自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(8)
東海道ウォークも三日目である。
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富士山三昧、仕上げは富士川赤富士
原宿 → 吉原宿 → 岩淵宿(間宿)
日時 平成7年1月29日(日) 快晴
東海道ウォーキングの第二回を終えた次の日の早朝、淡路島を震源地とした直下型の大地震が発生した。その後、日本をひっくり返すような大騒ぎとなった阪神大震災の幕開きであった。神戸や西宮ではどんな地震にも壊れないと言われていた高速道路が、新幹線が、ビルが次々と脆くも潰れてしまった。百数十ヶ所から火が出て、倒壊した家屋が次々と燃えていった。道路が寸断されて消防車は火災現場まで行けず、やっと到着しても消火栓が潰れて放水出来ず、燃えるまま見ているしかなかった。
地震とその後に起こった火災による犠牲者は5000人を越えた。倒壊したビルや家屋や、一面の焼け野原は戦災の跡を思わせた。日本の西と東を結ぶ大動脈の全てがズタズタに切断されてしまった。その日から人々は二本の足で歩くことを始めた。買い出しに行く人、被災した知人を避難所に見舞う人、五時間も六時間もかけてひたすら歩く人の列が蟻の、行列のように続いた。皮肉にも酔狂な我々のようなウォーキング族が、毎日テレビに映っていた。
こんな時に非生産的なウォーキングで申し訳なくもあるが、気分の乗った時に行ける所まで行こうと出かけた。今朝は寒いと思い、ジャンバーに背当てを着けてきた。随分温かい。富士山は愛鷹山の西側に移っていた。
原駅から少し北へ歩いて旧東海道へ戻る。高嶋酒造前に富士の霊水が出ていて自由に飲むことが出来た。酒造りに使っているだけあり、何やら旨い気がする。因みに高嶋酒造の銘柄は『白隠正宗』という。
原の一里塚は『一里山』という店の屋号に唯一残っていると書かれていたが見つからなかった。海岸にあるという『要石』にも何の標識もなく、『原宿以西の松並木』も見当たらず、ひたすら真っ直ぐの道の狭い歩道を歩く。和さんは甍が何重にも重なる大きな住宅に感嘆の声を上げる。とにかく立派な家が多い。『桃里』という集落がある。かつてはこの地を開墾した鈴木助平衛さんにちなんで『助平衛新田』と呼んでいたが、淫らな名前ゆえに明治になって地名を変えたのだという。神社前に単体丸彫の道祖神が祀られている。素朴な彫りの石像であった。長い直線路も終わり、東海道線の踏切を越えて富士市に入った。
最近少し勘が狂ってきたか、との和さんの冷やかしの声を背に、地図で見当をつけて人家の間の細道を入る。線路の前に小さな鳥居があり、東海道線の向こうに小さな古墳が見えた。勘がぴたりと当たって鼻が高い。『山ノ神古墳』は1300年前の豪族の墓で、一部を東海道線に削られているという。踏切もない線路を恐る恐る越えて小さな祠に参拝する。電車の来ないのを良く確認して、和さんと臼さんが交代で線路へ出て記念写真を撮った。
東田子の浦駅の近くに、日蓮宗のお寺があって、『望嶽碑』があった。これは柏原尋常小学校跡の碑で、高木産業の社長高木一三氏が建立したものである。望嶽碑の隣には赤く塗られた錨と記念碑があった。昭和54年10月19日の台風20号によって、近くの海岸に打ち上げられた船、ゲラデック号の遭難碑である。乗組員がニ人亡くなっている。船を解体するまでの約六ヶ月の間に、屋台店が出るほど沢山の見物客で賑わった話は記憶にある。確か和さんが写真を撮ってきたのを、見せて貰ったような気がする。
(明日へ続く)
遭難した船は「グラデック号で、亡くなったのは一人」と記録していたが、今、改めて遭難碑をネットで見直すと、船名はゲラデック号が正しく、遭難して亡くなった船員は二人だという。今回直した。
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