自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(11)
夜、高熊のS氏から、解読版「大地震能記」と「大井河源記」のお礼の電話があった。金谷へ出ると寄られる、S理髪店に、渡してもらえるように預けておいたものである。喜んで読んでくれそうな人に進呈しているが、ほめられると続けたくなる。まだまだ読んで貰いたいものがいくつもある。今、まとめているのは、五和の百姓一揆「薦被り騒動」と、松浦武四郎の「東海道山すじ日記」の二つである。これも興味をもってもらえるものだと思う。乞うご期待。
東海道ウォークも四日目に入る。
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「花粉症」うんがつかなかったのが運のつき
岩淵宿(間宿) → 蒲原宿 → 由比宿 → 興津宿
日時 平成7年3月11日(土) 晴れ、花粉非常に多し
富士川駅下車。西へ向かって歩き始めて四日目、電車に乗る時間もだいぶ短くなってきた。富士川駅から前回降りてきた高台への道を登る。富士川郵便局は九時からで、開いていなかった。東名を潜る手前に中之郷のサインがあった。サインを背景に、入れ代わり写真を撮っている間に、鈴さん・臼さん・和さんの三人とも、まだ生々しい犬の糞を踏んでしまって大騒ぎになった。三人は靴の裏がかなり後々まで気になったようだ。しかし、『運がついた』三人は縁起が良い。唯一運が付かなかった自分には、このあとえらい災難が降って湧く。
吉原宿 7.2km →【富士川町 中之郷】 → 蒲原宿 2.5km
東名のガードを潜った所に、古い碑があった。『野田山不動明王』と書かれた、東京の三田講が立てた碑であった。昔、社内ハイキングにも来た野田山に、東京まで知れ渡るほど有名な不動尊があったとは知らなかった。
この街道筋には、柱が玄武岩で出来た秋葉山の常夜燈が点々と置かれている。手前に一つ古い常夜燈を見たが、字は彫られていなかった。二つ目のこの常夜燈は比較的近年に柱部分が磨かれて文字が彫り直されている。玄武岩は固い石だから、磨くのは近年の作業であろう。
旧東海道と同じ平面を新幹線が横切ったため、新幹線の下を潜る掘り下げた道路が平行して出来た。旧東海道は新幹線にぶつかって唐突に切れ、僅かに人道が細い地下道で向こう側に繋がっていた。きっと同じ町内が新幹線のために二つに引き裂かれてしまったのだろう。次の常夜燈は新幹線を越えた向こうにあった。側に『聳峰雄飛』の碑があり、銘に富士川町長中川国兵とあった。少し先には明治天皇が休憩された事を示す碑があった。これも箱根街道で見た碑と同じ時の行幸の碑であろうと思った。
東名の上を渡る橋を通る。この下は何度も通ったが、上を通るのは最初で最後であろう。いよいよ蒲原宿へ下る。
道端の『蒲原の一里塚』の石柱の奥には、小さな祠があった。諏訪神社は道路からすぐ石段になって、段々畑状に境内があった。一段目が一番広くてその隅に蒲原宿の常夜燈があった。また諏訪神社の石柱が『神社』の部分を残して折れていた。探すと常夜燈の近くに石柱の一部が転がっていた。縁起を見るとこの神社は津波や地震で何度も破壊されて、その都度場所を移して再建されているようで、受難の神社であることが知れた。二段目には樹齢700年の椎の木が御神木になっていた。本殿はそこから石段をかなり上がった所にあった。近所のおばさんにつかまって、根堀り葉堀り聞かれている和さんを残して、本殿まで荒れた石段を登って参拝した。
東海道スタンプ「夜の雪」
蒲原宿の平岡本陣の黒板塀には、旧宿場の町並みの平面図が、一軒一軒名前入りで描かれ張られていた。本陣の少し先には、蒲原郵便局があった。風景入り日付印を貰った。
広重『夜の雪』記念碑を、気付かず通り過ぎてしまい、車を洗っている青年に聞いたところ、手前でルンペンに出会った辺りから海側へ入った所にあるという。ルンペンに気を取られ通り過ぎてしまったらしい。ついでに新蒲原駅まで足を延ばそうと話しながら引き返した。成り物入りで作ったと思われる碑にしては案内標識もなく、見逃したのも無理はなかった。碑は人家の間の小公園に見捨てられたようにあった。広重の『夜の雪』は空想の絵だと言う人もある。蒲原に雪は似合わないというのがその理由である。しかし、やっぱり実景を写生したものだと思う。想像ではここまで描けない。昔は今より寒かっただろうし、春近くになるとどか雪が降ったことも想像できる。
新蒲原駅で駅スタンプを貰う。駅前広場に桜海老漁に使っていた船が展示され、その前に桜海老の像があった。
(四日目続く)
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