。北西風が強まり、入口の隙間が笛のように鳴る。 町中の旧東海道に戻った所に『夏目甕麿邸址』の石標があった。 夏目甕麿( なつめみかまろ) は本居宣長の門人の国学者である。 大きな鬼瓦を置いた屋根が不相応に立派過ぎて、重さのために軒の左右を鉄柱に支えられた庚申堂があった。前庭には『見ざる聞かざる言わざる』の三匹の猿の像が設置されていた。 人家が尽きる手前に境宿のサインがあった。これより先、愛知県にはこのような道しるべはないから、東海道の最西端のサインである。         白須賀宿  0.2km   → 【境宿】  →  二川宿  5.2km 人家が尽きて渡った小さな川が、現在も県境の境川である。これで長い静岡県を縦断し終えた。しかし姫街道も残しており、まだ途中では喜びも湧かず、県境の道路標識を背景に、記念写真を撮って先へ進む。 道は広い国道一号線、遮るものもないキャベツ畑を、激しい向かい風に、木枯らし紋次郎のように、顔の前で帽子を摘んで歩く。それでも身体さら吹き飛ばされそうで、大...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(34)

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潮見坂から遠江 保永堂版東海道五十三次「白須賀」 2026.4.16 朝から土曜日の金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座の準備。年度初めで色々な書類造りに手間取る。 昨日に続いて、東海道ウォーク11日目の続きを載せる。 ************************************* 国道一号線に出た所に橋本のサインがあった。 新居宿  0.1km   → 【新居宿 橋本】  →  白須賀宿  3.5km 十五世紀の末の大地震で、浜名湖南側の湖岸が切れて、今切口が出来るまでは、舞坂まで陸続きであった。この橋本に宿があり、街道は真っ直ぐに、舞坂へ歩いて行けたという。旧街道はすぐに国道一号線から別れて、『浜名旧街道』に入る。この道には南側に松並木が残っていたが、松食虫にやられてしまい、新居町の手で松の若木が植えられた。今ではその松もかなり大きく立派になっている。他の市町村もこれに習い、枯れた松の補植を是非お願いしたいものである。きっとすぐに美しい松並木が回復すると思う。 紅葉寺跡のサインがあり、北へ少し入ると階段の上に樹木だけ残った敷地が見えた。「源頼朝が立ち寄った際、地元の名主の娘と・・・・・・その娘が建てた云々」の説明板に鈴さん曰く「昔の武将はやりたい放題だったのだろう」そう言ってしまえば夢もロマンもない。 新居宿  0.9km   → 【紅葉寺跡】  →  白須賀宿  2.8km 松並木の中に歌碑が一基あった。続古今和歌集に収録された二首の歌が刻まれていた。 風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟   為家 わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで   阿佛尼 太い槙の木が並んだ道畔に、大倉戸の立場跡の標識があった。休み処として、客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった。 『明治天皇御野立所阯』の石碑の前で休憩をとる。臼さんから蜜柑が廻って来る。この辺りより空腹がつのり、食堂を求めながら歩く。 火鎮神社前に白須賀宿のサインがあった。かってはここが白須賀宿であったが、津波で壊滅して、少し先の潮見坂を登った高台に宿場を移したのだという。 新居宿  2.9km   → 【白須賀宿(火鎮神社)】  →  二川宿  9.3km 通り掛かりの店で...

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(33)

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新居関所 2026.4.15 午後、金谷郷土史研究会の総会へ出席する。10人ほどの出席で、このところにぎやかになった。女性も二人見える。総会後、朝鮮通信使のビデオを見る。 先日、高校の同窓会から、傘寿同窓会と銘打った最後の同窓会の案内が来た。親しい友人たちの多くが 施設 や 鬼籍 に入ってしまって、同窓会もそれほど食指が動かない。同窓生より今の受講生の方が大切で、同窓会当日の6月15日前後はイベントで埋まっている。故郷は遠くて何日か費やすことになるが、それは無理かもしれない。 そんなことを考えていると、朝寝坊している所へ同窓会主催者から電話が来た。お遍路の本を同窓会に提供してもらえないかとの話。もう、残部がないからと断った。講座の受講生に配ってきたのだが、残部がなくなり、今年からは進呈を辞めたところであった。 東海道ウォーク11日目の続きを載せる。 ************************************* 旧東海道は渡船場より船の旅となる。この航路は棒杭を打ち蛇籠を積んで船道が造られていたため、安全にのんびりと船旅が出来たという。船道は砂で埋まって来ると時々 浚渫 され、側の小島に砂を積み上げたのが弁天島の基になったという。橋を渡って弁天島駅に立ち寄り、強くなった風を避けて一休みした。駅スタンプも貰う。 中浜名橋、新弁天、西浜名橋と通って、新居の町に入った。橋には釣をする人が多く見られた。新居町駅にも立ち寄り、駅スタンプを得る。休憩のついでに、自分だけ立ち食いうどんを食べた。後でこの一杯が物を言う。新居町駅を出た所に、山頭火の句がありメモをする。       水のまんなかの道がまっすぐ  山頭火 (浜名街道にて) この地を鷲掴みにしたような短い言葉に、さすがに山頭火だと思う。 新居関所の入場券の販売窓口の隣で、『東海道』スタンプ『新居宿』を打つ。窓口の人が入場券を売るべく構えるのを感じたが、何度か見学しているので止める。川さんだけが入って一回りしてすぐに出て来た。 東海道スタンプ「新居関所」 市街に入り、突き当たった所に本陣が三軒あった。西から弥五助本陣、突き当たりが武兵衛本陣、南隣が八郎兵衛本陣である。新居宿のサインがあった。 舞坂宿  5.3km   → 【新居宿】  →  白須賀宿  4.5km 八郎兵衛本陣の南隣...

