自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(9)

名勝左富士

2026.3.2

今夜は、浜名湖湖畔の宿で、女房と旨い料理を食している予定なので、ブログは前夜用意して、時間指定しておいたので、あしからず。

東海道ウォーク三日目の続きである。

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昭和放水路を渡った松林の中に、増田平四郎翁とスイホシの記念碑があり、翁の像が建てられていた。この辺り一帯は駿河湾から押し寄せて来る砂に阻まれて、排出されない水が浮島沼に代表される湿地帯を形成していた。翁は明治二年、排水路を造って大干拓(スイホシ)に成功した。しかし、その後排水路は津波で埋もれてしまった。昭和放水路はその排水路とほぼ同じ位置に造られている。今でも放置すれば埋まってしまうのであろう、以前『海岸歩き』の時も放水路は工事中だった。

『沼田新田の一里塚』は見当たらず、少し先の道端に自然石の道しるべを見つけた。『春耕道しるべ 第一号』と木柱が立っていた。石の表面に薄く文字が彫られ、富士山や旅人の姿などが彫りつけてあった。仁藤春耕という人が建てたものらしい。

旧東海道にはもう一人、排水のために一生をかけた男がいる。高橋勇吉翁は、水はけが悪いうえに、海から塩水が逆流して度々作物を枯らすのに心を痛めて、その排水工事を手掛け、嘉永三年、ようやく『天文堀』として完成した。しかし今ではその堀も残っておらず、ただ街道沿いに功績を記した碑が一面残っているだけである。

『吉原の毘沙門様』から富士山

『吉原の毘沙門様』で有名な香具山妙法寺は大祭が二月四日~六日にあり、ダルマ市で賑わう。往路の電車で吉原駅にすでに毘沙門天の大祭の看板がホームの柱毎に取りつけてあった。妙法寺は中国風の極彩色の香炉場や丸い帽子を被ったような建物があり、一風変わった寺院である。鈴さんが代表で上がって御朱印を頂いてくれた。大祭前で忙しいらしく、初めは朱印だけだと言っていたが、結局筆で書いて頂いた。本堂側から富士山を入れた写真を撮るのに、向かいの大昭和製紙の高い塔が入って邪魔になった。境内では大祭に備えて古いダルマの納所の準備が進んでいた。

声高に昼食の場所に付いて話して歩いていたところ、道行く人が駅まで行けばあると教えてくれた。吉原駅の駅前食堂の『松新』で、ラーメンに小焼飯のAセットを頼む。デザートまで付いていて、かつ丼を頼んだ和さんと臼さんに、鈴さんが、このデザートで(体力の)差が付く、と強調した。

東海道スタンプ「名勝左富士」

下りの東海道で唯一左側に富士山が見える場所がある。海沿いにあった古い東海道が何度か津波にあって、吉原宿はその度に北へ移動した。そのため東海道は北へ大きく迂回して、富士山が左側に見える街道が出来たのである。広重はこの左富士を吉原宿として描いた。社殿が改修された、その名も『左富士神社』に入ると、境内を掃除していた老婆が話しかけ、左富士の説明をしてくれる。臼さんが話を聞いてくれる間に、我々は参拝を済ませた。その老婆は東海道スタンプ『吉原宿』を預かっている影島酒店の人で、スタンプを借りながらまたひとくさり。往時の面影が全く残っていないけれども、こんなにしてしまったのは皆んな役所が悪いと主張する。なるほど名勝と言いながら、無粋な工場が建ち並んで、富士山すらも見え辛くなっている。

 信号を越えた所に松の木が一本だけ残り、『名勝左富士』の看板とサインがあった。松の木もそのままでは倒れるのであろう、支柱に支えられて漸く立っていると言った風情であった。それでも富士山をバックにいれて松の木を写真に収めた。

原宿 9km 【富士市吉原 吉原宿】 → 富士川町 7km

 和田川の橋の袂に『平家越の碑』があった。古い碑を最近、小公園に移して整備したものらしい。碑と共に『東海道』の石標が二つあった。平家越の碑は、源平が富士川を間に対峙した折り、源氏の武者振りに怖じ気づいた平家が、水鳥の羽音を源氏の軍勢の襲来と思い込み逃げ出したという逸話で知られた富士川合戦の碑である。
 吉原の街にはここが東海道の宿場だったことを示すものは標識一つないため、曲がるべき道を行き過ぎてしまい、ワンブロック引き返す羽目になった。並んで建つお寺と神社を見つけて、やっと地図上の東海道に戻れた。富士市役所の通りから潤井川に、斜めに向かう旧道を行く。途中『道祖神』という文字だけの道祖神があった。さらに潤井川を越えて少し歩くと、人家のブロック塀を引っ込めた空間に顔が大きい素朴な道祖神、『蓼原の道祖神』があった。

(三日目さらに続く)


 

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