自分古文書(17)東海道五十三次ウォーク(静岡県二十二宿)(30)
東海道ウォーク10日目を続けよう。
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現代の天竜川は車では難無く渡ってしまうが、歩いて渡ろうとすると、渡し船はもちろん無く、旧道にも国道にも歩道の設備がない。車がスピードを出して行き来する車道に、白線だけで仕切られた1メートルほどの路肩を、身を縮めるようにして歩くしか無かった。
船で優雅に渡った昔より、現代の方がはるかに難所である。これほど広い川の橋にしっかりした歩道が無いのは、知るかぎりでは天竜川だけである。自転車もここを通ると思うと随分危険な道路である。新天竜川橋を一列にやっとの思いで渡り、右岸を少し下って『天竜川木橋跡』の標識の下の六所神社でゆっくり休憩を取った。
旧東海道は神社下をまっすぐ西へ、浜松宿へ進む。旧街道を挟んで、金原明善の生家と記念館があった。金原明善は『暴れ天竜』のそばで、大地主の家に生まれ育った。明善36歳の年、明治維新直前の慶応四年に大洪水が起こり、天竜川下流域の120ヶ村が、3ヶ月も水浸しになって、人々の暮らしに大打撃を与えた。
その体験から、明善は天竜川に堤防を築くことを思い立ち、全財産を投げうって、工事に取り掛かった。先頭に立ち働く明善の姿に感銘を受けた、多くの人々の協力と、国からの援助で、25年かかって36キロの堤防が完成した。明善はさらに流域の山々に300万本もの植林をし、洪水の元を絶つ事業を続けた。そして大正12年、91歳でなくなった。明善は教科書にも取り上げられ、地元では有名人である。
記念館には明善ゆかりの品々が展示されていた。中には借金証文の束らしいものもあった。鈴さんはそれを見て、「高利貸しもやって、借金のかたに土地を取り上げたりしたんだろう」と話した。弁護する訳でもないが、少なくとも前半生の明善には、そんな余裕は無かったように思う。借金証文が高利貸しの手に残っていては商売にはならないから、おそらく自分が借りた借金証文なのだろう。ともあれ、黒塀に囲まれた生家は、間口が随分広くて、大地主であった往時が偲ばれた。
浜松市天竜公民館は休館日と覚悟して訪れたところ、開いていて、『東海道』スタンプ『浜松宿』が貰えた。
東海道スタンプ「浜松まつり」
真っ直ぐ続く街道の向こうに、浜松の新シンボル、アクトシティのビルが見えていて、なかなか近づかない。浜松は激しく戦災を受けて、往時を偲ばせるものは何も残っていない。
淡々と下町が続く中で、珍しい秋葉灯を見つけて一休みした。柱を失ったのか、その部分に円柱のコンクリート柱を使用している。電柱を短く切ったものか、あるいは建物基礎に打ち込むコンクリート杭の切れ端のようにも見える。その先に浜松市植松原のサインがあった。
豊田町 4.8km →【浜松市 植松原】 → 浜松宿 1.8km
馬込川の馬込橋を渡る。意外と水が綺麗である。かっては汚れが酷いと報道されていたように記憶していたが、水草等が繁茂していて一見透明に見える。
(東海道ウォーク十日目、つづく)
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