「丙辰紀行」大井川のくだり
2025.6.26
昨日、古書店T氏との話の続きである。
江戸時代の始まりの頃、大井川は牛尾山を中に、西の金谷側と瀬替えで成った東の島田宿側に二た流れになった時もあったというが、「通常は島田側を流れ、満水になると横岡からあふれて金谷側に流れて来たと、林羅山の『丙辰紀行』に書かれている。『竹下村誌稿』にも引用されているよ」と聞いたので、『竹下村誌稿』でその部分を読んでみるが、少しニュアンスが違うように思えた。原文に当たろうと、ネットで京都大学図書館のデジタルアーカイブで「大井川」の部分をコピーし解読してみた。
林羅山の『丙辰紀行』は「丙辰」が示すように、元和2年(丙辰)(1616)の紀行文である。以下へ、読みやすいように変体仮名、旧漢字など変えてある)
よく吟味してみると、本流が書かれていないが、瀬替えの後は本流はまっすぐに南へ流れていることがいることが前提で、満水になると東へ西へと振れることを述べていると思われる。その溢れてくる水は、横岡と牛尾山の間、堤防ができた後にも、頻繁に堤防を乗り越え崩して、あばれるのであろう。
自分のイメージでは、大井川の瀬替えがなった、牛尾山の東側は川幅が細く、落差は5メートルくらいあり、ある時は流れが滝のように見えたという記録もある。また牛尾山の西、横岡側は砂石がたまって、やや高くなっていたと思われる。だから堤はなくても、通常の流れでは大井川の流れは越えることはなかった。ただ、洪水になると、横岡側へ溢れだし、その水は暴れて、東は島田宿の北、山近くまで、西は後に五和村となる、まだ人の手の入らない河原を埋めて、金谷宿近くまで流れるという状態であったと考えられる。
その後、瀬替えの部分は広げられ、横岡堤をはじめ、それぞれの場所へ堤が築かれ、洪水は徐々に減ってゆくが、上流にダム建設が進むまで、明治になっても、大井川の洪水は絶えることがなかったという。
今後も自分のイメージを補完する史料が出てくることを期待している。
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