自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(34)

潮見坂から遠江
保永堂版東海道五十三次「白須賀」

2026.4.16

朝から土曜日の金谷宿大学「古文書に親しむ」2講座の準備。年度初めで色々な書類造りに手間取る。

昨日に続いて、東海道ウォーク11日目の続きを載せる。

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国道一号線に出た所に橋本のサインがあった。

新居宿 0.1km 【新居宿 橋本】 → 白須賀宿 3.5km

十五世紀の末の大地震で、浜名湖南側の湖岸が切れて、今切口が出来るまでは、舞坂まで陸続きであった。この橋本に宿があり、街道は真っ直ぐに、舞坂へ歩いて行けたという。旧街道はすぐに国道一号線から別れて、『浜名旧街道』に入る。この道には南側に松並木が残っていたが、松食虫にやられてしまい、新居町の手で松の若木が植えられた。今ではその松もかなり大きく立派になっている。他の市町村もこれに習い、枯れた松の補植を是非お願いしたいものである。きっとすぐに美しい松並木が回復すると思う。

紅葉寺跡のサインがあり、北へ少し入ると階段の上に樹木だけ残った敷地が見えた。「源頼朝が立ち寄った際、地元の名主の娘と・・・・・・その娘が建てた云々」の説明板に鈴さん曰く「昔の武将はやりたい放題だったのだろう」そう言ってしまえば夢もロマンもない。

新居宿 0.9km 【紅葉寺跡】 → 白須賀宿 2.8km

松並木の中に歌碑が一基あった。続古今和歌集に収録された二首の歌が刻まれていた。

風わたる 浜名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟  為家

わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで  阿佛尼

太い槙の木が並んだ道畔に、大倉戸の立場跡の標識があった。休み処として、客を呼び入れる声が聞こえて来そうであった。

『明治天皇御野立所阯』の石碑の前で休憩をとる。臼さんから蜜柑が廻って来る。この辺りより空腹がつのり、食堂を求めながら歩く。

火鎮神社前に白須賀宿のサインがあった。かってはここが白須賀宿であったが、津波で壊滅して、少し先の潮見坂を登った高台に宿場を移したのだという。

新居宿 2.9km 【白須賀宿(火鎮神社)】 → 二川宿 9.3km

通り掛かりの店で白須賀宿の案内マップを貰う。すぐ近くに白須賀一里塚と高札建場の標識が並んであった。

昼を過ぎて腹が減って堪らない。自分は新居町駅でうどんを食べたが、他の人達はもっとひもじい思いであったと思う。しかし、食堂らしきものは全く無かった。これから潮見坂という。潮見坂下の角にサインがあった。坂を目の前に一休みをする。

新居宿 4.5km 【潮見坂下】 → 二川宿 7.7km

そこで川さんがザックからバナナを出した。各人へ一本づつ渡る。バナナを食べて、何とか坂を上がる元気が出てきた。地獄に仏とはこのことであろうか。

かなり急勾配の坂が続いた。登りきる少し手前に、潮見坂の標識があった。振り返ると人家の向こうに遠州灘が見えた。かって旅人は京を立ち琵琶湖を見てから、ここ潮見坂に至って初めて海を見た。琵琶湖を『近江』、ここで初めて見る遠州灘を『遠江』と呼んだのは、歩くより交通手段の無かった昔の人の感覚である。潮見坂を登りきった所に潮見坂公園跡の石碑とサインがあった。

新居宿 5.3km 【潮見坂公園跡】 → 二川宿 6.9km

潮見坂公園はかっては遠州灘が一望に出来て、旅人が一休みする絶好地であった。大正時代には公園になり、明治天皇遺蹟地記念碑が設置されたりしたが、今は中学校になっている。明治天皇遺蹟地記念碑は公園にあった他の石碑とともに道路脇へ建っている。

東海道ウォーク十一日目、つづく

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