自分古文書(18)小澤寛峰著「島田市北方の山々」(4)
2026.5.02
最近、若い人の間で、ダジャレが流行って、大学にダジャレを研究する講座もあると聞いた。60年前の学生時代、仲間内で毎日ダジャレを言い合って生活していたような気がする。寝る前に、布団の中で、今ならどんなダジャレを云うかと考えてみた。
「梅はうめーこと咲いたから、桜も今に咲くら。でも桃はもも一寸先か。イペーが咲いたらいっぺい(一杯)やろう。」
昔はダジャレももっと上手かったが、長く遠ざかっていたので、こんなものしか思いつかない。赦して下じゃれ。
世の中、ゴールデンウィークというが、われら年寄夫婦にはオールデンウィークでしかない。
「島田市北方の山々」の続きを載せよう。
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笠張山・菩提山
智満寺行は、こうして風邪を引く仕末であったけれど、日を経るほどに、あの枯色の濃い峡の岸辺、寒木立の山径、落葉の尾根径などの、その漂白(さまよい)が忘れられなくて、ぜひもう一度、同じ季節にあの辺りへ行ってみたいと思っていた。それが実現したのは、二年後の十二月五日であった。
この時は先回より数日早かったから、紅葉も当にしてゞあった。今度は藤枝からバスで、滝沢下車。不動峡を通り、滝の谷を経、笠張山へと目指した。千葉山よりは少々奥地である。
不動峡は元、名所であったらしい。その鉱泉は洪水で流されたとか、コンクリートの基石のみ、空しく残っていた。つまらない所であった。右に城山、左に小さい谷川というこの峡道も、今は短い電柱が、間隔も尠く立ち並び、これとは別に川の真上をも数条の電線が走っており、紅葉そのものは切角美しくても、俗景も甚しかった。おまけにこの道は、車が埃りもすさまじく通っていた。
滝の谷は、この峡最奥の部落である。こゝから三本の径が山へ上っていた。その一番左の渓沿いの道をとった。瀬戸川の一源流を遡るわけである。
途中、渓を外れて左方へ行くべきであったらしい。そうすれば、滝の谷峠の十字路へ出るのらしかった。その径が不明瞭だった為、更に渓について行ってしまった。渓はついに、細い高い滝に突き当たってしまった。(これが「滝の谷」のいわれだろうか。)戻るには入り過ぎていた。左手には取り着けなかった。苦心して右手へ取り着いた。急な所であった。樹に掴まり掴まり、息も休み休み登って行った。早くも精力は切れて、疲労が湧いてきた。しかしこの頃は登山も十分経験しており、登山靴でゞもあったし、何ら不安はなく、これしきの事には幾回も出会っているものであったから、楽しかった。
しばらくして、大きなガレになっている所へ出た。その辺からは付近の眺望が開けた。自分の登っている山も、やがて頂上であろう。見上げる上の方一帯は、びっしり雑木紅葉である。下辺とは筋を曳いたように、紅の世界となっている。そして相対する西方の山も、上部は尽く雑木紅葉であった。それは紅というより、橙がゝっている楢櫟の類の、今が真盛りと思われる紅葉であった。自分は力を得て又攀じ始めた。更に見上ぐれば、梢々はみな紅葉である。目を透して、鮮かなばかりである。自然の色彩の何たる華麗な事であるか。見上げつゝ、この今という時間が、過ぎて行く事が何とも惜しまれる思いがするのであった。
ようやく登り着いた頂上(そこ)が、笠張山だろうと思われた。地図にはその名が記してない。おそらく高尾山の直ぐ西隣の峯頭だろうと思われた。高尾山へも行ってみたかったが、今し方の登攀(とうはん)で意外と時間を取っていたので、思い返して道を菩提山、桧峠の方へと採った。
(続く)
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