自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(番外 姫街道)(4)
何日か前、まーくんの父親の勤める会社で新社屋の落成式があったようで、胡蝶蘭の鉢をいただいたと言い、その内一鉢を我家へ持ってきてくれた。どこへ飾ろうと考えるも、大きすぎて飾る所もない。結局玄関に飾ってみたが、大きすぎて、我が家には似合わない代物である。買えば数万円はすると聞き、粗末にはできないが、胡蝶蘭の花はどのくらい持つのであろうか。花が終わったらどうすれば良いのか。来年も花を咲かせる方法があるのだろうか。疑問だらけで、今日もこの花を眺めている。
東海道ウォーク 番外姫街道、2日目を載せる。
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時雨に追われて素通りの三ヶ日宿
姫街道( 気賀宿 → 三ヶ日宿 )
日時 平成七年十二年二十四日(日) 晴れ後しぐれ
先週末に引き続き、姫街道の二回目を歩く。この慌ただしい年末に街道歩きを行うとは、非常識かもしれないけれども、そんなグループがあっても世の中楽しいではないか。東海道スタンプも三ヶ日宿を残すのみとなった。
昨日、社内のボーリング大会の帰りにコージツへ寄り、毛糸の帽子を買う。前回寒くて、鈴さんの耳の隠れる帽子が羨ましかったからだ。カナダ製で1800円ほどかかった。
浜松駅のロータリー型のバス乗り場から気賀駅行に乗る。客は少なく、我らの5人合わせて 3000円の運賃は大きな収入だろう。下車時のボタンが前の座席の背に付いているのは大変楽である。お年寄りには何よりのサービスだと思う。
バスは前回歩いた所をたどるように走る。苦労して歩いた所を次々と確認する。見過ごしたサインを見つけて、どうして見逃したのか不思議に思う。終点の気賀駅で下車。駅前の道路上で写真を撮り歩き始める。お天気は上々でこのあと時雨れるとは思いもしなかった。
姫街道に戻るとすぐに気賀宿の本陣(中村家)跡があった。また地元の細江仏教会の僧侶数人が、墨染めの衣と笠を被って、読経を唱えながら、家々を托鉢してくるのに出会った。胸には『義援托鉢』と掛かれた袋を下げていた。案内書にも出ていた古い家並の一軒に、『名倉屋』と出ていた。
『犬くぐり道』は、地元の人が気賀関を避けて通った山道である。莚を一枚垂らして、その下をくぐり抜けさせたという。地元民だけには目こぼしされていたのであろう。しばらく『犬くぐり』を説明するに『犬ばしり』と話していたようで、赤面の至りである。家の間の細い道を少し登ってみた。コンクートで固めた一メートル足らずの山道で、先にお墓があった位で、何もなくすぐに引き返した。
『犬くぐり』の向かいに『獄門畷』の碑があった。桶狭間の合戦のあと、今川方に付いていて守りを固める堀川城を、徳川家康が攻め落とし、ここで女も含め堀川城関係者七百余人を処刑し、首級を小川に沿った道にさらした。碑には『堀川城将士最期之地』と刻まれていた。
金地院道との分岐点に、金地院道道標と共に、道祖神と伝えられる男性のシンボルを思わせる、人の背丈ほどの自然石が立っていた。
最初の小さな峠を越えて里へ下りた所に『吾跡川柳』の標識があり、百五十メートルとの案内につられて行ってみる。川縁から百メートルほどの木道を行くと、『吾跡川柳』の地は小さな池になり、側に柳の木が一本植えられていた。案内板が消えてしまって良く読めなかったが、帰宅後調べたところでは、かってはここに古い街道が通っていた。吾跡川柳は万葉集に次のように詠まれていて、この地にあったとされている。
霰降り 遠江の吾跡川柳 刈りつとも また生ふとふ 吾跡川柳
二つ目の峠を登る途中に、木立が残っている場所があり、『山村修理最後の地』という碑があった。一瞬、山村振興事業が最終的に終わったことを記念した碑かいなと思った。実はそこは、堀川城の城将の一人、山村修理がこの地まで来た時に、堀川城の落城と処刑の事実を知り、切腹して果てたといわれる場所であった。側に『修理殿松』があったというが、見当たらなかった。枯れた太い木が切り掛けのままおいてあった。それがその松だったのかもしれない。休憩の間に臼さんがキジ打ちに行く。
峠の頂上と思われる所に、東山田一里塚跡の石碑があった。案内板に次のような川柳が書かれて苦笑を誘われた。
くたびれた やつが見つける 一里塚 誹風柳多留
再度里へ下りた所に、『ダイダラボッチの足跡』と案内板の出た小さな池があった。ダイダラボッチは伝説上の巨人である。琵琶湖も富士山も無い時代に、高い山を造ろうと思い立ったダイダラボッチは、琵琶湖の地を掘りモッコに土を入れて運んで、富士山を造ったという。東海道沿いの各地の窪みや小さな山に、そのときに出来た足跡やモッコから零れた土だという伝説が残っている。
ちなみに、この『ダイダラボッチの足跡』は、北側の標高四三三メートルの尉ヶ峰に、腰掛けて休んだ折りに、足を置いた場所だという。この伝説群は荒唐無稽ではあるが、昔から東海道が東西交通に重要な役割を果たしてきたことを示すものとして大変興味深い。
三つ目の峠にかかり、道路の南側に姫街道一番といわれる、浜名湖北東部の素晴らしい景色が広がった。改修された道路の脇に、『姫街道 清水みのる』という新しい文学碑が建てられていた。
尋ねようもない/幾歳月の流れの中で/姫街道は/今も息づいている
三度目に下りた里には、天保六年再建の薬師堂があった。小さいながら宝形造の薬師堂は、引佐峠のふもとにあって、姫街道を行き来した旅人の休憩所として利用されたという。我らもその縁側を借りて休憩を取った。
(姫街道2日目つづく)
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