五和村の薦被り騒動(金谷郷土史研)
この後講師は変わりますが、4、5回実施する予定です
2026.5.20
午後、金谷郷土史研究会で出かける。来月から始まる「竹下村誌稿」解説講座について、事務局のN氏から説明があった。一連の事務打ち合わせのあと、自分が解読して、古文書が読めなくても、読める小冊子「薦被り騒動」を教材に、文化13年、五和で起きた百姓一揆の話をした。この話は、竹下村誌稿にも載っておらず、地元の人も知っている人は全くいないのではないかという、郷土の騒動である。
文化13年、大風雨で、水害や汐風を受けての塩害などで、凶作となり、年貢が納められないと、何度も役所へ書類により注進を行ったが、一時、見舞金のような形で、御手当米が村々へ出されたが、これではとても年貢を納められないと、年貢の一割をこの先10年返済として、減免して貰いたいというのが五和村々の願いであった。しかし、役所から受け入れられず、直訴することになった。
この年、志太郡と遠州一円、凶作で、自分が資料を見たものだけでも、遠州森町、島田の細島や湯日など、田中、掛川、横須賀などの藩で百姓一揆が起きている。とくに、島田の細島村では、田中藩に年貢減免の直訴をして、減免は認められたけれども、首謀者として、細島村の庄屋増田五郎右衛門は処刑されてしまった。その生家跡、井戸、義人碑、墓、記念碑が、今「しまだ市民遺産」に登録されている。他の直訴に及んだ村々も、いずれも首謀者が処罰されている。
さて、五和の場合は、11月11日夜、大代川川原に五和の村々の本百姓の人々が集まり、そのまま掛川城下へ夜っぴて歩いて向かった。城下へ入る手前の本所村で、待ち構えた五和村々の村役人の人たちが、直訴に向かおうとする数百人の本百姓の人々を押しとどめ、直訴をしたら誰かが犠牲になる。ここで帰れば御構いなしだ。要求は他の村々と同等に叶えれるようにするからと説得し、人々を村々へ引き上げさせた。
結果、惣庄屋の嶋村庄屋、儀右衛門のみ、お叱りという事で済み、誰も犠牲者はなくて済んだ。その一部始終の記録が、嶋村の山田家の文書に残っているという話であった。
途中で直訴を断念したために、だれも犠牲者を出さずに済んだ。見方を変えてみれば、この五和地区は、田んぼ作りにとって最も重要な水は、大井川からいただいていたので、心配はなかった。往時は大井川の水はダムもなく豊富に流れて涸れることはなかった。また大風も牧之原台地に阻まれて、弱められた。洪水も瀬替えの後は暴れ大井川も随分おとなしくなっていた。
だから、文化13年の被害も、他の地域からすると小さく、直訴に、それほど切羽詰まっていたわけではなかったのだろうと思う。江戸時代を通して、この騒動以外に五和地区に百姓一揆のようなものは知らない。
※ 「薦被り騒動」は百姓一揆の当時の呼ばれ方。参加者が姿を見られないように薦を被っていたことに由来する。手には鎌や鍬あるいは竹やりを持っていた。昔のゲバ学生が、ヘルメット、マスク、ゲバ棒を持っていたようなものであろう。なお、「薦被り騒動」の様子を知りたい向きは、千野隆司著の時代小説「一揆の声 おれは一万石」を読んでみるとよい。舞台は関東の田舎であるが。
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