みんくる歴史講演会と防空監視哨
2026.1. 25
午後、「みんくる歴史講演会」に行った。演題は「『大井海軍航空隊空襲の記録』を読む」で、講師は北原勤先生である。北原先生は、掛川図書館主催の古文書講座をされており、自分は20年近くもその講座を受講している。おそらく、もっとも長い受講者の一人だと思う。
ある時、公民館の館長さんに、戦中・戦後の歴史の講演会を企画したいのだが、話を聞きたい、戦中戦後の方々が皆んな年齢を重ねて、講演に応じて貰えなくなっている。だれか、良い人はいないかと聞かれて、北原先生の名を挙げたことがあった。その後、北原先生に引き受けて貰えたと聞いた。
話は、戦後、戦争関連の多くの書類が廃棄された中で、藤枝の防空監視哨の記録を、自宅に残していた方がいて、提供された記録には、終戦直前までのこの地区の米軍の空襲の様子が、監視哨から見聞きしたままに、細かい時間まで記載されていて、牧ノ原大井航空隊の空襲の有様も肉眼で観察されている。そんな記録を読みながら、島田や牧之原の空襲の実態に迫ろうとする講演であった。
当地へ来て60年経つけれども、当地での戦争体験もない自分には、それほどの興味を引かれるものではなかったけれども、情報がほとんどなく、空襲の実態を知ることが出来ない地元の皆さんには、大いに興味を引かれる内容だったのではなかろうか。
自分が、唯一、気になった情報は、米軍の空襲に備えて、全国の町々に「防空監視哨」という米軍機の見張り場が設けられ、在郷軍人が中心になって、警察や消防などと協力し、米軍機の動きを即座に、各防空監視哨で情報を交換し、空襲警報などの警報を出したという話であった。
自分の親父は、三度軍隊に招集されたと聞く。一回目は中国戦線に行き、二度目は鳥取教育隊の軍曹になり、三度目は在郷軍人として地元で勤めたとは聞いていた。しかし、詳しい話はしたがらず、自分も早くに故郷を出てしまったので、聞く機会もなかったが、思うに三回目の在郷軍人としての勤めは、「防空監視哨」だったかもしれないと思った。
お袋が、空襲警報の出る度に、兄たち二人を連れて、防空壕へ避難したと話していた。田舎で、爆撃を受けることはほとんどなかったが、舞鶴などへの通り道だったためであろう。空襲警報は度々あった。父親のいる家では慣れてしまって、一々防空壕に行かなかったが、我が家はいつも父親不在で、空襲警報が出たら、必ず防空壕へ行くように指示されていたのだろう。
この「防空監視哨」という組織が、全国に出来たという話は、今回の講演会で得た、自分にとって重要な情報になったようだ 。
コメント
コメントを投稿