「ガーベラ、愛の鐘」ホース先生の思い出

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  ガーベラの鉢 (ネットより拝借) こんな鉢になるはずだった 2026.4.14 静岡県はガーベラの花の生産が日本一だという。 昼のニュースで、その生産者が知事を訪問して、ガーベラの花束を贈呈する様子が映っていた。知事が赤いガーベラを胸に差して、笑顔でインタビューに答えていた。 ガーベラで思い出すのは、 「ガーベラ、愛の鐘」 というフレーズである。今から60数年前、中学校時代の話である。ふるさとの中学校に、職業家庭という教科があって、家事の授業のある女子と別になって、男子はガーベラを育てる授業があった。校舎の間の庭の出て、植木鉢に各自ガーベラを植えて、花が咲くまで育てるという授業であった。 先生は顔の長い馬面の田舎のおっさんという感じで、生徒たちは「ホース」とあだ名で呼んでいた。当時はクラスの半分、 男子生徒ばかりでも 20数人は居た。教室の授業ではなく野外なので、 先生の話など上の空である。  ホース先生は隣の者としゃべっている二人を捕まえると、二人の頭を掴み、ゴツンとぶつける懲罰を頻繁に行った。これを先生の言葉から「愛の鐘」と呼んだ。 一人ではなく必ず二人を捕まえて、ゴツン。これは先生の手は痛まない御仕置であった。生徒たちも、一人で叱られるのではなくて二人だから、気持ちは深刻にならない。 現代なら許されないのかもしれないが、当時はそんな懲罰は普通で、先生もこぶに残らない程度を弁えていたし、受ける生徒も心得ていた。自分も一度「愛の鐘」を受けたことがある。瞬間痛いがそれだけであった。 たしか相手があったはずだが、記憶にはない。 それで、ガーベラはどうなったのか。夏休みにはみんな自宅へ持ち帰ったが、自分のガーベラは葉が伸びるだけで、結局花が咲かずに枯れてしまった。おそらく、真面目に世話をしなかったからであろう。後年になって、ガーベラの花を見て、こんな花だったのかと、改めて思った。同時に 「ガーベラ、愛の鐘」 というフレーズと、ホース先生の馬面を思い出した。

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(32)

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史跡見付石垣   2026.4.13 朝から金曜日の駿河古文書会の予習をする。課題がBに10ページもある。いつもの倍の量だ。一通り読むに、一日では終わらず明日もう一日かかる。担当は大変だ。 東海道ウォークも11日目、最終日である。 ************************************* 「地獄に仏」空腹の潮見坂を一本のバナナで登る 舞坂宿 → 新居宿 → 白須賀宿 → 二川宿 日時 平成7年11年11日(土) 快晴のち一時曇り午後晴れ、空っ風強し 「東海道五十三次ウォーク(静岡編)」も今回が最後となった。番外として姫街道を残すから、本当の最後ではないが、今年の正月箱根の関所をスタートして、随分遠くまで来たものだ。今日は東海道のもう一つの関所、新居の関所を通って、愛知県との県境を抜け、出来れば二川駅まで足を延ばしたい。 昨日和さんより今朝の天候を心配する電話があったが、天候については全く心配していなかった。案の定、雨を降らせた低気圧は去って快晴となり、逆に空っ風が心配になった。 舞坂駅から南へ歩き、松並木まで戻る。舞坂東海道松並木は700メートルの間に300本の松が、道の両側に並んで残っている。松並木としては、三島の初音ヶ原の松並木に並ぶ立派なものである。所々に『子の刻』から始まる昔の時刻表示が刻まれた、十二支を型取った石碑が、設置されていた。 宿場の東入口の道の両側に、『史跡見付石垣』が残っている。石垣に使用されている薄い黄土色の岩は、浜名湖で良く見る岩である。通りがかりの小父さんが、弁天島の住人だが歩け歩け運動で歩いている、と言って追い越して行った。 少し行くと舞坂一里塚の石碑と新町常夜燈が並んでいた。ここの常夜燈の三面には秋葉大権現・津島 牛頭 ( ごず ) 天王・両皇太神宮と刻まれていた。さらに先に同じ形式の仲町常夜燈があった。 模様の美しい石に刻まれた『本陣跡』の標識の後、渡船場手前の角に、西町常夜燈があった。側には舞坂宿のサインもあった。         浜松宿 11.7km   → 【舞坂宿】 →  新居宿 5km 渡船場のことを 雁木 がんげ という。南から庶民用の南雁木・武家用の中雁木・諸侯用の北雁木と並んでいた。雁木は石垣で固められていたが、北雁木に当時の石垣の一部が残っている。 道路に戻ると小公園に『...

