自分古文書(7)「死の閃光」(5)終り
2025.9.24
まきのはら塾の事務局より電話があり、年明けの発表会の事を聞かれ、昨年並みの展示に加えて、一時間くらいのミニ講座をやることになった。テーマを考えなければならない。また、文化センターは10月一杯、避難所が長引いて使用できないことになりそうで、来月八日の分は相良のイーラに変更せざるを得ないかと思う。
自分古文書「死の閃光」を続ける。今日が最終回となる。
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保夫は夢を見ていた。そしてそれを夢だと承知していた。けれどもそのままに置くと現実になってしまいそうな気がしたので、何度もこれは夢なんだと自分に言い聞かせた。
そこは最近竣工したばかりの保夫の高校の講堂のようだった。鉄筋コンクリート造りで見るからに頑丈な頼もしい建物であった。人々はここなら大丈夫と思ったのであろう。次から次へと入ってくる。保夫はそんな気休めは信じない筈なのに講堂の中につっ立っていた。みるみるうちに堂内は人々々で埋め尽くされていく。窓という窓にはすべて暗幕が引かれていたので夜なのか昼なのかさえ解らない。小さい裸電球が数個細々と点っている。暫くすると人々の移動が止んだ。もう入るだけのものは入ってしまったのだろう。そして忍び寄る死と共に淡い望みと諦めと捨鉢の混じった異様な雰囲気が漂い始めた。講堂の底を陰鬱に流れるのは老人達の口から出る念仏の声だった。偶に天井に激しく打ち当たるのは若者の恐怖と絶望の叫号であった。唯嬰児の苛立たしい泣き声だけが生を主張し続けていた。保夫は夢遊病者のようにふらふらと堂内を彷徨いながら思った。・
〈一日持つか二日持つか。それにしてもこれだけ多数の死体にとっては格好の棺桶になるだろう。〉
しかし彼らは今はまだ不気味に蠢いていた。保夫はその一箇所にふと注意を引かれた。
「山岡!」保夫は駆け寄った。山岡誠一は青白い顔に嬉しそうに笑みを浮かべた。
「どうして君はこんな所にいるんだ。君は死んだ筈じゃぁなかったのか。」
これは夢なんだと思いながらもやはりそう尋ねざるを得なかった。
「そうさ僕は死んだんだよ。葬式のとき君は弔辞を読んでくれたよね。よく覚えている。『山岡君。どうして君は黙って死んでしまったんだ。一言、‥‥一言‥‥』弔文をそこまで読んだとき君は堪えきれずウウウッと僕の柩の上に泣き伏してしまった。僕はもう少しで薬を飲んだことを後悔しかけたものだった。でも心臓は完全に止まっていた。そうさ死んだんだ。そして君の目の前のここに今いるということも紛れもない事実だがね。」
保夫は誠一の死以来ずっと抱いていた疑問を思い出した。
「僕は君に一度尋ねたかったんだが、死ぬってことは本当にそんなに恐ろしいことなのか。」
「そうさね。生きているうちは人々は何か生と死の対立して相容れない二つのものがあると信じている。そしてそこから恐怖が生まれる。でも本当はたとえば僕が今ここにいる、死んだ筈の僕がだよ。ということはもしかしたらここにいる人達、もちろん君も含めてだが、もうすでにみんな死んでいるのかもしれない。それくらいなものさ、死なんて。」
保夫はそれを真理だと思った。そしてそんなことはもう随分昔から知っていたような気がした。
「じゃぁまたね。」誠一は手を上げて暇を告げるとくるりと背を向けた。
「おい、どこに行くんだ。まだ話したいことがあるんだ。」
「いや、パートタイムでね。」誠一は一寸振り返りニコリと笑って言うと、スタスタと五、六歩歩いてふっと消えた。保夫は唖然と見送ってやはりこれは夢なんだと思った。
誠一の消えた方向のずっと向こうに赤いものがちらちらと動く。保夫はそれにじっと見入った。そして手繰り寄せられるようにその方向に歩き始めた。赤いものは服だった。そしてそれは女だった。
「真奈子!」叫びそうになって保夫はぐっと言葉を呑み込んだ。胸は保夫の心を正確に映して高鳴り始めた。
真奈子は黒い暗幕の前に佇んでいた。いつでもクルクルとよく回る真奈子の大きな目は酷く怯えて左手の暗闇の一箇所に据えられている。
〈真奈子のあんな目を見るのは初めてだ。いったい真奈子は何に怯えているのだろう。〉
暗闇に何がいるのか保夫には見えなかった。そのとき闇がすっと動いて、そこからがっちりとした体躯の男が現れ一直線に真奈子に近づいた。男は一瞬こらちを向いてニヤリと笑いながら舌舐めずりをした。真奈子は金縛りに会ったように動かない。そして男に両肩を掴まれると懶そうに上体を仰け反らして抵抗した。保夫は逃げ腰になるのをぐっと堪えた。
〈何からの逃走だ。死? 命が欲しいのか。もう数日と持たないこの命が。保夫、今こそ絶好の機会ではないか。闘え!あの古き良き時代の若者のように闘って死ぬのだ。〉
保夫は不思議にもう逡巡を感じなかった。しかし猪のように突進しながらも一瞬これは夢だからなという心が過った。奇声を発しながら勢い良くむしゃぶりつくと、頭から背中からこれでもかこれでもかと殴りつけた。殴りながらほとんど自分を殴っているように錯覚した。
「なっ! なっ! 何しやがんでぇ。このやろう。放しやがれぇ。」
男は真奈子から離れて保夫に向かって来た。保夫は自分でも驚くほど力が出て男を窓際まで押し詰めた。男の唇が奇妙に歪んだ。とその時、保夫は左腹部に異物の侵入を感じた。痛いというよりは少し不愉快であった。異物は腸を正確に切り裂きながら右へ移動した。異物が引き抜かれたとき保夫は譬えようもない不安定さと懶さを感じてそのままその場に倒れた。そしてほっと安心した。
〈なる程これが死だな。誠一の言った通りだ。でもやっぱりこれも夢なのかな。〉
保夫の目に赤いものが映っていた。血の色なのか、服の色なのか。しかし保夫はそれが取り縋る真奈子の服の色だと信じた。口をきこうとするが声が出ない。保夫は心で叫んだ。
〈真奈子さん! 見て下さい。出て行く。出て行く。とうとう《僕》が出て行く。負け犬のように尻尾を巻いて。ついに僕は勝ったんだ。あなたはもう意気地無しとは言わないでしょう。意気地無しとは‥‥‥〉
翌朝保夫は朝日の当たる縁側に坐って庭を見ていた。
「ほほう、キューバ危機解決か。まずこれでひと安心だ。なあ保夫。」
部屋で新聞を広げていた父が声をかけた。
〈そしてそこでまた『ふりだしへ』か。〉
保夫は大きく溜め息をついて父に言った。
「昨夜はよほど降ったの。」
「うん酷い降りだったな。秋にあんな雷雨は珍しい。」
「だからだ。父さん、菊が沢山倒れてるよ。」
「なにっ? どれどれ。」
父は保夫の肩越しに覗いて慌てて庭に下りて行く。保夫は立ち上がって空を仰いだ。雨上がりの空は抜けるように青かった。
ー 完 ー
(昭和42年9月)
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