自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(23)
来年度の三講座のテキストは、「喜三太さんの記録」を3分割して行うことに決めて、その古文書の解読作業を少しずつ始めた。字は少し癖があるが、読みやすい方だろう。全体で140ページ、読みでのある古文書である。
東海道ウォークも金谷までやってきて、いよいよ後半八日目で、金谷より西へ向かう。
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掛川城は市民全員を観光ボランティアにした?
金谷宿 → 日坂宿 → 掛川宿
日時7年9月30日(土) くもり
前回の東海道から二ヶ月半経った。この夏は大変な猛暑で、とても平地を歩く気分にはなれなかった。九月になっても予定がお互いにつかず、とうとう九月最後の日になってしまった。何とか今年中に静岡県の部分を終えたいというのが目標である。
集合は金谷駅であったが、今日は電車には乗らず、ここから歩き始める。曇り空だが何とか一日持ちそうである。駅から下って、金谷宿の一里塚跡のサインで前回に繋ぐ。この一里塚は鉄道建設で潰されてしまった。それまでは榎が植わっていたという。
島田宿 3.7km →【金谷宿 一里塚跡】 → 日坂宿 6.2km
石畳茶屋は十時からしか開かないという。本日は見えなかったが、茶屋の裏には富士山が眺望出来る展望所があった。茶屋で石畳のスタンプをつく。
石畳茶屋のすぐ上に庚申堂がある。側にはすでに文字も判読出来ないほど古い『鶏頭塚』が立てられている。芭蕉の弟子と言われる六々庵巴静の句碑である。
あけぼのも 夕ぐれもなし 鶏頭華 六々庵巴静
金谷坂(石畳)は臼さんの散歩道で、何度も歩いているという。石畳も苔がつき始めた部分もあって、出来たときからすると随分『らしく』なったと思う。中間あたりに六角堂地蔵尊があった。六角堂は扉の鍵が壊れていて、中が開帳出来た。双身のお地蔵さんで道祖神のように見えた。金谷の人が彫った拙さの残るお地蔵さんであった。金谷坂を登りきると、車道脇に芭蕉句碑と明治天皇駐輦(ちゅうれん)跡の碑がある。芭蕉の句碑は『野ざらし紀行』で詠まれた次の句である。
馬に寝て 残夢月遠し 茶の烟 芭蕉
菊坂を下る。下り初めの数十メートルだけ、農道を新たに付け替えて、平成の道普請により石畳が再現されていた。
菊川町への道を分ける三叉路、ここを菊川の辻という。この角に古い石の道標があった。字は良く判読出来ないが案内書によると、遠江三十三ヶ所観音巡りの道標だという。
金谷町菊川は金谷宿と日坂宿の間の『間の宿』として、かっては旅籠などもあったという。但し宿泊施設やしっかりした食事を出す施設は許されていなかった。だから名物は『菜飯田楽』、いわば江戸時代のファーストフードである。菊川の里のサインがあった。
金谷宿 2.0km →【菊川の里】 → 日坂宿 4.0km
菊川神社の入口に二つの碑が並んでいた。
『中納言宗行卿詩碑』
昔南陽縣菊水 汲下流而延齡/今東海道菊河 宿面岸而失命
承久の変の首謀者として捕らえられた藤原中納言宗行卿は、鎌倉に移送の途中、自分の運命を予期して、この菊川の宿の柱にこの漢詩を書き残した。そして途中の沼津の黄瀬川で処刑されてしまった。後に宗行卿はこの地に葬られ、国一バイパス横に宗行卿の塚として残っている。
『日野俊基歌碑』
いにしえも かゝるためしを 菊川の おなじ流れに 身をやしづめん
時代は下って、正中の変の首謀者とされた日野俊基が、やはり鎌倉へ護送の途中、菊川の宿にさしかかったとき、先人と同じ運命の自分を案じてこの歌を残している。
(東海道ウォーク八日目、つづく)
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