自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(7)
2026.5.5
今日は子供の日、近くに子供の姿を見ることはなかったが、午後マーケットに行くと、親子孫、8人の一団が買い物を終えて帰ってゆくのを見た。女房と見とれて、つい人数を数えてしまった。今日だからの一団であったのだろう。
「島田市北方の山々」の続きを載せよう。寛峰さんは、道に迷うことを山歩きの醍醐味と感じている風に見える。
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智満寺奥の院
第三回目は、同年十二月九日、謂わば第二回目から、直ぐ四日の後の事であった。今度こそ智満寺へ、南方正面から登ってみようと思ってゞあった。
島田駅では、やっぱり天徳寺行のバス迄かなり間があった。歩く事にした。智満寺迄は、九粁ほどだとある。島田市は直きに端(はず)れになり、低い山を左右にした農地の間の道であった。途中しだれ桜で有名な慶寿寺がある。その手前の田の中の小川沿いが、若干桜堤である。むろん今は冬の枯木である。冬枯木にしても、慶寿寺の枝垂桜というのを見ておきたいと思ったが、見当たらなかった。
天徳寺を過ぎてからは、道は登り勾配になっていた。しかしここで、ちょっぴり道を間違えてしまった。普通なら間違える事の方が、難しい位の、分り切った道なのにであった。車の通れる道をうね/\と谷沿いに伝って行きさえすれば、いやでも智満寺へ着けたのであった。それを間違えた次第はこうであった。
自分がこの度は持参した案内書には、
「‥‥‥天徳寺から十五分、右に会下の沢林道を分けると、まもなく山田にでる。自動車道をたどるのもよいが、左手の小さな尾根につけられた近道を登ると再び自動車道に出る。ここは千葉林道の分岐点で、道を左にとれば十分ほどで智満寺石段下に着く‥‥‥」
とあった。自分はこの中の、「右に会下の沢林道を分けると」というのを、「分け入る」という意味にとってしまったのであった。普通、道などを歩く場合、「分ける」は、「草を分ける」とか「藪を分ける」とか、そこを「分け入って進む」意味に用いられると思ったからであった。ところが、こゝの「分ける」は、「右に見て」又は「右に別れて」という意味なのであった。で、その時はこれに気がつかなかったものだから、あゝ成程、天徳寺から十五分、これが会下の沢林道か」と、その道を右折して「分け入って」しまったのであった。そして「山田」とはどこだろう。分らない。が、「まもなく」「左手の小さな尾根に」小径がつけられている。はゝん、これを行けば「近道」なのだなと、少しも疑わず登り出したのであった。つまり同じ北西の方角へ行くにも、廻りくねった車道を行かなくて、直線的な尾根道を行けば近い、と受け取ったのであった。
少し行った時、おかしいと思った。蜜柑畠へ出てしまったからであった。その蜜柑畠は、急勾配で山腹へ伸(の)し上げていて、そこで行き止まりであった。他に道らしい道はない。しかしこれだけ入ったのだから、引返すのもつまらない。とにかく北西の方角へ行けばよいのだからと、その急な尾根を分け上って、更に尾根伝いに歩み入って行った。うまい具合に、その後の尾根には、小径もついていた。方角も北方へ向っている。何とか行けるだろう。やっぱりこれが案内書の近道かも知れないと思った。
が、それもしばしの間であった。道はどうも、東へと外れたがる。行くべき左手への径はなく、右手へ右手へ行ってしまうようである。こゝらでようやくはっきりと、道を間違えている事を覚ったのであった。も早引き返すには、余りに遠い。幸い、こゝらの径は、所々に雑木紅葉美しく、落葉深く、深閑としていて、いくら彷徨っても楽しいばかりの径であったから、悔とてはなかった。が、たゞ時間の方は、予定外に経ってしまう事であった。自分は、先程、左手の山下に車道を見た個所があったと思ったので、そこ迄引き返して、今は、山襞沿いに車道目当てに下りる事とした。
下り立った車道は、南北に通じている道のようであった。そこでふと又「案内書」の文を思い起した。「再び車道へ出る‥‥‥」この車道の事かも知れない。と、こゝへ来て迄、まだ未練にも「案内書」を思った。で、そこを北上してしまった。と、やゝしばらくで、左へ入る道があった。今迄の車道は右へと逃げて行っているのであった。これが、「道を左にとれば十分で智満寺へ着く‥‥‥」その径かもしれないぞ、と、そこをのこ/\入って行った。しかしその道は、直きに風倒木で塞がれており、それでもと思って苦心してそれを越してみれば、今度は崖崩れで行かれなくなってしまっていた。
(続く)
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