自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(1)
何しろ目立つ花だから
21日散歩に出たとき見付けて
2026.4.29
自分古文書と言いながら、今回取り上げるのは自分の書いたものではない。学生のころ、お世話になって、自分の書く文章に少なからず影響を受けた大先輩である。
この文が送られてきた昭和48年、自分が静岡から金谷に住居を移したので、こんな文章を書いてくれたのだと思う。当時の経緯は覚えていないが、この頃、古い写真を探していて、この文章を見つけた。
本人は、今はかなりの高齢で、もう音信不通になっているから、こんな古い文をここへ載せるについて、了解をもらっているわけではないが、聞けたならおそらく了解をくれたものと思う。小澤寛峰氏は大変魅力的な人物で、何れ詳しくその人となりを紹介する機会もあると思う。
自分の山行記や旅の記録などは、小澤氏から大きな影響を受けていたと、今更に感じる。とにかく、「島田市北方の山々」読んでいただければ幸いである。
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島田市北方の山々
小澤寛峰著
島田市北方の低山へは、これまで四度入った事がある。しかも同じ季節、それも同じ十二月にてある。自分には全く珍しい事であった。こんな事は、静岡市も極く近辺の山、日本平以外にはない事であった。それは自分には、この山行きが前三回共、殊にも素敵であったが為であった。
第一回目は、昭和四十三年十二月二十一日であった。その頃はまだ登山という事も知らず、たゞ自然を恋して、少しづゝ山へ心が向いている頃であった。その年の十一月には、達磨山や、鵜山七曲りの大井川縁りを歩いて楽しかった。末だズック靴で、五万分の一地図も購めぬ頃であった。
この第一回目の時は、千葉山智満寺へ行くつもりであった。しかし島田駅を下りてみると、その途中迄の天徳寺行バスの発車まで、かなりの間があった。そして直きに出るのが、川口行のバスであった。五万地図に比ぶれば大ざっぱではあるが、静岡県地図で見たら、川口とは大井川もやゝ遡った所で、智満寺とは山二つほど裏手に当る所であった。順調に行けば、そこからでも智満寺まで行かれそうであった。自分は川口行バスへ飛び乗ったのであった。
バスは大井川左岸を遡った。初めての所なので、大井川の風景が面白かった。川は寒々としていたけれど、小禽なども飛んでおり、枯草が風に靡き、波が荒く立っていた。又快晴の空の対岸には榛原の山々、北方には奥大井の山々が見えて蠱惑的であった。
川口は、伊久美川の下流で、大井川からは左岸の山合いへ少しく入った所である。バスを降りてから、やや高台に山寺があったので、先ず行ってみた。こゝのお寺は、自分がかって勤めていた某団体に関係していて、住職はこちらからは向うをしらなくても、向うからは自分を知っているかもしれない事を思い出した。自分はなべて和尚さんが大好きだから、寄って話してみたい気に駆られたが、我慢して(孤独に徹する事にして)参拝のみに済ませた。
大変な風であった。寒い北風である。一吹きで身体の芯の熱まで持って行ってしまう風であった。家を出る時、上下、もう一枚づゝ厚手のシャツを着ようとしたが、身体が重くなって行動に不便でも、と思って止めた。これでは着て来るのであった。しかし又、寒いと云う点を除けば、何とも爽快であった。痛快ですらあった。目の下の、集落の家々の、屋根よりも遥かに高い所を、木の葉の群が、一団、又一団と、矢のように飛んで行く。風に乗り損ねて、パラパラと落ちる葉もある。と思うと、とんでもない地点から、一陣舞い上る落葉群もある。木の葉は恰も鳥のように飛ぶ。又事実、木の葉の合間には、小禽の群も疾駆して行った。
川と渓との合の子のような、伊久美川を遡って行った。川原は所々行けなくなるので、浅い水を渡っては、岸を変えて歩いた。いかにも冷たい冬の水であった。
なか/\よい所であった。自分の好みの所であった。一面の枯草の原や、枯芦の原や、楊が混じっている川原もあったり、向う岸にも、山の崖を背に枯柳の叢林のある所もあった。
相変らず風は強い。空を駈ける木の葉、低空を飛ぶ川千鳥、自分も風に押され、風に逆らひ、気侭に歩いた。
(続く)
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