自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(8)終り
お昼前、初馬から孫が二人来る。次男は今日は野球だといい、来られなかった。
早速昼にパスタを作る。この頃はもっぱら簡易な造り方で、乾麺100gに付、水300ccをフライパンに入れ、乾麺は半分に折って入れる。塩を少し入れ、10分位煮ると水を吸って、水が無くなる直前、市販のパスタの元を投入、混ぜれば出来上がり。今日はミートソースで、トマトを細かく切って途中で投入、少し味が薄いと思えば、ケチャップを入れる。手元のあるものなら何でも、煮れるタイミングで投入する。今日はトマトに加えて、ムキ冷凍エビやら、刻んだ椎茸やら好きに入れた。
パスタが柔らかくなったかどうかだけは気を付ける。出来たら途中はフライパンに蓋をすればよい。吹いたら蓋を取る。十数分で出来て、無駄な御湯は出ないから合理的である。テレビでこの方法を知り、最近はもっぱらこのように作る。おおむね好評である。
米が高くなってから、昼はもっぱらこんなものである。
「島田市北方の山々」の最終回を載せよう。
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もはや今の車道を引き返すようにして南下する以外にはなかった。誰かに尋ねたくとも山の中である。家もなければ人も見えない。そんな時に限って、又、車も通らない。詰まるところ、だいぶ戻った所へ、今度は本当の、智満寺へ行く車道と合っしていたのであった。その道は二年前に夜道を下った所で、感じとして覚えがあった。そこからは智満寺はそう遠くはなかった。
これは後にさとった所であるが、「案内書」に云った道は、本道の右手ならぬ左手の尾根道であった。こちらには地図にもちゃんと径が描いてあるのであった。自分も以前に、そこへ赤線を付して、計画した径なのであった。(しかし又、この地図にある径では、近道にはならないから――307米峯を越える――もっと麓の小径があるのか。)
案内書の「近道」に連られて、誤読して迷った。以上が経緯であった。
智満寺へは、今回は待望の正面から上ったのであった。先回にざっとしか見なかった宝物殿を再見するのも、今回の眼目であったけれど、時間の方も気になり、又の楽しみにして奥の院へと急いだ。こゝは先回は、行かない所であった。その登り口には、寺で記したものと思(おぼ)しく「奥の院まで十五分」としてあるのであった。
道はかなり急で、ごろごろしていた。先方(さきがた)迷い込んだ尾根で、妙に疲れていたので、この急登は苦しかった。三十分も掛かった。それにしても、自分が疲れていないにもしろ、十五分ばかりではとても登れない道であると思った。そうでなかったら、余りに惨めである。登り着いてみたらどうであろう。そこにどこかの山岳会で立てた標示板があった。それには、「智満寺まで三十分」とあった。自分は安堵した。こちらに依れば早めに登った事になるから。しかし乍ら、こんな急登りの山を、上りが十五分で、下りが三十分掛かるとは、これは何と考えたらよいのだろう。どちらも当てづっぽうで、こんな結果になったのか。それにしたって違いすぎよう。さしずめ天狗さんが悪戯して、斯く逆に書かしめたのだろうとでも思わなかったら、解釈つかなかった。と、自分は思ったら、今し方の「十五分」へ対しての軽い不満も消えてさっぱりした。そればかりか、一人可笑しくなってからから笑った。両方共わざとのような誤りであったから。
奥の院のほとりには、杉の巨木が何本も立っていて、文字通り昼なお薄暗い所であった。そうして、高い杉の梢には、ぼうぼうと云って、北風が叫んでいた。まさに天狗の栖みそうな所であった。これほどの大杉は、自分には後にも先にも見た事がない。(十本杉。国指定天然記念物。その内開山杉は樹令千二百年。周囲四丈八尺。)誰も一見すべき価値あるものであろう。この山頂には、他にも大きな青木の木が繁っていた。けれどまだどれも青実であった。
自分は斯くして奥の院を極めた後には、そこから後畑分岐を経、どうだん原を通り、柏原まで尾根伝いに下ったのであった。途中に松毬が沢山落ちている所があって、それを投げたり杖で打ち飛ばしたりした。どうだん原は風が激しかった。柏原の山頂へは至らず、どうやらその手前から伊太という部落へ下りてしまったらしかった。そこから島田駅へも歩いた。折から夕日が沈み、沈んだそのほとりから、線状の雲が四五本、扇の骨形(なり)に走り出ていて、その雲のみが朱美しく映えていた。それは壮大な冬の夕べの空であった。
第四回目は、明くる昭和四十五年十二月十日、岡部の奥の新(にゅう)舟から、魚篭(びく)石を越えて入り、宇嶺(うとうげ)滝、高根山、蔵田、そして旧道を通って市之瀬へと歩いた。これらの話はいつかに譲るとして、最後の蔵田、市之瀬間の旧道は、極く短かゝったが、車の通る新道と異(つが)って、人の気配のまるきりない、昔の侭の静かな山の街道であった。自分は月明りをたよりに、悠っくり悠っくり歩いて小さな峠一つを越えた。
昭和癸丑(48)歳二月一~五日 小澤寛峯
杉・桧の山では、頂付近や尾根筋の雑木は、残して置く方がいい、とは後に知った。これらの落葉が、山の天然の肥料になるからであると。
小澤寛峰著「島田市北方の山々」終り
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