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【活動の記録】と【読了図書】6月14日~26日

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  暑さに萎れるカンナの花 散歩道で 西日本は早くも梅雨明けだとか はやすぎるだろ!  2025.6.27    この十日余りの活動と読書を記しておく。  【活動の記録】 6月14日   午後、 「駿遠の考古学と歴史」講座出席。 6月16日   午前、 北センターにて、”ほほえみ”取材。        午後、渡邊邸へ訪問。(「竹下村誌稿」著者の御子孫) 6月17日   午前、駿河古文書会、高山氏が来訪。次回資料差替の件。 6月19日   午後、金谷郷土史研究会、会合。   6月20日   午後、 駿河古文書会発表当番。(課題「斬奸状」) 6月21日   午前、金谷宿大学「古文書に親しむ(初心者)」講座教授。           午後、金谷宿大学「古文書に親しむ(経験者)」講座教授。 6月22日   午前、講演会「田沼意次と相良」 講師 河原崎陸雄。   6月23日   午前、「ほほえみ」 取材の校正のため、北センターへ。 6月24日   午前、掛川市立中央図書館。和久田氏打合せ。「大庭松風の世界」見学。 6月25日   午前、古書店戸塚氏と面会。  この十日余はけっこう忙しく過ごした。「竹下村誌稿」と 「斬奸状」と 「べらぼう」と「大庭松風」と「大井川瀬替え」が、この間の話題であった。   【読了図書】 読書:「 売笑 蘭方医・宇津木新吾 」  小杉健治  著 読書:「 初心の業 ボーダーズ4 」  堂場瞬一  著 読書:「風光る 藍染袴お匙帖」 藤原緋沙子 著 読書:「象が来たぞぉ(二) くノ一忍湯帖」  風野真知雄 著  読書:「武士の流儀 12」 稲葉稔 著 読書:「英雄の悲鳴 ラストライン 7」 堂場瞬一 著 読書:「月とコーヒー デミタス」 吉田篤弘 著 堂場瞬一の2冊は中々読み応えがあった。 

「丙辰紀行」大井川のくだり

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  林羅山「丙辰紀行」大井川のくだり   赤枠部分を解読  2025.6.26   昨日、古書店T氏との話の続きである。 江戸時代の始まりの頃、大井川は牛尾山を中に、西の金谷側と瀬替えで成った東の島田宿側に二た流れになった時もあったというが、「通常は島田側を流れ、満水になると横岡からあふれて金谷側に流れて来たと、林羅山の『丙辰紀行』に書かれている。『竹下村誌稿』にも引用されているよ」と聞いたので、『竹下村誌稿』でその部分を読んでみるが、少しニュアンスが違うように思えた。原文に当たろうと、ネットで京都大学図書館のデジタルアーカイブで「大井川」の部分をコピーし解読してみた。 林羅山の『丙辰紀行』は「丙辰」が示すように、元和2年 ( 丙辰 ) (1616)の紀行文である。以下へ、読みやすいように変体仮名、旧漢字など変えてある)      大井川 大井川は駿河と遠江との境なれば、 明日香川 ならねど、 霖雨 ふれば渕瀬かわること、度々なれは、東の山の岸を流れて、島田の駅、河原の中にある事もあり。西の方に流れて、金谷の山にそう事もあり。一筋の大河となりて、大木、 沙石 を流す事もあり。あまたの枝流となりて、一里ばかりが間に分かるゝ事もあり。 (以下は大井川の渡しの話になる) ※ 明日香川(あすかがわ) ➜   明日香川は、淵瀬が常に替っている変化の激しい川として知られている。ゆえに、 世の中の移り変わりが激しいこと、または人の世の無常さを例える言葉として使われた。 ※  霖雨 (りんう) ➜   幾日も降り続く雨。ながあめ。 ※  沙石 (しゃせき) ➜   砂や小石。砂石。  よく吟味してみると、本流が書かれていないが、瀬替えの後は本流はまっすぐに南へ流れていることがいることが前提で、満水になると東へ西へと振れることを述べていると思われる。その溢れてくる水は、横岡と牛尾山の間、堤防ができた後にも、頻繁に堤防を乗り越え崩して 、あばれるのであろう。     昨日記したように、元和5年(1619)には横岡新田は存在し、検地を受けている。つまり横岡堤もそれまでに出来ていたわけで、『丙辰紀行』はその三年前だから、おそらく堤が出来て、新田開発が行...

