「竹下村誌稿(解読版)」拾い読み 5 菊川宿の楚割(すはやり)
2025.8.4
竹下村誌稿には、竹下村の枠を越えて、近辺の東海道に残る数々の逸話も、余さず拾われている。
古いものでは、頼朝が初めての上洛の際、菊川宿(現、島田市菊川)に泊まった時の話も、262頁に書かれている。以下へ抜き書きする。
(十月)十三日甲午、遠江国菊川宿に於いて、佐々木三郎盛綱、小刀を鮭の楚割(折敷に居(お)く)に相添え、子息小童(こわっぱ)を以って、御宿に送り進(まいら)す。申して云わく、只今これを削り食せしむの処、気味頗る懇切なり。早く聞こし食すべきかと。殊に御自愛し、かの折敷に御筆を染められて曰く、
※ 楚割(すわやり)- 昔、魚肉を細長く切って干した保存食。削って食べる。
※ 折敷(おしき)- 檜のへぎで作った縁つきの盆。多く方形で、食器などをのせる。
※ 聞こし食す(きこしおす)-「聞く」と「食べる」の尊敬語。お聞きになって、お食べになる。
※ 自愛(じあい)- 珍重すること。
待えたる 人の情も すわやりの わりなく見ゆる 心ざしかな
※ わりなし - この上なくすぐれている。何ともすばらしい。
とあり。これ菊川の名の史に見えたる始めなりとす。
当時は、金谷宿はまだなく、大井川を初倉の宿へ渡って、菊川の宿へ向かったようである。
この話は「源平盛衰記」からの引用という。竹下村誌稿の著者は、数多くの書物に目を通していたことが知れる。渡辺家の現当主、ひ孫にあたる渡辺淳氏は、著者が毎夜、毎夜17年間も部屋に籠って、資料の読解と著作に励まれたと、ご家族から聞かれている。さもありなんと想像できる。
この記事に続いて、菊川の宿の話として、有名な中納言宗行卿や日野俊基朝臣の、菊川宿でのエピソードなども、記されている。(262頁・263頁)
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