自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(13)
2026.3.10
まきのはら塾「古文書解読を楽しむ」講座、明日が今年度最後の講座である。連絡があって、新しい受講者が3人入ると聞く。少しにぎやかになるであろうか。早いもので、まきのはらで講座を始めて7年目に入る。今回、受講料が上がるというから、満足を頂けるように、がんばらねばなるまい。
東海道ウォークも五日目に入り、いよいよ駿府の町までたどりつくことになる。
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創業三百年『追分羊羹』だけが街道に残る
今年から気象庁は入梅日を発表せず、事後におよその入梅時期を言うに止めるという。ともあれ今日は入梅近し、雨の予報であったが、北の高気圧の勢力がまだ強くて、梅雨前線が南海上に下がったため曇りとなった。皆の予定がやっと合って、三ヶ月ぶりの『東海道』となる。この期間、日本列島はオウムに明け暮れた。このカルト教団事件も教祖の逮捕でようやく峠を越えた。
興津駅のホームに下り立って開口一番、三ヶ月も立つと興津駅の記憶もないと和さんが言う。けれども、下りと上りではホームが違い、記憶に無いのも当然である。
現在の東海道興津宿は、道は広いが何もない町並みだった。元興津町役場が興津公民館になっていた。木製の巣箱型のスタンドに『東海道』スタンプ『興津宿』があった。また傍らに興津宿のサインもあった。
由比宿 7.2km →【清水市 興津宿】 → 江尻宿 2.5km
興津宿東本陣址の石柱に彫られた文字が、なぜか黄色く塗られていた。一方、興津宿西本陣址の石柱は東本陣址と同時期に造られた石柱であるが、こちらは黄色に塗られていなかった。
清見寺門前の道路を隔てた向こう側に、『大正天皇在東宮海水浴御成道』との記念石柱がある。往時は海水浴も出来た名勝の地だったのだろうが、開発された現在からはうかがい知れない。
階段を上がって『東海名区』の額の掛かった門を抜け、JR東海道線を高架橋で渡って境内に入る。最初に目に入った碑は咸臨丸乗組員殉難碑であった。「食人之食者死人之事」の碑文に一見、(人食い人種の碑文みたいだ)と思った。側の説明板に書き下し文が添えられていた。「人の食を食(は)む者人の事に死す」と。書き下し文を読んでも今一つ理解出来なかった。それに引きかえ、白い立て札に書かれた「秋晴れや三保の松原一文字」の句は、文字通り良く理解出来た。誰の句との記載はないが、後で五百羅漢の斜面を登って振り返ると清水湊の向こうに三保半島が今でも一文字に見えた。
龍臥して 法の教えを 聞くほどに 梅花の開く 身となりにけり 晶子
「臥龍梅」と名付けられた梅の古木の下に、与謝野晶子の歌碑があった。
臼さんは境内に入るとすぐ、五百羅漢の方へ急いだ。五百羅漢群像を写真に撮りに行ったのだろう。清見寺の五百羅漢は素朴な味わいで有名で、藤村の小説『桜の実の熟すとき』のラストシーンにもなっているという。
帰りに境内から出るとき山門を見ると、塀との繋ぎの部分に塀から門へと人が登りつくのを防ぐように、鉄針が扇型に取りつけられていた。見上げると門の柱や梁に取り付けられた細かい飾り彫刻が所々無くなっている。おそらく飾り彫刻が盗まれるのを防ぐため取りつけられたものだろう。
静清バイパスを潜った先に常夜燈があり、延命地蔵尊を祀った小さな祠があった。さらに広い通りに出た歩道に、車道に背を向けて馬頭観音が祀られていた。かつては街道に向けて祀られていたものが道路が広くなって背を向ける形になったのだろうと思った。近くに袖師ヶ浦のサインがあった。
興津宿 2.5km →【清水市 袖師ヶ浦】→ 江尻宿 0.7km
休憩の場所を求めて、街道から外れて北へ入ったゲートボール場脇で、ティータイムを取る。周りにビワやクルミの木がある。雲が厚くなり、一度パラッと来たような気がした。
少し行った旧道との分岐の三角地に、細井乃松原の標識とサインがあった。
興津宿 2.9km →【清水市 細井乃松原】→ 江尻宿 0.3km
戦争前までは、江尻宿までの300メートルほどの間、旧道の両脇にびっしりと松並木が残っていたといわれるが、戦争中に松根油を取るために全て伐採されて、今は見る影もない。
(五日目続く)
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