古書店T氏との三時間半

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  庭の徒生えのペチュニア 水さえ絶やさなければ こんなところにも花を咲かせる  2025.6.25   午前中、吉田のT古書店の倉庫兼事務所で、T氏に会い、現在彼が調査中の大井川川下の村々について、色々とお話しした。終ったのは、すでにお昼を過ぎていて、都合3時間半も経っていた。二人とも時間を忘れて、話が弾んだことになる。大井川川下の村々についての話は、T氏の論文を待って、ここに記すことはしないが、天正18年、中村一氏の手による「天正の瀬替え」は、いよいよ「まぼろし」と思えてきた。 元和五年(1619)、徳川家康の第十男頼宣は、駿府から紀州へお国替えになる。国替えの時、遠州の村々がどれ位石高があり、年貢をどのように納めていたか、おそらく引き継ぎのために残された一冊だったのだろう。その資料は、おそらく書き写したものと思われるが、T氏の手に入ったという。T氏はその資料を読み込み、遠州の村々の諸事情を根気よく調べて、一冊の論文を書こうと目論んでいる。最初に話を聞いてから、もう一年以上経つが、いよいよ今年中には目途をつけたいと考えているらしい。書籍化されたものを早く読みたいものである。 旧五和村の地域に関して言えば、その書によれば、元和五年(1619)の時点で、横岡新田は現存し、僅かながら年貢が計上されているけれども、牛尾村、竹下村、番生寺村、島村などは、年貢の対象になっていないのか、村の名前すら載っていない。五和の五ヶ村の内、横岡新田だけがあるというのは、納得できることである。 金谷郷土史研究会では、現在「天正の瀬替え」の再検証が喫緊の課題となっている。近々、T氏を研究会に講師として呼んで、お話を聞くべく、改めてT氏の了解を得てきた。どんな話が聞けるか、楽しみである。

「大庭松風の世界」/大庭大助の資料展示を見に行く

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江戸後期 掛川の文人庄屋「大庭松風の世界」  掛川市立中央図書館展示スペース 今日から7月12日まで 2025.6.24 昨日、和久田雅久氏(掛川図書館文学講座で長くお世話になった)に電話をし、今朝、掛川市立中央図書館で会う約束をした。 図書を返しに見えた和久田氏に、「竹下村誌稿」(解読版)を、いきさつと関りを話し、読んでみて貰うべく、渡した。かさ張る本だから、きっと最後は図書館へ納めていただけるものと思う。さらに、「硯屋日記(三)」の解読版と「面白古文書(R6年版)」を渡した。 その後、今日より掛川市立中央図書館で「大庭松風の世界」と題して、大庭大助関係の資料展示が始まると聞いていたので、見学に行く。 静岡新聞の記事によると、大庭大助(松風は号)(1767~1848)は、江戸後期に掛川下俣で庄屋を務め、和歌や俳諧、漢詩、書画に親しんだ「文人庄屋」で、大庭家九代目の当主であった。東海道に隣接していたこともあって、東西の文人との幅広い交流をうかがわせる貴重な史料が多く残されている。 その御子孫の大庭捷二朗氏は定年退職後、古文書講座に通いながら、20年かけて読み進めてきた。今回その一部を展示公開するという。 その古文書講座は駿河古文書会で、自分もそこへ十数年通っている。大庭氏は10時頃に見えると聞いたので、展示会場で、和久田氏を大庭氏へ紹介した。そこへ和久田氏と旧知の浜松で郷土史に造詣の深い松本さんが同席し、自分と名刺交換したところ、我が家に一度お邪魔したことがあることを思い出された。言われて自分も思い出した。ブログで、佐束紙の記事を見て、わざわざ訪ねて来てくれたのであった。 展示の内容についてはまた追々記そうと思う。

「田沼意次と相良」河原崎陸雄氏講演会

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庭のアガパンサス     2025.6.23 昨日午前中、 掛川市立中央図書館で、河原崎陸雄氏の 「田沼意次と相良」という演題の 講演会があった。( 「掛川地方史研究会」と「猫の手会」主催) 内容は、最近の新説というものではないが、田沼意次が決して賄賂政治だけの人ではないことを、細かい事柄を積み上げて実証しようとしたものであった。 まずは意次とその子孫の幕府での職歴を詳細に話された。原稿なしに切れ目なく話されるのだが、特に固有名詞など、不案内の受講者に、文字(漢字)が浮かんでこないので、理解しにくかった。 中で注目したのは、意次を失脚に追い込んだ面々の話。松平定信のことは言うまでもないが、意次の主張で郡上一揆に連座させられ、相良を追われた本多長門守忠央(空いた相良藩に意次が入っている)。加増で摂津の地を頂いた意次が、隣藩の岸和田城主岡部美濃守 長備と激しく揉めていたなど、成り上がりの身で、当時としては強引と思える手法により改革を実施し、数々の敵を作ってしまったのが、田沼失脚の原因だったのだろう。 岡部美濃守 は相良城破却の時、その役割を買って、 遠路はるばる相良におもむき、破却を主導したという。 賄賂政治というのは、失脚に追い込んだ面々が、主意を隠すためにでっち上げたものではなかったか。勿論、賄賂を取らなかったわけではないが、当時の政治が多く賄賂で動いていたので、何も意次だけが賄賂で政治を左右していたわけではないようだ。  意次の失脚、相良城の破却の後、意次の四男意正、孫の意尊が夫々若年寄に重用されるなど、失脚に追い込んだ面々がいなくなった後、田沼意次一統が復権することをみても、意次が目論んだ政策に支持者がいたことがわかる。 休憩をはさんで、意次が相良藩に貢献し、残した事どもが説明された。 1.意次が贈答品に使った相良産のサガラメ(アラメ)を全国的に有名にした。 2.人を殺めて、獄中死したはずの平賀源内は、実は意次の手で助けられ、相良藩に匿われ、生き延びていたという話。源内が相良で住んだ屋敷は「源内屋敷」と呼ばれて現存していた。 3.塩の生産を勧め、米の年貢に代わって、塩年貢を始めた。 4.萩間川に千石船が入れるようにして、相良港を開く。 5.相良の諸神社で「御舟神事」が始まる。  6.薩摩の難破船を助けた際、頂いたサツマイモを...

