自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(2)
2026.2.21
本日は金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座を実施した。受講者で身体を壊す人がちらほらある。年齢が仕事を終えたあたりの人が多いから、やむをえないとはいうものの、ぜひお身体には留意していただき、長くお付き合い願いたい。
受講者の皆さんに、「面白古文書12月」の令和7年版を配った。これで5冊目(5年目)となる。毎月の講座の冒頭に、短い様々な古文書を読んできて、その総数が60になる。どこまで続けられるかわからないが、今後も続けようと思う。
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東海道ウォーク一日目、一行は箱根から三島宿へ下っている。
茨ヶ平の、東方の山並を見晴らせる位置に、箱根八里記念碑「茨ヶ平」が建てられ、次の文字が刻まれていた。
北斗闌干 井上靖(「闌干」は月や星が光輝くさまを示す)
「箱根八里」を後世まで残すために、道中八ヶ所に著名な文学者に依頼して建てられた文学碑の一つである。神奈川県側に四ヶ所、静岡県側に四ヶ所設置されているという。
火山灰地の上に箱根竹が繁茂して道を狭めている旧街道を下ると、一度車道へ出てまた旧街道に入り、すぐに車道に出る。車道に出る手前に「接待茶屋跡」があった。柵で囲われた接待茶屋跡には一面の碑と二人の胸像があった。その胸像に「鈴木利喜三郎」という名を見つけた。鈴さんとは一字違いの名前である。さらに車道を渡った箱根旧街道の入口には、灌木に囲まれて「接待茶屋」の共通サインがあった。近くに「山中新田の一里塚」があったはずだが、気が付かずに通り過ぎてしまった。
頼朝が兜を置いたとも、秀吉が兜を置いたとも言われている「甲石」は、大きなおむすび型の石が旧街道脇にある。もう少し上にあったものを、道路改修時にじゃまになってここへ移したものだという。街道筋の大石が多くの人に見られる内に、様々な伝説が出来ていく様子が知れて面白い。甲石から少し下った所に「明治天皇御小休跡碑」の石柱があった。
これも道中には珍しい巨石「念仏岩」があり、下部に窪みがあって伝説を生みそうな岩であった。旧街道は所々に石畳を残しながら「大枯木坂」に掛かった。この辺りでは現在石畳を発掘中で、何メートル置きかで四角く石畳が出る所まで掘られていた。おかげで道は縄張りされて、それらの穴を縫うように蛇行している。石畳までの深さは五〇センチから一.五メートルぐらいまであって、焦げ茶色の火山灰で覆われている。これは富士の宝永山噴火の堆積物なのであろう。
車道に出る直前に、徳利を彫り出した「雲助徳利の墓」があった。酒好きの雲助の墓だという。車道から少し登った所に駒形諏訪神社があり、その背後に「山中城趾」が広がっていた。神社には「静岡県の巨木」に入る「大カシ」があった。しっかり触って命の元を戴く。山中城趾は、北条氏が作った石垣を築かない山城としては最後期のもので、豊臣秀吉の小田原攻めに際して増設強化されたが、半日で落城してしまったという。今は多くの空堀と廓跡が発掘され、芝が植わったかなり広い公園になっている。「矢立の杉」と名付けられた杉の巨木も見たが、これは「静岡県の巨木」には入っていない。
駐車場に戻ってトイレ休憩の後、車道を渡ると山中城趾の続きがあり、それに沿って最近造られた観光用の石畳があった。その道端に箱根八里記念碑「山中城趾」の文学碑があった。
司馬遼太郎
(今日は山中城跡までとし、続きは後日)
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