自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(31)
午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席する。今年度、最初の講座で、今年より講座の名前が「静岡の考古学と歴史」に変更された。
東海道ウォーク10日目を続けよう。
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アクトシティを南に見て通りすぎ、浜松の繁華街に入る。立派な店構えのお祭り用品の専門店などがあって、祭り好きの浜松らしい。浜松だから鰻を食べたいとのリクエストに応えるべく鰻屋を探す。通りには意外となくて、横町に逸れてやっと見つけたところ満員。さらに探して入ったのは『神谷』という鰻も扱うフグ屋だった。
店に入ると先客も居らず、気味が悪いくらい愛想が良い。正直言って鰻は余り美味くなかった。口の悪い鈴さんはレンジで温めたのではないかといった。元々ふぐ屋だから鰻は不得意なのかもしれない。東海道を歩いているというと、茹でシラスをひとつまみサービスしてくれた。これは美味かった。お茶が間に合わなかったとさらにひとつまみ。帰りに胡麻入りの飴玉までくれた。鰻は不味くても、ここまでされるとまた来なければと思うのは人情だ。元の道に戻り連尺町の角に浜松宿のサインがあった。
豊田町 7.9km →【浜松宿】 → 舞坂宿 11.7km
東海道線と新幹線のガード南に抜けて、小さな川に掛かった橋『鎧橋』に至る。いつの頃か、比叡山の僧兵が攻めて来た折り、浜松の鴨江寺の僧が辺りの田に水を張り通れなくして、墨染めの衣の上に鎧を着て、この橋に詰めて守ったという。比叡山の僧兵が浜松まで何故と思うが、詳しくはまた調べてみたい。
街道の南側に薬師堂、北側に阿弥陀堂と、小さなお堂が街道を隔てて二つ、向かい合って建っている。平安時代の末期、京に上った藤原秀衡が病気になったとの報せに、夫人が京へ急いだ。ところがこの地で亡くなったとの報せに接し落胆して、秀衡の菩提を弔うために薬師堂を建てた。そのうち夫人も病で死んでしまった。数日後、元気な秀衡が帰郷の途中この地に至り、夫人が亡くなったことを知った。秀衡は夫人のために、対面するように阿弥陀堂を建てたのだという。『二つ御堂』に夫婦の愛の物語を感じる前に、昔の通信手段の不備、不正確な情報伝達などを感じてしまうのは、企業人の性であろうか。
高塚駅の側で和さんの調子を聞く。和さんは腰の調子は良くないが、舞坂まで何とか行けそうだと言う。今朝、次回で、二川まで歩くためには舞坂まで歩きたいと、計画を述べたことが、プレッシャーを掛けたかもしれない。とは思ったが高塚駅を素通りしてしまった。旧街道は国道一号線と別れて、市街地を西へ進む。その分岐に篠原のサインがあった。
浜松宿 5.4km →【浜松市 篠原】 → 舞坂宿 5.5km
舞坂まで歩く代わりに、何処かでゆっくりと休憩を取ろうと、立ち寄ったのが神明宮であった。土曜日の昼下がり、ブランコなどの遊具のある神社の境内だが、人っ子一人いない。一昔前ならこの時間、子供たちの声で満ち溢れていたであろう。子供が減ったのか、子供たちが忙しすぎるのか、おそらく両方なのだろうが、こんなことで日本に未来があるのだろうか。一人っ子が増えて、日本には従兄弟や甥や姪が滅びると誰か言っていたのを思い出した。久し振りにブランコに乗ってみた。頭がぐらぐらして気持ち悪くなった。
舞坂に入って、駅への標識を探しながら歩く。両側に土塁が残り、良く保存された松並木が始まった。東海道松並木のサインもある。しかし肝心の舞坂駅への標識が見当たらない。見兼ねて川さんが聞いてくれたところ、少し行き過ぎたようであった。戻って舞坂駅に至ったが、駅前広場も無い住宅の中の駅であった。標識がきっとあるはずだとの思い込みが強すぎたようであった。
浜松宿 10km →【東海道 松並木】 → 舞坂宿 0.9km
後日聞いた話では、川さんは靴が合わず、足が痛かったという。前回の強さに舌を巻いていたこともあり、和さんの腰に気を取られていて、気にしていなかった。そう言えば再三に渡り、靴の紐を締め直していたようであった。気配りが足らなかったと反省する。
(東海道ウォーク十日目、終り)
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