【活動の記録】と【読了図書】3月16日~4月12日

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古文書解読冊子「薦被り騒動」 2026.4.1 2 七冊目の古文書解読冊子「薦被り騒動(五和の百姓一揆)」完成した。おそらく、恵まれた五和の地区に百姓一揆があったことは地元の人でも知らないのではなかろうか。ぜひ地元の人たちには読ませたいものである。 「古文書に親しむ(経験者)」で教材として使ったものである。   夜、掛川のあっくんたち来る。あっくんへ 高校入学祝いを渡す。あっくん、身長170センチに達し、自分と並ぶ。早晩、追い越されるだろう。   *******************************************************    【活動の記録】 3月18日   午後、金谷郷土史研究会。 3月20日   午後、駿河古文書会。 3月21日   午前、 金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。         午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。 3月27日   午後、駿河古文書会、発表当番。  4月3日        午後、 駿河古文書会総会。   4月4日   午後、 金谷郷土史研、「竹下村誌稿」講座打ち合わせ。   4月7日   午後、駿河古文書会基礎コース講師(初)。   4月8日   午後、 「古文書解読を楽しむ」 講座講師。新年度、受講生12名。 4月11日        午後、 「 静岡の考古学と歴史」講座受講。新年度、初回。 4月12日   朝、近所川浚い。        古文書解読冊子7「薦被り騒動(五和の百姓一揆)」完成。     【読了図書】 読書:「 職分 萩尾警部補シリーズ」  今野敏  著 読書:「塩の道 おれは一万石」 千野隆司 著 読書:「紫の夢 おれは一万石」 千野隆司 著 読書:「麦の滴 おれは一万石」 千野隆司 著 読書:「無節の欅 おれは一万石」 千野隆司 著 読書:「一揆の声 おれは一万石」 千野隆司 著 読書:「定信の触 おれは一万石」 千野隆司 著

自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(31)

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舞阪の松並木   2026.4.11 午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席する。 今年度、最初の講座で、今年より講座の名前が「 静岡の考古学と歴史 」に変更された。 東海道ウォーク10日目を続けよう。 ************************************* アクトシティを南に見て通りすぎ、浜松の繁華街に入る。立派な店構えのお祭り用品の専門店などがあって、祭り好きの浜松らしい。浜松だから鰻を食べたいとのリクエストに応えるべく鰻屋を探す。通りには意外となくて、横町に逸れてやっと見つけたところ満員。さらに探して入ったのは『神谷』という鰻も扱うフグ屋だった。 店に入ると先客も居らず、気味が悪いくらい愛想が良い。正直言って鰻は余り美味くなかった。口の悪い鈴さんはレンジで温めたのではないかといった。元々ふぐ屋だから鰻は不得意なのかもしれない。東海道を歩いているというと、茹でシラスをひとつまみサービスしてくれた。これは美味かった。お茶が間に合わなかったとさらにひとつまみ。帰りに胡麻入りの飴玉までくれた。鰻は不味くても、ここまでされるとまた来なければと思うのは人情だ。元の道に戻り連尺町の角に浜松宿のサインがあった。 豊田町  7.9km   → 【浜松宿】  →  舞坂宿  11.7km 東海道線と新幹線のガード南に抜けて、小さな川に掛かった橋『鎧橋』に至る。いつの頃か、比叡山の僧兵が攻めて来た折り、浜松の鴨江寺の僧が辺りの田に水を張り通れなくして、墨染めの衣の上に鎧を着て、この橋に詰めて守ったという。比叡山の僧兵が浜松まで何故と思うが、詳しくはまた調べてみたい。 街道の南側に薬師堂、北側に阿弥陀堂と、小さなお堂が街道を隔てて二つ、向かい合って建っている。平安時代の末期、京に上った藤原 秀衡 ひでひら が病気になったとの報せに、夫人が京へ急いだ。ところがこの地で亡くなったとの報せに接し落胆して、秀衡の菩提を弔うために薬師堂を建てた。そのうち夫人も病で死んでしまった。数日後、元気な秀衡が帰郷の途中この地に至り、夫人が亡くなったことを知った。秀衡は夫人のために、対面するように阿弥陀堂を建てたのだという。『二つ御堂』に夫婦の愛の物語を感じる前に、昔の通信手段の不備、不正確な情報伝達などを感じてしまうのは、企業人の性であろうか。 ...