自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(3)

 
有りし日の智満寺のイチョウ

2026.5.01

午後、駿河古文書会に出席する。ゴールデンウィークに入ったせいであろうか、随分出席率が悪い。テキストにオリジナル性がなくて面白くないのではと、少し危惧する。もう少し、テキストにする古文書を探す努力が必要だと思うが、そんな思いは自分だけであろうか。

島田市北方の山々の続きを載せる。

  ***********************************************************************

 結局、千葉山の頂上を左手に見つゝ、山を巻くようにして、この山の山腹にある智満寺へ出たのであった。この頃には、こゝ自体が山の懐だというばかりではなく、もう夕方で、薄暗くなりかゝっていた。40分ではとても歩けない道程(みちのり)であった。

 境内の紅葉は、早や散ってしまったものあり、散りつゝあるものあり、盛りのものもあった。だから却って、樹々のみか、大地も紅葉落葉でよかった。そんな中に、山を背にして、古い木造の萱葺きの、大きな本堂があった。古いと云って、本当に古く、みな素木で、年輪だの、そういった木目の所は凸(ふくら)んでおり、たゞの木肌の所は凹んでいた。風化されているのであった。(開基は千三百年前、現在の本堂は徳川家康が建てた)中はがらんとしていて、殆ど何の置物もなく、薄暗く冷え冷えとしていた。始口(しょっくち)の台の上に数本の水仙が生けてあるのが、こればかり生きているものかのようであった。聞けば、こゝの御本尊は、国指定重文千手観音という事であった。

 境内の紅葉落葉を踏み踏み行った。右手に、これも萱葺きの古い門(源頼朝建立)があった。その下には狭い急な石段が、ずっと下へと続いていた。南から上ればこれが正面の石段であったろう。附近には巨きな杉の樹が聳立していた。

 前方には、鐘樓があった。その向うには、黒い洒落た門があった。庫裏へ至る道であった。その黒門を一歩入ると、これは、一面黄落の世界であった。即ち一本の巨大な公孫樹(県指定天然記念物)が立っており、今しも九分通り葉を振るい落したあとで、その黄葉が、地面に堆高く積っているのであった。残り一分の葉も、今しきりに落ちているのであった。こうして、掃かれてしまっていないのも、何とも山寺らしく、有難く嬉しいものであった。黄落は自分の肩へも背へも、さかんに散ってきた。

(注)智満寺のイチョウはその後倒れて、今は失われている。

 さすがに「孤独に徹底」の趣旨もこゝでは切れた。庫裏を訪うた。まだ割に若い奥さんが出て来た。もう時間を過ぎていたが、心よく宝物殿へ案内して下さった。自分などが一人切りである煩も厭わず。

 宝物殿は、電灯がないようであった。奥さんは、一々窓を開けて下さった。しかし、山中の夕暮の外は、薄闇が迫って来ていた。相当貴重な宝物が数々あるようだったけれど、通り一遍に見て終わらざるを得なかった。よく見えなかったからである。若奥さんの気の毒がって、又ゆっくり来て下さいと度々云った。こゝの紅葉は遅くまであるのですねと云うと、こゝはうまく山の懐に抱かれていて、他がどんなに北風が強くても凪いでいるという事であった。そう云えば、今日一日風に吹かれて来たのであったが、こゝでは静かであった。だから暖かくもあり、紅葉も遅くまであるのであろう。

 先程の萱の門から、急な石段を下りた。萱門の直下には、も一つ同じく萱の屋根の二王門があり、小さい門脇の左右の部屋には、仁王さんが樓内も狭しと、夫々の姿態を執っていた。

 さてこの千葉山から、天徳寺までの間は、すっかり夜になっていて真暗であった。右手の道の下に谷川が流れている事が、気配だけで分るものであった。天徳寺に着いてみては、バス迄だいぶ間があった。後には、こういう時は少しでも先へ歩いて行くのだったけれど、この時はその考えも浮ばず、辛抱強く待った。天徳寺の境内を歩いてみたが、暗くて何も見えなかった。風は寒く、強く、冬の星が冷やゝかに光っていた。

 島田駅へ着いてからも汽車が三十分も遅れて来た。都合四十分間、歩廊の階段の蔭でしきりに足踏みをしつゝ待った。しかし深々と冷え込むばかりで辛かった。明くる日から自分は、大風邪を引いて寝込んでしまったのであった。

(続く)

コメント

このブログの人気の投稿

おたふく風邪と母子手帳/詐欺電話にご注意!

「かさぶた日録」改め「かさぶた残日録」開始

竹下村誌稿の事