金谷宿大学2講座実施

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  一昨日、もう夏の日差しの静岡城北公園 右は静岡中央図書館    2025.6.22 昨日、土曜日、金谷宿大学「古文書を楽しむ」(初心者)・(経験者) の2講座を、午前と午後に実施した。両講座とも、今日より一時間後、5分ほど休憩をとることにした。 先日、帰郷の際、古文書解読講座の話しをしていて、兄より「二時間休憩なしか」と聞かれた。「学校の授業は45分だぞ。高年齢の人も多いんだろう。トイレ休憩を入れないときついだろう。」それは気が付かなかった。今後は、一時間経ったところで、休憩を取ろうと思い、受講者の皆さんにも話した。 この休憩で、さすがに煙草を吸いに行く人はいないだろうが、手洗いの外に忙しい人は電話などもできる。また、今までは二時間、目いっぱいしゃべっていて、雑談する時間もなかったので、受講者のことを、名前すら十分に把握していなかった。今後はこの五分の休憩で雑談を増やしていこうと思った。 今日、初心者講座は、面白古文書「本居宣長の『亀の歌』」の後、森町の「凧上げ規制の古文書」を読んだ。経験者講座は、 面白古文書の後、「楠木一件」の続きを読んだ。 雑談で、 初心者講座は「竹下村誌稿(解読版)」の話と、自分のブログ「かさぶた残日録」の話をした。また、 経験者講座では 、N氏が  「竹下村誌稿」を「しまだ市民遺産」へ登録の目論見の話をしてくれ、自分は ブログ「かさぶた残日録」の話をした。学んだことについて、別途に見学会をするのもよいとの意見も出た。 暑さが原因だろうか、この日欠席者が、 初心者講座で四人、 経験者講座で二人あったのは、少し気になった。

駿河古文書会で発表当番

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  芝に集まるムクドリ 静岡城北公園   2025.6.21 昨日午後、静岡へ行き、駿河古文書会に出席した。そして、年に二回の発表当番を勤めた。課題は前回に引き続き、幕末の尊王攘夷の志士の血生臭い諸記録を集めた「斬奸状」という表題の古文書である。牧之原市の長年医者を勤めた御宅から出た古文書だと聞いた。その後半が自分の担当であった。大変難解でギブアップ寸前だったが、何とか解読資料を事前に提出していた。ところが、前回のO氏の発表を聞いて、沢山の示唆をうけ、解読資料に大幅な修正が必要となり、資料の差し替えが必至となった。担当の理事T氏に頼んで、大変お世話を掛けて、何とか差し替えが間に合った。 二時間の講義はかなり慣れてきている。マイクは断り、後ろの会員にはできるだけ前へ席を移ってもらい、大きな声で、ゆっくりと、をモットーに、講義を始めた。高年齢の会員が大半の中で、講義中に、何とか一瞬でも笑いを取りたいと、いつも思っている。しかし、話題が話題だけに、笑いを取るのは大変難しい。笑いを取るには、堅い講義内容をリラックスして理解してもらうこと、その余裕の中で笑いが起きるのだと思う。時間を使ってゆっくりと進め、途中で何度も意見、質問の時間を取りながら進めた。そして一回だけ小さな笑いが取れた。どんなだったか、覚えていないが、してやったり。 そんな気分で、事件の歴史的なことがらについて質問されてときに、自分は古文書の解読が趣味で、歴史な背景については、前回の担当のO氏に答を求めてしまった。その上、自分は次々と古文書を読んでいくことが楽しいので、色々な人から古文書が持ち込まれ、読むことに忙しく、古文書の背景の歴史を調べることに時間を割きたくないなどと、余分な裏話をしてしまった。ちょっと調子に乗り過ぎた。